氷の女王が微笑んだら
読みに来てくださってありがとうございます。
途中で視点が変わります。
また自死に関する表現。叙述があります。
苦手な方はお戻りください。
よろしくお願いいたします。
私たちは、同じ女学院で学ぶ同級生でした。学園は男女ともに在籍していましたが、娘に恋愛をさせたくない貴族は、娘を女学院に通わせるのが通例でした。上位貴族の娘であればあるほど女学院に進み、結婚相手を探したいと思うような貴族の娘は学園を選ぶ、そんな風潮がございます。
女学院の同級生の中にひときわ美しく、優れた能力と強い忍耐力で誰からも尊敬される方がいました。ジーヴル侯爵家のご令嬢コランティーヌ・ネニュファール様です。
コランティーヌ様の唯一の欠点があるとすれば、それは彼女に付けられた「氷の女王」という呼び名が全てを表しているのではないでしょうか。
見事なまでに美しい金髪とサファイアのような青い瞳に、どこまでも白く透き通る肌。プロポーションはまるで人形のようで、すっと伸びた背筋も、鍛えられた体幹でしか不可能なぶれない歩行と美しいカーテシー。「歩くマナーブック」とも呼ばれるほどマナーに精通し、女学院入学以来主席をとり続けた才媛でありながら、乗馬や刺繍、装花、絵画、詩歌、音楽といった実技の全てが、教師でさえ自分の模範とするほど優れた方です。
それなのに、全く笑わないのです。微笑みさえしません。せっかくの美貌がもったいない、と思う女学院生は少なくありませんでした。笑わないこともあって、近づきにくいと感じていた人が多かったのも事実です。
そんな私たちには、夢がありました。年に一度、「学園」の生徒と社交とお見合いを兼ねた合同パーティーが開かれるのですが、そのパーティーでコランティーヌ様の良さを「学園」の生徒たちに知ってほしい、願わくば卒業したら立太子が決まっている第一王子にコランティーヌ様を選んでいただきたい、そんなことを考えてしまったのです。
コランティーヌ様は、最初から拒否なさいました。
「第一王子殿下は、外国の王女殿下を王妃となさる可能性が高いと言われています。政治的判断で結ばれるべき王族の婚姻に、あなた方の趣味嗜好を持ち込むべきではありません」
「ですが、コランティーヌ様、この国で第一王子殿下の妃として最もふさわしいのは、コランティーヌ様しかいらっしゃいませんわ」
ぞっとするほどの冷たい眼差しで、コランティーヌ様は私たちをたしなめられました。1年生だった私たちは、コランティーヌ様の仰るとおりかもしれないと考え、「仕込み」なしでその年のパーティーを迎えました。
兄弟が「学園」にいるという人もいますし、幼馴染みだとか、親戚だとか、寄親と寄子の関係だとか、様々な関係で顔見知りの「学園生」に会うこともあるパーティー。当然親から言い含められ、婚約者候補とのファーストコンタクトとしてこのパーティーを利用する人も少なくありません。かくいう私も、伯爵家嫡男のクレマン様との正式なお見合いを控えており、このパーティーで正式にお見合いを受けるか決めるようにと両親に言われていました。
クレマン様は穏やかな方でした。輝くような美貌ではありませんが、誠実さが人間の姿をしたらクレマン様になるのではないかと思うような人で、その穏やかな微笑みに、私はすっかり心奪われてしまったのです。
「ジェルメーヌ嬢、あなたとのお見合いをこのまま正式に進めてもいいだろうか?」
「はい、クレマン様。是非よろしくお願いいたします」
夢見心地の私の目に飛び込んできたのは、クレマン様の向こう側の壁に並び立つようにして立った一人たたずんでいるコランティーヌ様の姿でした。
私はコランティーヌ様に誰も声を掛けないことが不思議でなりませんでした。クレマン様がいらっしゃらなかったら、私がコランティーヌ様の傍に近寄ってお声をおかけしたと思います。ですが、今日はクレマン様との会話を何よりも大切にしなければなりません。私は常にコランティーヌ様の様子を目の隅に置きながら、クレマン様との会話を楽しみました。
楽しい時間は過ぎました。コランティーヌ様は、誰とも一言も会話なさらなかったのです。私は思わずクレマン様にお尋ねしてしまいました。
「あの、クレマン様。あちらにジーヴル侯爵家のコランティーヌ様がいらっしゃるのですが、コランティーヌ様のことはご存じですか?」
「ああ、『氷の女王』だね」
「『氷の女王』?」
「笑わない人だって聞いている」
「ええ、笑ったお顔を拝見したことはございませんわ」
「そうかい。心も冷たいから婚約者がなかなか決まらない、なんて噂もあるよ」
「いいえ、大変優秀で、誰からも尊敬される親切で優秀な方ですわ」
「そうなのかい? 学園での噂とは随分違うんだな」
「学園での噂、ですか?」
「見た目も中身も氷の女王だって。だから、誰も彼女と結婚相手として見ない」
「そんな、ひどい! コランティーヌ様がそんな人じゃないってどうすれば伝わるのかしら?」
「ジェルメーヌ嬢は優しいんだな」
「いえ、ただコランティーヌ様の良さを理解していただきたいだけですわ」
その時の私は、本当にそう思っていた。それ以外に何の邪心もなかったのに。
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私たちはコランティーヌ様に、何度も笑えばいいのにと申し上げました。パーティーの時のクレマン様の話を持ち出し、コランティーヌ様の良さをアピールしないと縁談がこのままでは来ない可能性がある、とお伝えしました。
ですが、コランティーヌ様は、首を縦に振ることはありませんでした。「大変なことになるから」とだけ仰って。
私はその頃、クレマン様と正式に婚約が成立し、有頂天になっていたのだろうと思います。結婚こそが女の幸せだと、本気で信じていたのです。コランティーヌ様にとって私たちの行動はお節介を通り越していたでしょう。
一つだけ、いいわけをさせてください。コランティーヌ様の良さを男性たちに理解して欲しいと願う女学院の生徒は、私たちだけではありませんでした。本当に、コランティーヌ様に幸せになっていただきたかったのです。コランティーヌ様を推したかっただけなのです。
いつしかコランティーヌ様は、孤立していきました。なぜコランティーヌ様は善意を受け取らないのか、そんな空気が女学院を覆っていったのです。
2年に進級しても、その空気が変わることはありませんでした。ある日コランティーヌ様が私に近づいていらっしゃいました。
「わたくしを孤立させて、楽しい? 2番のあなたが1番になれた気がするのかしら?」
私は驚いてコランティーヌ様を見ました。そんなこと、本当に少しも思っていなかったのです。
「そんな! 私はただ、本当に、コランティーヌ様が理解されればってそう思っただけですわ」
「それが迷惑だというのよ」
「コランティーヌ様は、男性から逃げていらっしゃるの?」
ふとつぶやいたその言葉に、コランティーヌ様が息を呑みました。
「そうなんですのね! ふふ、男性はみな紳士ですわ。コランティーヌ様がお美しいからと言って無理に近づくこともしないでしょう? 賢いからと言って押さえつけることもしないでしょう? 何をそんなの恐れていらっしゃるの?」
なんだか急に、私はコランティーヌ様より上に立ったような気がしました。
「大丈夫ですわ。私にお任せくださいませ。そうだわ、今年の合同パーティーの時には、私の婚約者の友人を紹介します。まずはお友だちから始めるのもいいと思いますわ」
「あなた、本気で言っているの?」
コランティーヌ様の目は、氷点下にコートもなく外に出された時のような冷たさを宿していました。ですが、私も意地があります。
「では、賭けをしませんか? 次のテストで私が1番になったならばコランティーヌ様は一度でいいので、合同パーティーの場で微笑んでくださいませ。私がいつもどおり2番でしたら、二度とこんなことを言わないと誓いましょう」
「本当に?」
「ええ、本当に」
コランティーヌ様に何も起きなければ、きっと私が1番になることなどなかったでしょう。
ですが、テストの直前にコランティーヌ様のお父さま、ジーヴル侯爵が急死なさいました。侯爵夫人と急遽襲爵することになった兄上を支えて葬儀を済ませ、相続などの手続きを取り仕切ったコランティーヌ様に、テスト勉強などする余裕はなかったはずです。それに、テストの直前に学んだ範囲は忌引きで女学院にいらっしゃらなかったのですから、大いに不利だったのです。それさえ、私は天の采配だなどと思っていたのです。
結果は、1点差ではありましたが私が1番、コランティーヌ様が2番でした。
「コランティーヌ様、お約束をお忘れではありませんよね?」
得意気に言い放った私に、心労でやつれたコランティーヌ様はぼそりと仰いました。
「この国が滅んでもいいのね?」
「コランティーヌ様が微笑んだ所で、この国は滅びませんわ。むしろ、幸せに包まれることになるはずです」
コランティーヌ様は、もう一度だけ、虚ろな目で私を見ました。
「責任を取る覚悟はお有りなのね」
「もちろんですわ!」
ああ、これでコランティーヌ様の良さが多くの男性に伝わる!
私たちはウキウキとした気持ちで合同パーティーに臨みました。
「コランティーヌ様、こちらが私の婚約者のクレマン様ですわ。クレマン様こちらがジーヴル侯爵家のコランティーヌ様です」
「初めまして。クレマン・ピヴォワンヌと申します」
約束通り、コランティーヌ様は私の側に来て、クレマン様とそのご友人の集団に挨拶をしてくださるのです。コランティーヌ様の微笑みを想像すると、私は心臓の高鳴りが抑えられませんでした。
「止めるなら今ですわよ。本当にいいの?」
「ええ、微笑んでくださいませ!」
コランティーヌ様は一度俯いて目を閉じました。そして、ふわりと微笑んで挨拶のためにそのたおやかな手をクレマン様に差し出したのです。そのお美しさに、私は息を呑みました。
女神でした。いえ、愛の女神です。心臓が口から飛び出しそうになるほどの驚きと喜びが私の全身を支配しました。
「クレマン様、コランティーヌ様の噂は間違いでしたでしょう?」
クレマン様の方を見た私は、そのまま固まってしまいました。クレマン様は耳まで顔を真っ赤にして、その目は蕩けていました。
え? 何?
私の戸惑いにクレマン様が気づくことはありませんでした。
「コランティーヌ様のお噂はかねがね伺っていましたが、これほど美しい方でいらっしゃったとは。どうぞこの私の愛をお受け取りください」
そう言ってクレマン様は、まるで騎士が忠誠を誓う時のようにコランティーヌ様に跪いたのです。
「クレマン様? どうなさったの?」
「ああ、ジェルメーヌ嬢。あなたとの婚約はなかったことにしよう。コランティーヌ嬢を知ってしまった今、私はコランティーヌ嬢以外を愛せない」
「クレマン様、ちょっと、どうなさったの?」
「ああ、邪魔だ、退いてくれないか?」
クレマン様は私の手を振り払ってコランティーヌ様の手を取り、エスコートし始めたのです。私は何が起きたのか分からず、呆然としました。
「ねえ、何が起きたの? あんなにあなた一筋だったクレマン様があなたを放り出すなんて……」
「ちょっと待って、私の婚約者もコランティーヌ様に跪いているわ」
「え、私のお兄様も」
「弟が」
学園の男子生徒たちが、次々とパートナーの手を振り払ってコランティーヌ様の元にはせ参じています。女神のように美しく微笑むコランティーヌ様の前に、男子生徒たちが次々とひれ伏す様は異様でした。
「ねえ、これどうなっているの?」
「コランティーヌ様のお美しさにやられてしまったの?」
「それにしても、おかしくない?」
私たちが先生方に報告に行こうとした時には、給仕役も、男性教員も、各家で雇われている護衛の騎士までもが、コランティーヌ様の前にひざまずいていました。
「変よ、コランティーヌ様、何か薬か魔術でもお使いになったのかしら?」
「魔術なんてないし、薬を使ったなら直ぐ傍にいた私にも影響があるはずよ」
婚約者や兄弟に声を掛けても、彼らが女子生徒たちの方を見ることはありませんでした。誰もがコランティーヌ様を追い、我先にその手に触れようと争いが起きました。
「あら、喧嘩なさるような方は、私、嫌いですわ」
乱闘寸前の男子生徒に向かってコランティーヌ様が一言言うと、あっという間に静まりました。
異様な風景のまま、パーティーは終わりました。男たちがコランティーヌ様を馬車までエスコートしようと、いえ、エスコートしたくてもできずに、ただ後ろをついて行きます。
私は混乱したまま家に帰りました。
翌朝、私はお父さまから呼び出されました。
「クレマン君とピヴォワンヌの当主から、お前との結婚白紙の申し出が来ている。何があったのだ?」
「よく分からないのです」
私はお父さまに、昨夜の合同パーティーの話をしました。難しい顔をしたお父さまは、少し調べてくると言って外にお出かけになりました。
「お嬢様、あの……」
侍女が青白い顔をしています。
「私の兄が、昨晩からおかしくなってしまいました。兄を家に閉じ込めるために人手が必要なのでしばらくお休みをいただきたいのです」
「おかしくなったって、どういうこと?」
「高貴な姫君に一目惚れしたようで、そのお方のところに行くのだといって剣まで振り回すことさえあるようなのです」
「あなたのお兄様って確か……」
「はい、こちらのお屋敷で御者をしております」
この邸の御者は皆、護衛を兼ねて剣の訓練も受けています。厩舎の管理も行うため、他の邸より給金が高く、技術も身につくと人気のある職です。子爵家の三男という立場なので、上位貴族の家に仕えるか官吏になるか騎士になるか。さもなくば市井に下るしかない立場ゆえ、侍女の兄は真面目に働いてきた男でした。顔は十人並みでしたが、穏やかな性格はこの邸に勤める者に共通する美点でした。
「あの人が?」
「そうなのです。ですから、お休みをいただけますか?」
「分かったわ。あとは家政婦長に報告しておいてね」
「ありがとうございます。代わりに侍女見習いが二人来ることになっています。引き継ぎ次第、兄のところに参ります」
「ええ、早くお熱が冷めるといいわね」
私は気づきませんでした。その高貴な姫君がコランティーヌ様のことであり、昨晩私を送迎した馬車の御者が侍女の兄であり、馬車の順番待ちをしていた侍女の兄が遠目にコランティーヌ様を見ていたのだということに。
夕方、お父さまがお戻りになりました。すぐに執務室に呼ばれた私に、お父さまがおっしゃいました。
「ジェルメーヌ。お前、昨日のパーティーで何かあったか?」
「え……」
固まった私に、お父さまはため息をつきました。
「私が得た情報と照合したいから、包み隠さず話しなさい」
私はコランティーヌ様との賭けの話をし、コランティーヌ様が微笑みを男性に見せた所、男性たちが次々とコランティーヌ様の元にはせ参じてひれ伏したという話をしました。そして、その時にクレマン様から婚約はなかったことにしたいと言われ、目の前でクレマン様がコランティーヌ様に求婚するところを見たのだと説明しました。
「そういうことか」
お父さまは頭を抱えました。
「コランティーヌ嬢は今もずっと微笑み続けている。そして、その微笑みを見た男たちがこぞって婚約を破棄し、コランティーヌ嬢に求婚している」
私は驚いてお父さまの顔をまじまじと見つめてしまいました。
「馬車に乗る時は敢えてカーテンを開けて平民の男たちに微笑みかけ、平民の男たちが馬車を追いかけて大行列を作っている。兄の手伝いだと言って王宮に上がり、衛兵、官吏、料理人、庭師、出入りしていた貴族、みなコランティーヌ嬢を追いかけ回している」
侍女の兄の話を思い出しました。彼がおかしくなったのはコランティーヌ様を見たせいかもしれないと思い至りました。そして、コランティーヌ様があれほど微笑みを拒否なさったのは、こうなることが分かっていたからではないかとようやく気づいたのです。
「男たちがコランティーヌ嬢を巡って決闘が行われ、死者まで出始めている」
お父さまの目が厳しく私を見ています。私はそんな目でお父さまから見られたことはなかったため、すくみ上がってしまいました。お父さまは軍務副大臣です。軍人として前線でも戦ったことがあるお父さまを怖いと思ったのは、これが初めてでした。
「お前はこの国を滅ぼしたいのか?」
「いいえ、コランティーヌ様が正しく評価されず、男性たちから距離を置かれ、パーティーで一人壁の花になっていらしたのが許せなかった、それだけなのです! ただ、コランティーヌ様の素晴らしさを、男性たちに気づいてほしかっただけだったのに……」
立っていられず床にしゃがみ込んでしまった私に、お父さまが残念そうに仰いました。
「今日、私はコランティーヌ嬢を見ないことで難を逃れた。だが、いつまで見ないでいられるか分からない。偶然目が合ったら、もう私はこの家に戻らなくなるだろう。実際、多くの男たちがコランティーヌ嬢の後を追い、王宮に入れない平民は門の前で待ち続け、コランティーヌ嬢が出てくるとジーヴル侯爵家までついて行き、今は侯爵家の周りを取り囲んでいる。もし今の状態でコランティーヌ嬢が王を廃せと言えば、革命が起きるだろうな」
泣き出した私をに、お父さまは話は以上だと言いました。
「いや、もしお前にできることがあるとすれば……男たちを元に戻す方法を探すことだけだろうな」
私はなんとか立ち上がって執務室を出ました。お父さまも家令もお父さまの護衛騎士も、誰も私が立ち上がるのを助けてはくれませんでした。
その日の夕食の時間を、私は針の筵の上で食べさせられているような気持ちで過ごしました。
「お嬢様がジーヴル侯爵家の姫君を唆し、男たちを狂わせた」
「婚約者を失い、親兄弟が帰ってこなくなった」
「お嬢様が婚約者を失うのは当然だ」
小さな声ですが、使用人たちがささやいています。気づけば男性使用人の数が激減しています。
「うちの使用人たちまで狂ってしまうなんて」
お母様がため息と共にこぼした言葉に、私は途方に暮れました。
「本当に、こんなことになるなんて思わなかったのです」
「ジェルメーヌ。あなた、この国ではもう生きられないかもしれないわ。女の恨みを買いすぎているもの。婚約者を失った令嬢、夫が帰ってこない夫人……どうするか考えておいた方がいいわ」
それは私も考えていたことでした。いえ、この状態から逃げたかったという気持ちの方が本当は強かったなんて言えません。私を見る女性の目は、それは恐ろしいものになると想像できました。
翌日、婚約をなかったことにしようと言われたと、多くの友人から嘆きの手紙が届き始めました。私と一緒にコランティーヌ様に微笑むよう迫っていたお友だちからは、一時外国へ逃げるという事後報告もありました。
私も外国に逃げるべきか、それとも領地の邸にひっそりと籠もるべきか。
そんなことを考えていた時、お母様が私の部屋に飛び込んできました。
「ジェルメーヌ。あなたのお父様がコランティーヌ様の微笑みを見てしまったわ。一緒にいた陛下と王子殿下方もコランティーヌ様を見てしまったそうで、王宮の女官から急ぎの手紙が来たわ」
「お父様が……陛下たちまで……」
「ええ、女官とは別に、あの人から離婚してほしいって手紙が来たわ」
お母様の顔は真っ青になっていました。この国一番のおしどり夫婦として知られていたお父さまとお母様でさえ、コランティーヌ様の微笑みの前では太刀打ちできなかったと知ったのです。こんなお母様を置いて一人逃げることなんてできません。
私はコランティーヌ様の微笑みから男たちを助けるための手段を探しました。でも、見つかりませんでした。見つかるはずなんてないのです。だって、傾国の美女であっても全ての男性の心をつかめたわけではないのに、コランティーヌ様の微笑みだけで男たちが次々に恋に落ちていくなんて、そんな例はどこにもないのですから。
私は意を決してジーヴル侯爵家に向かいました。事前に女性の使用人を通じてコランティーヌ様と約束を取り付けることができた私は、喪服のように地味なドレスでジーヴル侯爵家の門をくぐりました。
御者も女性使用人です。数え切れないほどの男たちが幾重にもジーヴル侯爵家を取り囲み、愛を叫んでいます。異様な雰囲気の中を、御者役の使用人が引きつった顔で馬を進ませました。ちらりと見ると、お父様やクレマン様が蕩けた目で何か叫んでいるのが見えました。
この混乱は、全て私が生み出したもの。あれだけコランティーヌ様が拒否なさったのに、理不尽に強いた私の罪なのだと、あふれ出る涙を止めようとぐっと歯を食いしばってジーヴル侯爵家に入りました。
「お待ちしていましたわ」
美しい微笑みを讃えたコランティーヌ様が、そこにいらっしゃいました。私は挨拶もせずにその場にひざまずきました。
「コランティーヌ様、どうか愚かな私をお許しください。コランティーヌ様が仰っていたことが、これほどまでのことだとは想像できなかったのです」
「あら、わたくしは申し上げましたわよ? この国が滅んでもいいのかって」
「仰るとおりです。ですが、ここまでのことを想像せよと言われましても、凡人の私には無理でした」
「そう」
二人の間に沈黙が落ちました。にこやかに微笑むコランティーヌ様と、泣く寸前の私。壁際にずらりと並んだ侯爵家の使用人たちが私を見る目はどこまでも冷たいものです。
「どうしたら、皆さんを元に戻せるかご存じではありませんか?」
私はようやっとの思いで言葉を絞り出しました。小さな声でしたが、コランティーヌ様の耳に届いたようでした。
「元に戻す方法ありません。ですが、わたくしへの恋心を消す方法はあります」
「そ、それを教えてください!」
私は食いつきました。コランティーヌ様の微笑みが、今までの女神のようなものから悲しみをこらえた微笑みに変わっていたことに気づいた私は、どうしたらいいのか分からなくなってただコランティーヌ様を見つめました。
「わたくしが元通りの無表情を皆様に見せればいいだけです」
その時でした。
「陛下がいらっしゃったわよ」
コランティーヌ様のお母様が静かに入ってこられました。
「ああ、あなたが元凶の子ね。ちょうどいいわ、ここでご覧なさい……自分が何をしたか、しっかりとその目で焼き付けなさい」
前ジーヴル侯爵夫人の言葉は話し方こそ優しいものでしたが、その言葉には棘がありました。
「ああ、コランティーヌ。迎えに来たよ」
国王陛下が挨拶しようとするコランティーヌ様をそのまま抱きしめました。
「陛下、離してください」
「父上、父上には母上がいらっしゃるではありませんか! 私にはまだ婚約者もおりません。コランティーヌは私の妃にします!」
「ならん、コランティーヌを世界の誰よりも愛しているのは余だ!」
「いいえ、私です!」
二人はにらみ合うと抜刀しました。使用人たちが悲鳴を上げて逃げ出していきます。私は恐怖の余り、部屋の隅で腰を抜かしてしまいました。
「どう? コランティーヌが嫌がったのに無理矢理微笑ませて、楽しい? うれしい? 満足?」
前ジーヴル侯爵夫人の目には怒りが満ちていました。
「このままでは、あなたのせいで陛下と王太子となる王子殿下が殺し合ってしまうわね」
「あ……いや……」
「ここにあなたの元婚約者を連れて来たらどうなるかしら? いいえ、お父様を連れて来れば血の雨が降るでしょうねえ。そして、王族殺しの罪で平民に落とされた上で一族皆殺しになるの。あなたはそれを受け入れなければならないわ」
「おやめください! コランティーヌ様、どうか微笑みを封じてくださいませ!」
コランティーヌ様は静かに頷きました。そして、抜刀してにらみ合うお二人の間に立つと、すっと微笑みを消しました。
「コランティーヌ?」
「悪い夢でもご覧になっていらしたようですわ。どうぞ王宮にお戻りくださいませ」
「あ、ああ。王子よ、帰ろうか……」
「ええ、そうですね……」
気まずそうに剣を鞘に戻すと、お二人はとぼとぼと玄関に進まれました。
「あなたもいらっしゃい」
前ジーヴル侯爵夫人に命じられ、女性使用人たちに助けられて、私は子鹿のように震える足のままついて行きました。陛下たちの後ろには、コランティーヌ様が付き従っています。
「コランティーヌ様だ!」
玄関に出たコランティーヌ様を見た男たちが吠え、そして、その氷の表情を見て熱がすっと引いていくのが見えました。
「あれ、俺、どうしてコランティーヌ嬢にのぼせていたのかな?」
「私も妻がいながら何をしていたのだろう」
「ああまずい、婚約者に謝りに行かないと!」
男たちは蜘蛛の子を散らすように各々の目的地に向かって去って行きます。平民の男たちも家に、仕事に、戻っていくようです。
「コランティーヌ。何が起きたのか、説明できるか?」
その頃には、陛下はすっかり平常心を取り戻されていました。
「このまま王宮で説明申し上げます。母と共に、直ぐに伺います。一時間もあれば出発できるかと」
「分かった。悪いが、逃亡防止と身の安全のために近衛を置いていこう。一緒に来るがいい」
「ご配慮感謝申し上げます」
陛下たちがお戻りになると、コランティーヌ様が仰いました。
「直ぐに王宮に行かねばなりません。お帰りくださる?」
「は、はい」
私はコランティーヌ様にそれ以上の言葉を掛けられませんでした。私の言葉など聞く必要もないという態度で、支度のために自室に戻ってしまわれたからです。
私は自分の家の馬車に乗り、帰宅しました。寝込んでいたお母様に、お父様は正気に戻られたとだけ報告すると、私も自室に籠もりました。
これからコランティーヌ様はどうなるのだろう。
私はどのような罪に問われるのだろう。
不安の余り、私は食事も取れず、眠ることもできませんでした。
翌日、私は王宮に呼ばれました。そして、コランティーヌ様と極わずかな時間でしたがお話をすることが許されました。
「わたくしは、生まれた時に呪われたのです。そうとしか説明が付かないのです」
コランティーヌ様は、呼び出された私たちの目を見ることなく、静かに仰いました。
「わたくしを呪ったのが誰なのか、今でも分かりません。ですから、なぜ呪われたのかも分かりません。わたくしが微笑むと男たちが狂うことに気づいたのは、乳母でした。ジーヴル侯爵家から男性使用人が徹底的に排除されました。ですが、それでは業務がどうしても滞ります。ごく普通の日常生活を送るために私にできることは、表情を崩さないこと、ただそれだけでしたの」
思ってもみなかったコランティーヌ様の告白に、私たちは体が震えました。
「思わず笑ってしまって、使用人に追いかけられたこともあります。誘拐されたこともありました。直ぐに見つかったので事なきを得ましたが、それ以来、わたくしは男性を信用できなくなりました。お父様とお兄様だけは、私の微笑みを見てもおかしくなりませんでしたわ。だから、お父様が亡くなって、私を守ってくれる大きな存在が消えてしまったことが何よりも辛かった……」
それなのに、私がそんなコランティーヌ様を更に追い詰めるようなことをしたのです。自分の過去の行為を、自分のことながら許せませんでした。
「この国では、女性の幸せは結婚だと誰もが思っているでしょう? でも、わたくしにはそれが望めないし、わたくしは自分の力で人生を切り開きたかった。将来官吏となるために必死で勉強してきたんです。お兄様のお力も借りながらであれば、何とか生きていけるはず。そう思って努力してきましたが、それは叶わぬ夢となりました」
コランティーヌ様は、涙を流していらっしゃいました。
「わたくしは王族まで惑わした『魔女』として処刑されることがいったんは決まりました。ですが、事情をご理解くださったので、王家の手で国外に逃がしていただけることになりました。遠いその国で、私は監視されながら一生を送ります。働いて自活することも、国のお役に立つという夢も、全て失いました。みなさんとお会いするのも、これが最後ですわ」
すすり泣きの声が私の後ろから聞こえてきました。
「ですから、わたくしはお断りしてきたのですよ」
コランティーヌ様の言葉に、誰もが項垂れました。誰一人、反論することができませんでした。
「わたくしはもうこの国で生きていくことはできません。あなた方はただ興味本位だったのでしょう。いえ、親切心からわたくしに助言してくださった方もいらしたことでしょう。ですが、わたくしにはこうなることが見えていました。わたくしという一人の人間の人生を潰したこと、皆様はその意味をよくお考えになって、二度と無理強いをしないでくださいませ」
コランティーヌ様は、そう言って立ち去ってしまわれました。そのまま外国へ護送するための馬車に乗って旅立たれたとのことでした。
翌日、王家からコランティーヌ嬢が遠い外国へと国外追放となったことが広く国民に伝えられました。私たちは、自分たちの好奇心が、一人の侯爵令嬢のこの国での貴族令嬢としての生命と、一人の女性の夢を絶たせたという罪の大きさに恐れおののきました。そして、ずたずたに破壊されたこの国の人間関係をどうにかしなければならなくなったのです。
ですが、それは無駄なことでした。一度壊れた人間関係は、そう簡単に戻るものではなかったのです。
婚約者との信頼関係を失い、再婚約できない男性。妻との信頼関係が壊され、離婚に至った夫婦。婚約という重大な契約を放棄した相手への不信感。私自身、クレマン様を信じることができなくなり、婚約は白紙のまま、私たちの関係は終わりました。
私たちのつまらぬ好奇心から国中の男性が狂ったのです。私が犯人だということはそれほど広まりませんでしたが、その代わり誰も結婚しなくなりました。同じ派閥だと思っていた相手を信じられなくなり、誰も信じられないという空気が国中に広がりました。
こうして誰もが疑心暗鬼になったその隙を、隣国は見逃しませんでした。一気に攻め込んできたのです。兵は将を信じられず、将は王を信じられない。民も王を信じられない。国は一週間と持たずに隣国に蹂躙されました。私たち未婚の貴族女性は戦利品として隣国に連れて行かれ、褒賞の一つとして将に下賜されていきました。
私は中級将校に下賜されました。妻も子もいる方です。
「お前は妻扱いされない。各家に与えられた娼婦だと思え」
何もなければ、今日はクレマン様との結婚式のはずでした。泣くための涙ももう涸れ果てた私は、飼い主である中級将校の元で、何をすることもなく、求められれば体を開く、そういう生活を送るだけです。一年経ったら捨ててもよいと言われているそうなので、飽きれば一年後には追い出されることでしょう。
私は遠い外国にいるコランティーヌ様を思いました。今、コランティーヌ様はどうしていらっしゃるでしょうか。夢も希望も絶たれて見張りを付けられた生活。家族からも離されてしまったコランティーヌ様は祖国まで失って、これからどうなさるのでしょう。
ごめんなさい。
私は傷物になった体を引きずって、邸の一番上にある屋根裏部屋に入りました。そこが私の部屋なのです。何の気になしに窓に触れて、初めて、窓が開くことを知りました。人一人、ちょうど通れる大きさです。私は体をぐいっと外に投げ出しました。感じたことのない浮遊感の後、激しい痛みと共に、私の意識は消えて行きました。
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「ジェルメーヌが死んだ?」
「はい。自ら飛び降りたそうです」
「そう……」
コランティーヌは遙か北の氷に閉ざされた城の中で報告を受けた。コランティーヌはこの国では「普通」だ。寒すぎるこの国では、女性だけでなく男性も表情が変わらない。寒さで顔が凍り付いているのだ、と王は表情なく声だけ笑って言っていたことがある。
「私はね、君がこの国に来てくれたことを本当に喜んでいるのだよ」
「陛下……」
コランティーヌは今、この氷の国の王から王妃になってほしいと請われている。この国の誰よりも知識を持ち、考える力を備えたコランティーヌは、その美しさでも抜きん出ていた。全ての事情を知った上でコランティーヌを受け入れた氷の国の王は、至高の女性がやって来たと喜んだ。それどころか、笑うこと以外の表情を僅かに見せるコランティーヌは、誰一人感情を表情で表さないこの国では、コランティーヌはむしろ表情が豊かな女性なのだ。
見張りが付けられた上で孤独な生活を送るはずだったコランティーヌは、すぐに王妃候補者として教育を受けることになった。丁重にもてなされ、国王から愛をささやかれた……微笑むことなくとも、愛を捧げられたのだ。
「私は陛下の元に来るために、呪いを受けたのかもしれませんね」
「一度、君の微笑みを見てみたいものだな」
「それは結婚式まで取っておきましょう。陛下にだけお見せしますわ」
結婚式の夜、二人きりの部屋でコランティーヌは王に微笑んだ。王は無表情でいられなかった。コランティーヌの笑顔に狼狽し、顔を真っ赤にし、そして永遠の愛をもう一度誓った。
結婚してからの王のコランティーヌへの溺愛は度を越したものだった。だが、そこは表情にあらわれないこの国特有の事情から、国民にも大臣にも官吏にも知られることはなかった。ただコランティーヌが王との間に8人の子を産み、いつも王の瞳の色のドレスしか身につけていなかったことから、そうと推測されるばかりであった。
読んでくださってありがとうございました。
幸せって、自分が自分らしく居られる場所を見つけることだと私は思います。
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