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浦川優香

 母一人、子一人、同じ屋根の下で過ごした二十年間はあっけなく終わった。

 母親の倫子があなたも二十歳になったことだし、そろそろ家を出て一人で暮らしたらどうなのと言われたのは、今年に入ってすぐのことだった。

 なぜ母親がそんなことを言い出したのかはわかっている。母親は一年ほど前から中森という十歳も年下の男性と交際をしている。そろそろ中森と二人で暮らしたいと思ったからだろう。

 優香は母子家庭で育ったが、母親から可愛がられた記憶、母親の愛情を感じた記憶は全くなかった。

 優香が生まれてすぐに離婚した母親にとって、幼なかった優香の存在はお荷物だったのかもしれない。母親が新しい人生を踏み出すには優香の存在は邪魔だったのだろう。

 そう思うと空しくて、悲しくなるが、とりあえず、二十歳までは親の義務として、自分の欲望をおさえ、我慢して育ててくれたことに感謝することにした。そうでもしないと、この先、前を向いて生きていく自信がない。

 高校を卒業してから、関急百貨店の川西店の洋菓子売場で正社員として働いている。そんなに多くはないが、毎月安定した収入もあるし、少しの貯金もできた。一人暮らしをはじめたい気持ちもあったので、優香は母親からの提案にのることにした。

 新しい部屋探しのためにスマホで検索して探したり、直接不動産屋を訪れて資料を見せてもらったりしたが、家賃五万円以下で、今の職場に一時間以内で通えるという条件をクリアする部屋はなかなか見つからなかった。

 家賃か通勤距離のどちらかを妥協するしかないのかと諦めかけていた時に、職場の店長から比較的安い物件を紹介してくれる地域密着型の不動産屋を教えてもらった。

 その不動産屋に直接出向き、びっくりする条件の部屋を紹介してもらった。そのマンションは、築三年、川西駅まで徒歩五分で行けて、家賃がたったの三万円という。

 関急百貨店は川西駅前にあるので、歩いて五分で職場まで通えるし、家賃は予定より二万円も浮いてくる。

 建物は少々オンボロでも仕方ないと覚悟していたが、ところがどうして築三年で綺麗なマンションだった。

 紹介してくれた不動産屋の志賀という男は風船のような体を揺さぶりながら、自信たっぷりに紹介してくれた。

 最初は、担当者の志賀に部屋の希望条件を伝えると、それまでに回った不動産屋と同じく、そんな物件があるわけないだろうという渋い表情だった。

 やっぱりダメかと思っていると、志賀が急にニカッと笑い、特別な物件を紹介すると言ってきた。

「仕方ないですね。とっておきで特別な物件を紹介しますよ」

 テーブルを挟んで優香の前に座っていた志賀はすくっと立ち上がり優香に丸い背中を向けた。

 志賀の背後には壁一面に棚があり、そこには青いファイルがずらりと並んでいる。青いファイルの背表紙には間取りや地域が書いて仕分けされているようだった。

 志賀はその青いファイルの並ぶ中で、背表紙に赤い字で『特』とだけ書いたファイルに人差し指をかけ、それをスッと引き抜いた。

「普通なら、お客さんのいう条件に合った物件は、まず見つからないですよ。だけどね、お客さん、あなたはめちゃくちゃラッキーです。ひとつだけ、とっておきで特別な物件があるんですよ」

 志賀は優香の方に振り返り、短い人差し指を立ててニッと口角を上げた。

「とっておきで特別な物件ですか」

 優香は特別という言葉に弱い。すぐにテーブルに身を乗り出した。

「そうです。とっておきで特別です」

 志賀がファイルを手に持ったまま、椅子に腰を下ろした。

「どんなところですか」

「気になりますか」

 志賀はギョロりとした目を優香に向けた、

「ええ、もちろん」

 優香はもう一段体を乗り出した。

「ここは特別なんでね。誰にでも紹介するってわけにはいかないんですよ」

 志賀がニヤニヤと笑みを浮かべる。

「そうなんですか」

 優香は口を尖らせた。ジジイ、なにもったいぶってんだよと心の中で毒づいた。しかし、優香はそんな態度は志賀には見せず職場で見せる浦川優香を演じた。

「でもね、お客さんの可愛い顔と名前が気に入りましたからね、このとっておきの特別な物件を紹介することにしますよ」

「ほんとですか」

 優香は胸の前で両手を合わせ志賀の顔をじっと見つめた。可愛い顔はわかるが、浦川優花という名前がなぜ気に入ったのかはよくわからない。

 志賀が優香の顔をじっと見てきたので、優香は志賀に向かってウインクした。すると志賀はニヤリと笑い、ファイルをめくりながらウンウンと嬉しそうに頷いていた。

「これ、なんですけどね」

 志賀はファイルから資料を一枚抜き取り、優香の前へと滑らせてきた。優香はすぐにその資料に視線を落とした。

『川西マンション。築三年、洋室六畳・キッチン三畳、川西駅から徒歩五分、家賃三万円、共益費、敷金、礼金なし』

 資料には確かにそう書いてある。優香は顔を上げ志賀を見た。志賀はニヤニヤしている。

 これまで紹介してもらった物件のなかで築三年は一番新しく、そして六畳と三畳の二間あるのは一番広い。駅から五分なので駅前にある関急百貨店まで歩いて通える距離だ。何より家賃三万円は破格の安さだ。

「どうですか」

 志賀は自慢気な表情で優香の顔を覗きこんだ。優香は「ここに決めました」と即入居を決めた。


 引っ越し屋のトラックに優香の荷物が全て積みこまれた。これで生まれ育った実家を去ることになるのだが、特にこみ上げるものもなく、なんの感情も湧かなかった。

 母親と中森が家の前に出てきて並んで立っている。母親は中森の腕に手をまわし、幸せそうな表情でトラックを眺めていた。実の娘が実家を去り寂しくなるといった感情は湧いてこない様子だ。母親と中森は二人でコソコソと笑みを浮かべてイチャイチャと話していた。実の娘が生まれ育った家を出て、一人暮らしをはじめるのだから、一応母親の義務として見送っているだけのようにしか見えなかった。寂しくなる、娘がこれから一人で暮らすことが心配だといった気持ちは無さそうだ。

 それよりも、これから邪魔者がいなくなり中森と二人だけで暮らせることにワクワクしているのだろう。

 引越屋のトラックが先に川西マンションへと出発した。優香は後を追って電車で川西マンションへと向かう予定だ。

「それじゃあねー」

 優香は母親に向かって右手を上げた。

「うん、じゃあ、元気でね」

 母親は中森と腕を組んだまま右手を振った。実の娘の引っ越し先の住所を訊いてくることもなかった。

 携帯の番号を知っているから、なにかあっても特に問題はないだろうと、優香の方から住所を教えることもせずに、リュックを背負い一人で駅へと向かって歩きはじめた。

 振り返る気にもなれず前を向いたまま歩いていった。少し歩いたところで、母親はまだ自分を見送っているのかが気になった。すでに中森と腕を組んだまま家に入ってしまっているかもしれない。そんなことを考えながら前を向いたまま歩いた。

 角を曲がる時に、ふと振り返ってみた。母親がいたら手を振ろうと思ったが、やはり母親の姿はなかった。

「ハァー」と勝手にため息が出た。わかっていたことだがやはり寂しい。


 全ての荷物が川西マンションの一〇三号室に運びこまれて、引っ越し屋を見送ってから、優香はこれから一人暮らしをするマンションをぼんやりと外から眺めた。

 二階建てで、明るいベージュ色をしたタイルの壁に、ベランダや廊下の手摺の部分が白いスチールのメッシュ状になっている。とても家賃三万円のマンションとは思えない外観だ。

 道を挟んだ向かいには緑豊かな公園が広がる。これから春に向けて、もっと緑が増えるだろう。そしてカラフルできれいな花が咲き乱れるのだろう。

 ここなら通勤時間は歩いて五分だ。これまでより朝は一時間ゆっくりできるし、夕方は一時間早く帰れる。

 時間に余裕ができるので、将来のためになにか資格をとるための勉強をするのもいいかもしれない。健康のために朝は前の公園をジョギングするのもいいかもしれない。そんなことを考え、これから始まる一人暮らしは希望に満ちていた。

 優香には一人暮らしをはじめるにあたって、ひとつの大きな目標がある。それは、このマンションの住人たちと仲良くなり、家族のような付き合いをすることだ。

 いっしょに食事に行ったり、前の公園をいっしょに散歩したり、たまにはいっしょにお互いの部屋でテレビを見たりしたいと思っている。ちょっとした身の上相談などできれば最高だ。

 そのことを職場の店長に話すと、一人暮らしのマンションで住民同士が仲良くするのは、あまり聞いたことがないし、仲良くするのは若い女性の一人暮らしだからやめた方がいいと忠告された。

 店長も独身の頃は一人暮らしをしていたそうだが、一人暮らしを始めて早々に危険な目に遭ったことがあるそうで、出来るだけ近隣との付き合いは避けたそうだ。女性の一人暮らしだと気づかれないようにすることにも気をつけたと言っていた。

 しかし、優香は店長の忠告を聞く気にはなれなかった。せっかく同じ屋根の下に住むんだから、その縁を大切にしたい。だから家族のように仲良くなりたいという気持ちの方が強かった。

 優香は二十年間、母親と二人で暮らしてきた。家族だけどお互いに冷めていた。母親の愛情を感じることなく、優香も母親に心を開くことはなかった。

 母親と姉妹のように買い物や映画、コンサートに出掛ける友達が羨ましかった。相談できる家族がいる友達が羨ましかった。

 優香もそんな家族がほしかった。だから、このマンションの住人と仲良くなって家族のような付き合いがしたいと思っている。 

 優香は住人と仲良くなるために、ここの住人と会う度に自分から積極的に笑顔で挨拶しようと心に決めている。

 そう心に決めて入居したが、このマンションに優香が引っ越してきた時にいた住人はたった一人だった。

 しかもその住人は二〇四号室に住んでいる厳つくて無愛想な男だった。優香からいくらあいさつをしても、無言で睨んでくるだけだ。その男を見ていると恐怖すら感じた。店長からの忠告が頭を過った。

 卒業して接客の仕事がしたくて、今の職場に就職した。仕事は楽しくてやりがいがあった。自分は人と接するのが好きなんだなと改めて思った。

 高校時代はそれなりに友達もいた。友達といっしょにいるのが楽しかった。しかし、今の仕事は土日出勤が多いので休みが合わず、友達とは疎遠になってしまった。

 一年前には彼氏もいたが、二股をかけられていたと知ってすぐに別れた。それ以来、イケメンと口の上手い男は嫌いになった。飾った男より不器用でも正直な男がいいと思うようになった。

 今は彼氏はいらないけれど友達がほしい。できれば、お兄ちゃんやお姉ちゃんと慕えるような友達がほしい。弟や妹もほしい。もっと言えば、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんのような友達もほしい。

 けど、ここのマンションには、怖い男しかいなかった。

 家賃は安く職場からも近い。綺麗でいいマンションだが住人がいないことに少しがっかりした。

 これから春に向けて誰か新しい住人が引っ越してきてくれないかなと優香は願った。

 そんな優香の願いが、この後次から次へと叶うことになった。


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