1マヒルが消えた日
「マヒル?マヒル気がついたの?大丈夫?」
「......」
「ずっと眠ってたんだよ!どうしたの?声が出ない?」
「お前、は。いや、わかる、お前のことはわかるんだ」
「マヒル......?」
「――オレは、誰だ?」
━━━━━━
マヒル 25歳 6/13生まれ、男性
・身長188センチ Evol:引力制御
・遠空艦隊 執艦官
・私の義兄
・飛行機が大好き
・プラモデル作成、Xスポーツが趣味
・料理が得意
・学生時代から成績優秀
・両手利きで、双銃使い
・パクチーが苦手
「……それだけか?」
「他にもあるけど……でも、口に出せる事が思ったより少ないの」
「どういう意味だ?」
「誰かさんが秘密主義者だからだよ。昔の話はたくさんできても、〝今〟の事は知らない事だらけなんだもん」
「そうか……」
病室のベッドの上で項垂れた、彼の背中が小さく見える。その姿は唯一傍にいる彼女の胸をちくりと刺して静かな痛みを残した。
――マヒルは記憶を失っている。
数日前に一ヶ月に及ぶ長期任務に赴いた彼。しかし、その終わりを待たずして義妹であり恋人である彼女のもとへ緊急連絡が届いた。それが意味するのは、ただ一つ……彼に〝不測の事態〟があったということだ。
遠空艦隊専用の病院に駆けつけた彼女は、白い包帯に包まれたマヒルの姿を見て、思わず血の気が引いた。
その後命に別状はないと聞かされ、胸を撫で下ろしたが、マヒルが昏睡状態のまま数日を過ごすしかなかった。
目を覚ました今、彼は――彼自身を、彼女を“愛した記憶”をまるごと失っていた。
自分が誰なのか、何をしていた人なのか。過去も、現在も全部を消去されてしまっている。妹・恋人との思い出も。
唯一彼の中に残っていたのは、「妹」という認識だけだった。
“恋人”という関係は、長い歳月と苦悩の果てにようやく得たものだったはずなのに。
失ったものの重さを幾度となく噛み締めてしまい、彼女も同じように俯いた。そんな彼女を見た彼は眉を下げた。
慌てて顔を上げたものの、柔らかな頬を伝った雫が陽光を弾く。
マヒルの視力は非常に良い。これを見逃すはずもなく、あたたかな指先が彼女に差し伸べられた。
「なぁ、どうして泣い……」
「あ、あの!そろそろお昼ご飯だから、お茶の配膳があるの!マグカップ洗ってくるね」
彼女は慌てて立ち上がり、差し伸べられた手を避けて病室を飛び出した。
廊下の突き当たり、窓辺の桟をつかみながら震える足を『立て』と叱咤する。
――記憶障害はいつ戻るかわかりません。急激なショックを与えれば、永遠に記憶を取り戻せなくなる可能性があります。不用意に情報を与えないようにしてください――
医師が放った言葉は、彼女の心に鋭い刃を突き立てた。記憶が戻るまではマヒルが仮定した『妹』として振る舞わなければならないのだ。つまり、恋人としての自分を封印しなければならない。
元々距離の近かった義兄妹はキスもハグも常習化していたが、記憶喪失である『兄』は今や世間一般的な『兄』となっている。
義兄妹としての距離はもとより近く、キスもハグも当たり前だった。
けれど今、彼が見ているのは〝一般的な妹〟としての彼女だ。
兄となったマヒルの視線からは、かつて確かに感じられた『恋慕』の色が消えていた。
この段になって妹はようやく気づく。兄である彼を、妹である自分もまた随分昔から同じ気持ちを持っていたと言う事を。
――義兄妹は、互いに『家族ごっこ』を長い間演じてきたのだと。
━━━━━━
「ただいま、なんて。天行のお家は久しぶりだね」
指紋認証で電子ロックを解除し、自宅のドアを開けた。表示されたデジタル時計は22:30を示している。
面会時間を終えた後、彼の着替えや身の回りの物を取りに来た。仮眠を済ませて早朝にでも荷物を届けるべきだろう。
けれど、どうせ眠れない。掃除や郵便確認をし……ふと思い至る。
――今なら、彼の〝秘密〟に触れられるかもしれない。
恋人になっても、彼にはまだ沢山の秘密がある。遠空艦隊の内実、改造された体、埋め込まれたチューリングチップ、怪しげなバイパーやルイ教授という人物との関係......マヒルは私が敵と認知している側にいるのか、それとも。
彼女は深い思考に入る前に『まずはやる事をやらなきゃ』と思い出した。
脱いだ靴を玄関に揃え、ふわふわの白いスリッパに履き替える。横に並ぶのは布製で硬く縫製された彼用のスリッパだ。
兄が妹に用意してくれるものは全て柔らかく、温かく、かわいいものばかりだ。それは恋人となっても同じだった。
リビングのライトをつけるとモノトーンで統一された空間に不釣り合いな色彩達が浮かび上がる。
赤いリンゴのぬいぐるみ、二人で育てた花で作ったドライフラワー、カラフルなシュシュ入りのボックス、厳しい飛行機のプラモデルカバーには似つかわしくない花柄のシールが貼られていた。
ソファーの上には彼が使うことのない豹柄のブランケット、柔らかい枕と目を閉じた刺繍が入ったファンシーなアイマスクがある。
どれもこれも、一人で眠る為の家ではなく、二人で過ごす温かい家に変えてきた証だった。
勝手に動き始めた足が、バスルームへ向かう。
お揃いの歯ブラシ、喧嘩しながら選んだ歯磨き粉、化粧水、ヘアピン、いつからか使い始めたケア機能付き家電にヘアアイロン。
何種類もあるくしやシャンプー、リンス、ボディーソープ……ハンドタオルに至るまで全てが彼女のために用意されている。
弾かれたようにバスルームを出て、向かったのは寝室。ドアを開くと自動照明が天井に夜空の星を映し出す。
一つ、一つと星座がピックアップされて、毎晩囁かれた甘い声が蘇る。
――黄道12星座は、天球上の太陽の通り路『黄道』に沿って並んでいる。牡羊座が最初だ、これは天文学の春分点が牡羊座にあったから起点となった。
今は魚座だけど、昔はそうだったんだ――
――蛇遣い座?そんなのいらないだろ。一部が横道に被ってるからってデカいツラしてるが、アレは12星座には入ってない。オレは認めないぞ――
――次は双子座だ。……いつもここで眠そうにしてるな。目を閉じろ。お前が眠っても、最後まで説明してあげるから――
星座の説明の途中でいつも眠ってしまう彼女を腕に抱き、彼は決まって最後まできちんと説明してくれる。毎晩同じ話を繰り返しても、聞けるのはそこまで。
そして、12星座の説明が終わる頃幸せそうに微笑んだ彼は額にキスを落とし、夜航任務に出掛けていく。
時には星座の話ではなく飛行機が駐機場に降りてくるのを寝かしつけの呪文のように……『束の間のお別れの儀式』として唱えた。そして、終わる頃に眠った彼女へキスをくれるのが決まりだった
一緒に眠れる時は少なくても、離れている時間を不安に思わないように……誠心誠意を尽くしてくれていた。
どんなに仕事が忙しくても、疲れていても、心が荒れていても。彼は2人が共にいる時間を大切にしてくれていた。
それは、物心つく前から繰り返された毎日であり……生きてきた時の積み重ねだ。今日からはそれが、なくなってしまう。
ベッドに横たわり、天井の星空を見つめていると涙が頬を伝う。
「……もう泣かない。不安なのはマヒルの方なんだから、私がしっかりしなきゃ……」
そう固く心に誓った彼女の瞳には、双子座の星影が映っていた。