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一〇三号室の住人

 二〇三号室のこともあるので、一〇三号室では、躊躇することなくインターフォンのボタンを押した。

 次郎が緊張して待っていると、インターフォンから「はーい」という女性の声が聞こえた。高くて澄んだ声だ。さっきの二〇三号室の見市というヒステリックな女性とは声の質が違う。少し胸を撫で下ろした。

「お忙しい時間に申し訳ありません。今日、このマンションに引っ越してきた瀬川といいます。ご挨拶におうかがいしました」

 インターフォンに顔を近づけ、一気に言った。言い終わってから、「フゥー」と息を吐いた。

「ちょっと待ってくださいね」

 インターフォンから聞こえてくる声を聞いて若くて可愛い女性の姿が頭に浮かんだ。うん、今度はまともそうだし期待が持てる。

 しばらくすると、ガチャと鍵がはずれる音がして、ドアが少しだけ開いた。

 次郎は一つ咳払いをしてからドアの隙間に向かって声を発した。

「お忙しい時間に申し訳ありません」

 頭を下げてから、目だけを上げてドアの隙間から住人の顔を覗き見た。

 どんな人だろう。インターフォンの声の感じだと若い女性のように思えた。今度はチカンと間違われないように注意しなければならない。

「えー、うそやろ。まさかと思たけど、やっぱりそうやん」

 一〇三号室のドアの隙間から高くて裏返る声が聞こえた。

 次郎がドアの隙間から声の主を見ると、彼女は人差し指を次郎に向け、大きく開けた口に手のひらを当てていた。

「あーっ」

 次郎も住人の顔を見た瞬間、思わず声を発した。そして、その住人と同じように人差し指をその住人に向け、大きく開いてしまった口に手のひらを当てた。

「すっごーい、偶然。ビックリやわ」

 その住人は目をパチクリさせていた。

「そ、そうですね」

 次郎の声は上ずってしまった。

 そう言えばポストの名前は『浦川』となっていた。次郎の心臓が一気にはね上がった。関急百貨店の女性の名札を確認した時、『浦川』だった。まさかここで会えるとは思ってもみなかった。

「あー、それ、持ってきたんやね」

 彼女は次郎の持つ紙袋を指差した。

「はい、あなたがおすすめしてくれたクッキーです」

 次郎の声は興奮して上ずった。さっきの関急百貨店の女子店員が、今目の前にいるのだ。このクッキーを買った時に一目惚れしたかもしれない、可愛い女子が目の前にいる。まさかまさかの展開だ。

 彼女にまた会いたいと思っていた次郎は完全に舞い上がった。こんな偶然があるとは。これは絶対に運命的な出会いに違いない。この時はニ〇四号室とニ〇三号室の挨拶での災難は次郎の頭から一気に吹き飛んでいた。

「そっかー、あん時、このマンションの人ってわかってたら、もっと高くて美味しいもんおすすめしたのになー。あー、失敗したなー」

 可愛い女子は髪の毛がグシャグシャになるくらいに頭を掻きむしった。

「えっ、ど、どういうことですか。あの時、これが店の人気商品でおすすめですって笑顔で言ってくれましたよね」

「あたし、そんなこと言ったっけなー。覚えてへんわ。なんせ、あん時はもう帰る時間やったしさー。そやのに、あんたが買いに来たから帰られんへんようなってしもうて、だから早く終わらせたかったんよね。で、あんたがそのクッキー、見てたから適当におすすめしたんよ」

 彼女はそう言った後、口を横に広げてニッと笑った。

 適当におすすめしただと、次郎は耳を疑った。関急百貨店の洋菓子売場での彼女の態度は適当だったってことなのか。今、目の前にいる女子は、あの時の女子店員と同一人物とは思えなかった。

 可愛いらしい顔は同じだが、話し方や仕草は洋菓子売場での清楚でおしとやかな印象とは全く違いがさつだ。

 百貨店の制服の白いフリルのついた黒のワンピースはすごく似合っていたが、今はシワの残る派手な赤色のスウェットの上下を着ている。百貨店でベレー帽を被っていた頭はさっき髪の毛を掻きむしったせいで山姥のようにボサボサになっていた。

「そうだったんですか」

 次郎の声は錆びたように掠れた。そして、次郎の首はガクリと折れた。

「誤解せんといてや。別に騙したわけやないで、そのクッキーが店の人気商品なんは、ほんまなんやから」

 彼女は項垂れる次郎の顔を覗きこんだ。

「そ、そうですか」

 次郎の発する声は語尾が掠れ消えそうになっていた。

「それよりさー、あんた、引っ越しの挨拶に来たんちがうの」

 彼女が口を尖らせた。

「そ、そうですが」

 次郎は項垂れたまま蚊の鳴くような声で言った。

「そしたら、さっさと名前とか、教えてーや」

 彼女は腕を組んで口を尖らせた。

「あ、ああ、二〇五号室に今日引っ越してきた瀬川次郎と言います。よろしくお願いします」

 心が折れていたが、彼女に向かって丁寧に頭を下げた。

「あっそう。瀬川の次郎ちゃんね。二〇五号室やったら二階の一番奥の部屋やんね。あたしは浦川優香。優香ちゃんって呼ばせてあげるわ。関急百貨店で働いてるのはバレてるよね。ところで、あんたは何してる人なん?」

 いきなり初対面(正確には二回目だが)の人間に対して次郎ちゃんはないだろう。それもこっちは年上だぞ。この女子も変わっている。

「あっ、僕は家電量販店のカマダ電気で働いてます。急に転勤が決まったので、今日ここに引っ越してきました」

「ヘェー、カマダ電気か。じゃあさ、携帯とか家電とか買う時はお願いするわ。従業員価格とかで安く買えるんやろ」

「いや、えー、そりゃあ、少しは安くはなりますが」

 いきなりこんなことをお願いしてくる神経もわからない。

「あっ、それから、あん時、あれ、買わなかったっけ」

 優香が次郎に人差し指を向けた。

「あれってなんですか?」

 次郎は首を捻った。

「あれあれ、あれやんか。フルーツたっぷりゼリーケーキやん。たしか二つ買ってたやんな」

「あ、あー、買いました」

 女性店員が、自分に微笑んでくる顔が可愛く魅力的すぎて、自分の食べる分一つだけでよかったのに見栄をはって二つも買ってしまったのだ。その店員が目の前にいるこのがさつな女子だったのかと思うとやはり女は怖いなと思った。

「もう食べたん?」

「えっ、何をですか」

「あんた、頭悪いんか。今、フルーツたっぷりゼリーケーキのこと言うてたやろ。そんならフルーツたっぷりゼリーケーキに決まってるやろ」

「ああ、そうですね」

「まさか彼女といっしょに食べたなんて言わんといてや」

 優香は頬を膨らませ目をつり上げていた。

「いや、まだ食べてないです。今、冷蔵庫に入れてあります」

「じゃあさ、今からいっしょに食べへん? どうせ、あんたは彼女とかいてへんやろうし、二つもいらんかったんちがうん? だからあたしが食べたげるわ。あたし、前からあれ食べたかったんよねー」

「あたしが食べたげるですか」

「そうやで」

 なんてわがままなやつなんだ。自分が買ったケーキなのに、なぜお前が食べると勝手に決めるんだ。それも『食べたげる』とは、生意気にもほどがある。食べさせてくれとお願いするならまだわかるが、やはり、この女は絶対に頭がおかしい。

「うん、今から二〇五号室に行っていっしょに食べようや」

「いや、あれは僕のケーキですから」

「それくらいわかってるわ。あたしか売ってあげたんやから」

 あたしが売ってあげただと、こっちが買ってあげたんだ。大人げないことを言っても仕方がない。今日から住むマンションの住人だし、これまでの二人よりは好意的だし、まだましかと気を取り直すことにした。

 フルーツたっぷりゼリーケーキは、この女子のせいで二つも買ってしまったが、どうせ二つもいらないし、この女子に食べさせてやってもいいのかなと思い始めた。

「じゃあ、部屋に戻ってケーキ取ってきます」

 次郎はそう言って一〇三号室を後にしようとした。

「あんた、なに言うてんの」

 優香が高くてキツイ声を発した。

「はあ?」

 なぜ、この女子が声を荒げたのかがわからなかった。

「次郎ちゃんの部屋でいっしょに食べようや。あたし、さっきそう言うたやろ。やっぱ、あんた頭悪いんか」

 彼女が自分の頭に人差し指を向けた。

「僕の部屋でいっしょに食べるんですか」

 次郎は目を見開いた。この女子は一人で自分の部屋に来るつもりなのか。そうなると、次郎はこの若い女子と部屋で二人きりで過ごすことになるわけだ。これまで女性と付き合ったことのない次郎にとって、はじめての経験だ。それを一人暮らしの初日にして、達成してしまうことになるのか。

「そうやで。今から準備するから、ちょっと待っててや」

 次郎が呆然としていると、優香は一度奥の部屋へと姿を消した。部屋の奥からガサコソ物音がした。次郎は部屋の中に首を伸ばした。

「覗いたらあかんでー」

 優香の声がして、伸ばしていた首を引っ込めた。

 次郎は嬉しいような怖いような、期待と不安を抱きながら、優香が出てくるのを待った。


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