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見市麗子

 ベージュの壁に白いスチールの柵が夕陽に赤く染まる。道路を挟んだ向かい側には緑が多い大きな公園がある。

 駅まで歩いて五分、間取りは六畳と三畳のキッチン、これで家賃はたったの三万円は確かに破格だなとあらためて思う。

 見市麗子は今日から暮らすマンションを目の前にして、これまで抱いていた一人暮らしへの不安が消えて少しワクワクしていた。

 この条件の物件なら、家賃はこの倍以上してもおかしくないと不動産屋の志賀という男は言っていた。

 後でネットで周辺の家賃の相場を調べてみたら、志賀の言うことは嘘ではなかった。


「じゃあ、おねえさんの美貌と名前が気に入ったから、とっておきの特別な物件を紹介しますよ」

 志賀が言って、麗子に笑みを浮かべた後、背表紙に赤で『特』と書いたファイルから資料を一枚抜き取り、川西マンションという物件を紹介してくれた。

 麗子は、志賀の『おねえさんの美貌』というねちっこい声に虫酸が走った。風船のようにブクブクした中年男のいやらしい視線に怒りを覚え帰りたくなった。

 男から特別扱いされたり優しくされると、下心があるんじゃないかと疑ってしまう。男の優しさとはそういうもので、男はそういう生き物だと麗子は思っている。しかし、この物件を逃すわけにはいかなかったので、その時はグッと堪えた。

「いかがですか」

 志賀は自信たっぷりといった表情で訊いてくる。

 麗子は「気に入りました」と短く答えた。

「部屋は今見ていますニ〇三号室でよろしいですか」

 特にどこでもよかったが二階の方がよかったので、それで結構ですと答えた。

「そうですか。それでは、このマンションまでご案内しましょうかね」

 志賀のいやらしい視線は麗子の顔を見た後、胸元に下がるのがわかった。麗子は胸元を隠すように右手を当てた。この後、このいやらしい男とマンションまでいっしょに行くことに不安があった。どこか別の場所に連れて行かれるんじゃないか。マンションまで連れて行ってくれたとしても、この男とマンションの一室で二人っきりになるのは危険だと思った。しかし、このマンションの魅力は麗子のそうした不安を上回った。

 麗子は「は、はい」と返事した後、志賀の顔を見た。

 志賀はニヤリといやらしい笑みをうかべた。

「渡辺さん、ちょっといいか?」

 志賀は奥に座っていた若い女性に声をかけ、手招きをした。

「はい」

 渡辺という若い女性がハツラツした声で返事して立ち上がった。彼女はニコニコした表情のまま、志賀の方に早足で歩いてきた。

「悪いけど、見市さんを川西マンションまで案内してくれるかな」

 志賀は渡辺を見上げて言った。

「はい、わかりました」

 渡辺はまたハツラツとした高い声で返事をした。彼女の声を聞いていると気持ちがいい。

 麗子は渡辺の顔に視線を向けた。まだあどけなさが残る若くて可愛らしい女性だ。どうやら、この渡辺がマンションまで案内してくれるようだ。麗子は胸を撫で下ろした。

「頼むね」

 志賀は渡辺に向けて右手を上げた。

「わかりました」

 渡辺が志賀に返事をしてから、麗子の方に体を向けた。

「見市さん、この前まで車をまわしてきますので、しばらくお待ちください」

 渡辺はそう言って麗子の顔を見て笑みを浮かべた。

「よろしくお願いします」

 麗子は立ち上がり渡辺に頭を下げた。

「では、いってきます」

 渡辺は不動産屋のガラスのドアを開けて出ていった。

「今から今の渡辺が現地まで案内します。二、三分で車をまわしてくると思いますので、この前で待っていて下さい」

 志賀はそう言って立ち上がった。

「はい、ありがとうございます」

「いいマンションですよ。きっと気に入ってくれると思います」

 志賀はそう言って右手を差し出した。握手を求めているようだが、麗子は志賀の芋虫のような指が気持ち悪くて無視してしまった。

「ありがとうございます」

 麗子は深々と頭だけを下げてごまかした。志賀は出した手を引っ込めた。

 不動産屋を出るとすぐにコンパクトで丸みのあるレモン色の車が麗子の前にとまった。

 エンジンが切れて運転席から渡辺が降りてきて、後部ドアに回ってきた。

「見市さん、どうぞこちらから乗ってください」

 渡辺はずっとニコニコと笑みを浮かべている。麗子は渡辺が開けてくれたドアから後部座席に乗り込んだ。

「見市さん、渡辺です。よろしくお願いします」

 渡辺は運転席に乗り込んでから振り向いて丸い笑みをくれた。

「こちらこそよろしくお願いします。お忙しいのに申し訳ありません」

 麗子は渡辺に向かってペコリと頭だけを下げた。

 渡辺はマシュマロのようなほんわかした女性で、ずっと笑みを絶やさず話しやすい印象だ。

「では、見市さん、今から川西マンションに向かいますね。マンションまでは大体二十分ほどで到着すると思います」

 渡辺が言ったあと、窓の景色がゆっくりと動き出した。

「これから行く川西マンションは御社でも特別な物件みたいですね」

 車が走り出してすぐに、麗子は運転する渡辺に訊いた。

「えっ、そ、そうなんですか」

 渡辺がフロントガラスを向いたまま答えた。

「そうじゃないんですか」

 麗子は首を傾げた。志賀は特別な物件と言っていたが、渡辺は知らないのはどういうことだろうかと疑問に思った。

「実は、今から行く川西マンションは、さっきの志賀さんだけが担当している物件なんです。だから、わたしや他の社員は川西マンションのことをよく知らないんです。ごめんなさい」

 渡辺はフロントガラスを向いたまま頭を下げた。

「そうなんですか。志賀さんてさっきの方ですよね」

「はい、そうです。ああ見えて、いい人なんですよ。よくシュークリームとか甘い物を差し入れに買ってきてくれるんです。へへへ」

 ルームミラーから見える渡辺の目は三日月のように細くなっていた。

「渡辺さんは、これまでにも川西マンションに行ったことはあるんですか」

「ええ、一度だけですけど、若い女性を案内したことがあります」

「若い女性ですか」

「ええ。あたしより若いと思います。羨ましいくらい可愛い二十歳くらいの女性でしたね」

「その女性は今もお住まいなんですか」

「そうですね、三週間ほど前に入居したばかりですからね」

 麗子は若い女性が入居していると聞いて少し安心した。男性が入居していないことを祈った。

「他にはどんな方がお住まいなんですか」

「あとは、男性が一名だけみたいですね」

 男性がいるのかと思うと、今度は少し憂鬱な気分になった。それにしても、入居者が二人だけとは、あまりにも少なすぎるなと思った。

「今は二人しか入居していないんですか」

「そうなんですよ。志賀さんがあまり紹介してないみたいなんです。条件がいいみたいですから、紹介すればすぐに埋まるとは思うんですけどね」

 三週間前に入居した女性と自分をいれて、入居者が三名ということは、その若い女性が三週間前に入居するまでは男性が一名だけだったということだろうか。

 もしかしたら、ちょうど新年度の季節で、入れ替わりのタイミングなのかもしれないと思った。

「なぜ、特別な物件なのに、そんなに部屋が空いてるんですか」

「いやー、どうなんでしょうね。あたし、実は最近この会社に入社したばかりで、よく知らないんです。お役に立てなくてごめんなさい」

「いえ、大丈夫です。それにしても、家賃三万円は安すぎませんか」

「そ、そうですよね。三週間前に入居した女性も同じことを言っていました。あたしもその女性に家賃を聞いてビックリしました。でも、今回はうちの志賀に紹介してもらえてよかったじゃないですか」

「ええ、まあそうなんですけど……」

 麗子は不審に思った。なぜ、こんな条件のいい物件が空き部屋だらけなのだろうか。この渡辺の言うとおり、紹介してもらって良かったのだが、なぜか腑に落ちない。

 それから渡辺と出身はどこだとか、今年は特に暑くなるみたいだとか、たわいもない話をしていると、あっという間に川西マンションに到着した。

「見市さん、着きましたよ。そこのマンションです」

 渡辺がマンションの前で一旦車を止めてから、マンションを指差した。

「へぇー、ここですか。ほんと綺麗なマンションですね」

 麗子は窓から川西マンションを覗いた。想像以上にきれいなマンションで驚いた。

 渡辺はマンションのすぐ隣にあるコインパーキングに車を入れた。麗子は渡辺がエンジンを止めてバッグを取っている間に車から降りてマンションを見上げた。

「じゃあ、お部屋をご案内しますね」

 渡辺がそう言ってバッグから鍵を取り出し、マンションの階段へ向かった。麗子は渡辺の後ろについて階段へと向かって行ったが、階段の手前にあるポストの前で立ち止まり、ポストに名前の入っている部屋を確認した。麗子の入る二〇三号室の隣の二〇四号室にはきれいな女性っぽい手書きの文字で『石中』と書いてあり、一〇三号室にはワープロ打ちで『浦川』と書いてあった。

 渡辺の話では現在の入居者は男女一名ずつということだ。どちらかが男性でどちらかが女性だろう。『石中』という手書きの文字を見る限り二〇四号室の方が女性のような気がする。

「見市さん、どうしましたか」

 麗子がポストをじっと見つめていたので、渡辺が階段を上がりかけたところで立ち止まり、麗子に声をかけた。

「すいません。ポストの名前が気になってしまって」

「あー、今の入居者はポストに名前の入ったその二名だけですね」

 渡辺がポストを覗きこんだ。

「車の中で話してました三週間前に入居した可愛い女性はどちらですか」

 渡辺の口から石中さんですという答えを期待したが、渡辺から「一〇三号室の浦川さんです」と返ってきた。

 麗子はガックリと肩を落とした。てことは隣の部屋の石中は男性ということになる。部屋を決める前に入居者の情報を入れておくべきだった。それに男のクセにポストに紛らわしい女性っぽい文字を書くなと思った。

 それから渡辺について階段を上がり二階の二〇三号室の前まできた。渡辺が鍵を開けて、どうぞ中を見てくださいと部屋の中に入れてくれた。

 麗子は「失礼します」と言って、渡辺より先に部屋に入り、部屋の中を見渡した。広くてきれいな部屋だ。隣の部屋が男性ということが気になったが、立地といい、建物といい、家賃といい、ここに勝る物件はないだろう。


 この川西マンションは、この春から教鞭を執ることになった東上学園高校まで歩いて十五分くらいで通えるので通勤に便利だし、駅からも近いので買い物やどこかへ出掛けるのにもとても便利だ。

 東上学園高校から社会科の教員として同校で教鞭を執ってほしいと話をいただいた時はすごく光栄な話だったので素直に嬉しかった。

 ただ、そうなると東上学園高校まで自宅から通えなくなるので必然的に引っ越しをしなければならなかった。

 麗子は一人暮らしすることに抵抗があった。これまで見知らぬ人に対して異常なまでに警戒心や恐怖心を持ってしまい、コミュニケーションがうまくとれなかった。そんな自分が一人暮らしなんて出来るのだろうか。

 特に男性に対しては、自分でも信じられないくらい臆病になってしまう。これはきっと結婚まで考えていた男性に二股をかけられていたショックのせいだと思っている。同世代の男性を見るとなぜか嫌悪感を持ってしまう。

 職場が変わり、その上一人暮らしをはじめるとなると、当然職場でも私生活でも新しい人間関係を築かなければならなくなる。それに自分は耐えられるのだろうか。

 しかし、せっかく名門高校で教鞭を執れるチャンスなのに、それをみすみす棒に振るのはもったいない。麗子は清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちで一人暮らしする決心をした。


 麗子の川西マンションでの一人暮らしがスタートした。隣に住む男性は厳つい顔をした無愛想な男性で、麗子を避けるようにしていた。男性は他人と関わりたくないといった感じだが、それは麗子にとってありがたいことだった。麗子も他人と出来るだけ関わりたくなかった。

 もう一人の女性は浦川優香という百貨店の洋菓子売場で働く女性だ。いつも笑顔で明るく挨拶してくれるので、すごく好感が持てる。朝、出勤の時に彼女と顔を合わせると、気持ち良い気分で一日がはじまる。優香は自分とは正反対のタイプで彼女の性格が羨ましく思った。

 その明るい優香のおかげで、一人暮らしは思っていたほど苦痛ではなかった。

 しかし、麗子が引っ越してから、一ヶ月おきに続けて二人の男性が入居してきた。なぜ男性が続けて入居してくるんだと、入居してきた男性たちに怒りをおぼえてしまった。

 先に入居してきたのは原田という体の大きな男で、後から入居してきたのは瀬川とかいう原田とは正反対に華奢な男だった。

 原田や瀬川の姿を見ても挨拶をする気にはなれず、汚ないものでも見るようについ睨んでしまう。原田や瀬川が悪いわけではないことはわかっている。しかし、どうしても彼らを見ると嫌悪感を持ってしまう。

 原田は夜のアルバイトをしているらしく、顔を合わす機会は、ほとんどなかったので良かった。一人暮らしのマンションの人の繋がりの希薄さは麗子にはありがたかった。

 瀬川の方は最初にわざわざ菓子折りを持って挨拶にやってきた。麗子が仕事から帰ってきた時に、瀬川が部屋の前に立っていたのを見て、怪しい男だと決め込み、体が熱くなり頭の中がパニックになった。

 そこから先は自分でもわけがわからないくらい、瀬川を罵り、彼に暴力を奮ってしまった。本当に申し訳ないことをしたと反省はしたが、男性が女性の一人暮らしのマンションに引越の挨拶に菓子折りを持って現れるのはどうかと思う。下心があると思われても仕方がないと自分を弁護した。

 このマンションに引っ越してきて、唯一、会話ができる優香はこの二人の男性は真面目でいい人だと言っていた。麗子も優香のように、いずれは二人の男性と普通に会話が出来るようにならなければならない。

 今は女子高勤務で男子生徒はいない。男性の教師はいるが、会話する男性といえば校長と数人の教職員だけで、さほど問題なく過ごしているが、これから先の人生を考えると、早く失恋から立ち直り男性嫌いを解消しなければならない。

 一〇三号室の優香も同じような失恋経験があると言っていたが、麗子とは全く違う。優香は自分よりずっと年下なのに凄いなと尊敬してしまう。

 優香は母子家庭で育ち、家族の愛情に飢えているから、このマンションの住人とは家族のような付き合いがしたいと言っていた。ちょっと変わった娘だが、明るく活発なのが本当に羨ましい。


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