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「私の父ですわ」
そこにいたのは厳格そうな雰囲気を漂わせた、細身の中年男性だった。セリーヌの父、バーデン男爵ということか。
「ここは私の父が経営している宿です」
そういえば、セリーヌもそんなことを言っていた。最近では高級宿の経営に手を出していると。
「セリーヌはどうしてここにいるの?」
「私は父の面会があり、外出許可をいただいていたのですわ」
……ということは、攫われたとか、誘拐とかそんな話じゃなかったってこと!?
私は自分の早とちりにガクッと肩を落とす。
なんだ、心配することなかったじゃない、ホッと胸をなでおろす。
――ん? 待てよ。
なぜフレデリックとセリーヌの父が一緒にいる? そもそも知り合いだったのだろうか?
疑問が頭に浮かぶと、入り口にいたフレデリックがゆっくりと扉を閉めた。
「これで約束は果たした」
「ははっ、そうですな」
フレデリックとバーデン男爵の会話についていけず、二人の顔を交互に見比べる。
同じようにセリーヌも事態が把握できずにいるようで、困惑した表情を浮かべる。
フレデリックがニッコリと微笑む。
「さて、ラリエットはこの部屋で朝まで時間を潰そう」
「は?」
私が? なぜ?
「そして明朝、この街から船に乗り、隣国スローンを目指そう。愛の逃避行さ」
バカなこと言っているんじゃないわよ‼
誰かこのバカ止めてくれ‼
セリーヌが目をパチパチと瞬かせている横から、バーデン男爵がズイッと前に出た。
「ラリエット嬢、君がフレデリック殿と隣国へ旅立ってくれたら、うちにとって都合がいい」
「ど、どうしてですか?」
初対面のバーデン男爵にとって得になることなど、なにもないじゃない。
「ラリエット嬢、君はゼロニス様のお気に入りだと聞いた」
一瞬、凍り付いたように体が動かなくなる。
「だから私としても、君がフレデリック殿と出て行ってくれた方が都合がいいのだよ」
信じられない、二人は手を組んだということ!?
手で口を抑えたのは、叫びそうになったからだ。
「お父さま⁉」
だが私の代わりにセリーヌが叫んだ。
「なにをおっしゃっていますの?」
責めるような口調にバーデン男爵は鋭い視線を投げた。
「黙るんだ。セリーヌ、お前はロンバルディ家の婚約者の座をあきらめるな!!」
ひどい、セリーヌが言っていたとおりだわ。
ロンバルディ家の婚約者になれと圧がすごくかかっていると。
「噂を聞いたんだ、ラリエットがロンバルディ家の婚約者に選ばれそうだと」
フレデリックは知っていたんだ。だからこそ、強引な手段に出たのだろう。
「なんのために留学に行ったと思っているんだ、僕が迎えに行くつもりだったのに!!」
フレデリックは急に声を荒げる。
「だが、隣国に行けばもう邪魔する者はいない。あの窮屈なメイデス家から逃げ出して、自由になろう、僕たちで!!」
メイデス家が地獄だったのは両親もだけど、あんたの存在もでかいから!!
「――では、この部屋を自由にお使いください」
バーデン男爵は早々に退室しようと支度を始めた。
いや、ちょっと待って。焦っているとセリーヌとパチリと目が合った。
セリーヌは目に力を入れ、小さくうなずいた。
「お待ちください、お父さま」
背筋を正し、凛とした声を出した。
「なんだ、セリーヌ」
有無を言わせないような圧をかけるバーデン男爵に、セリーヌはごくりと息をのんだ。
ああ、怖いわよね、小さい頃から押さえつけられてきた相手に逆らうのは容易ではない。
次の瞬間、セリーヌは堂々と顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます、お父さま。私も、ゼロニス様に相応しいのは自分だと思っていたのですわ」
え……。
聞こえてきた言葉を頭で整理しようと、激しくまばたきをする。
「この機会にゼロニス様の心をがっしりとつかんでみせますわ!!」
力強く宣言したセリーヌにバーデン男爵は満足そうにうなずいた。
「それでこそ、わが娘だ。次こそ、父を失望させるなよ」
「はい、必ずしや期待にこたえてみせます」
これは、私の知っているセリーヌなの……?
震えながら呼吸した。
喉の奥からヒューヒューと変な音が出た。目の前の光景が信じられず、何度も目をこすった。
セリーヌと目が合った。
だが、いつも優しく微笑んでくれていたセリーヌはそこにはいなかった。
なぜならすぐに視線を逸らされたからだ。
「行きましょう、お父さま」
「ああ」
セリーヌとバーデン男爵は共に振り返りもせず、部屋から出て行こうとする。
「ちょっと、待って、セリーヌ‼」
手を伸ばすと、セリーヌは視線を投げた。
冷たい視線が刺さり、全身が硬直する。
「あとで世話をするメイドを一人寄こしますわ。それまで大人しくしていてください」
セリーヌは面倒くさそうに肩を上げた。
「見張りもかねていますから、逃げようと思わないでくださいね」
辛辣な台詞吐き捨てて、父親と共に部屋から出ていった。
「メイドなんて不要なのに。せっかくの二人きりの時間を」
横でフレデリックがブツブツと言っているが、耳に入らなかった。
――あまりにもショックで。




