ニ〇三号室の住人
次郎は二つ目のクッキーの紙袋を手に持って次の二〇三号室のドアの前まに立っていた。
「フゥー」と息を吐いてからインターフォンに人差し指をのせた。
二〇四号室の三浦という男のせいで、なかなかインターフォンを押す勇気が出せなかった。
また怖そうな人が出てきたら嫌だなと、胃の痛みがきつくなるのを感じた。もしかすると、このマンションは反社会的な人ばかりが入居してるのではないだろうか。
だから、新しくてきれいで好立地なマンションなのに家賃が安いんじゃないだろうか。一般の人が入居してもすぐに出ていくから、こんなに空きが多いんじゃないだろうか。
そんなことばかり考えて、インターフォンのボタンに人差し指をのせたまま時間が過ぎていった。
「何してるんですか?」
背中から鋭利な刃物のような高く響く冷たい声が聞こえた。慌ててインターフォンから人差し指を引っ込め、声のする方向に視線を向けた。
そこには女性が立っていた。ひっつめ髪の黒縁のメガネをかけた化粧っ気のない女性だった。年齢は次郎より少し上、二十代後半か三十歳くらいだろう。女性は眼鏡の奥の一重瞼のつり上がった細い目で次郎を射ぬくように見ていた。
「あなた、誰?」
女性は眉間に皺を寄せ、訝しげな表情で次郎を見てきた。次郎は金縛りにでもあったかのように動けなくなった。
「あっ、え、えっと」
「もしかして、あなた、下着泥棒、それとも、チカン」
女性は次郎の顔を覗きこんできた。女性の眉間に一段と深い皺が入った。
「い、いえ、ち、ちがいます。ちがいます」
次郎は右手と首を同時に何度も横に振った。
「じゃあ、なんで人の部屋を覗いてたのよ」
女性が一歩二歩と詰め寄ってくる。
「覗いてなんてしていません。誤解です」
「嘘おっしゃい。今、ドアの隙間に顔を当ててたじゃない」
「そんなことはしていません。インターフォンを押そうとしていただけです」
「そんな言い訳はいいから、ここからさっさと立ち去りなさい。さもないと警察呼ぶわよ」
女性はヒステリックにキンキンと高い声を出した。
「本当です。部屋を覗こうなんてしていません。インターフォンを押そうとしてただけです」
「そんな嘘が通用するわけないでしょ」
女性は悲鳴のような大声を張りあげ、持っていたバッグを頭の上に振り上げて、次郎の頭めがけて振り下ろしてきた。次郎は後ろに下がり、それを何とかかわした。
女性の振り下ろしたバッグは空を切った。女性の細くて華奢な体は遠心力のついたバッグに振り回され、前のめりに体勢を崩した。
次郎は目の前で倒れそうになった女性を支えようとして、右手を差し出し女性の左の二の腕を握った。
「大丈夫ですか」
次郎が女性の二の腕を握ったまま言うと、「キャー、チカーン」と女性は大声を張り上げ次郎の右手を振り払った。
「このチカン、いい加減にしなさい」
女性はそう言って、今度はバッグを横に勢いよく振った。遠心力のついたバッグは次郎のこめかみにヒットした。当たった瞬間、目の前に火花が散った。次郎は頭がクラっとして膝から崩れ落ちた。
それでも女性は容赦することなく、地面にひざまづく次郎の頭に向けてバッグを何度も振り下ろした。
「すいません、すいません。このとおりです。もう許してください」
次郎は床に膝をついたまま、両腕で頭を庇いながら謝り続けた。
「このチカン。早くこのマンションから立ち去りなさい。でないと本当に警察呼ぶわよ」
女性はひっつみの髪を振り乱し、キンキン、キンキンと怒鳴った。
「本当に怪しい者じゃありません」
「怪しい者じゃないわけないでしょ。他人の部屋の前でじっと立ってるんだから、怪しいに決まってるでしょ。それにさっき私の体を触ってきたじゃない。チカンの現行犯よ。警察に連絡されたくなかったら、すぐにここから立ち去りなさい」
次郎の前で女性は仁王立ちし、肩を上下させ息を切らしながら次郎を睨みつけていた。
次郎は泣きそうになりながら女性を見上げた。女性は肩で息をしていた。色のない唇はきつく結ばれ、黒縁眼鏡の奥に光る細い目は一段と細くなり次郎を睨み続けた。
「今日、二〇五号室に引っ越してきた瀬川次郎といいます。決して怪しいものではありません」
次郎は胸の前で両手を組み神様に祈るようなポーズをとった。
「ここに引っ越してきた?」
女性は口元を歪めた。
「は、はい。そ、それで、引っ越しのご挨拶にと思いまして、こ、これを」
バッグで殴られた拍子に床に飛んでしまったクッキーの紙袋を拾い上げ、ひざまづいたまま女性の目の前に両手で差し出した。
「関急百貨店ね」
女性は紙袋に書いてあるマークを首を傾げながら見て呟いた。
「はい、さっき駅前の関急百貨店で買ってきました」
女性は、「ふーん」と言いながら、紙袋を受け取った。
「これからよろしくお願いします」
そのまま土下座した。
「引っ越してきて、挨拶にきたことはわかりました。これは遠慮なく受け取らせていただきます」
女性は抑揚のない声で言った。
「はい、よろしくお願いします」
「ですが、あなたを信用したわけではありませんから、こんなものでわたしを釣って近づこうとはしないでください」
「あ、い、いや別にこれで釣ろうなんて気はありませんが……」
「あなたは男性でわたしは女性です」
女性は次郎の言葉を遮った。
「は、はい」
下心があるように思われてしまったのだろうか、決してそんなつもりはないのに、どう説明すればわかってもらえるのだろうか。
「今後、くれぐれもわたしには近づかないでください。言葉もかけないでください。挨拶もしなくて結構です」
「挨拶もダメなんですか」
「以上。それでは、すぐに立ち去りなさい」
女性は次郎の質問には答えようとせずに、どこかにある銅像のように右手を腰にあて、左手の人差し指を二〇五号室の方に向けた。
「えっ、あ、はい。あのー」
「なんですか。用件は終わったはずです」
「お、お名前だけでもお聞かせ願えませんか」
次郎が言うと、女性は唇を噛みしめ、細かった目を今度は大きく見開いて次郎を睨み付けた。
やばい、本当に警察に通報される。
「い、いや、いいです。す、すみません。すぐに帰ります」
次郎は慌てて立ち上がり、踵を返して二〇五号室の方へとフラフラしながらも早足で歩いて行った。
二〇三号室のドアが『バーン』と激しく閉まる音を背中で聞いた。その音に体を竦めた。
部屋に入ってドアを閉め、ドアにもたれるようにして玄関に立つと、「ハァー」と深いため息が勝手に出た。
二〇四号室の三浦は無愛想で厳つい感じだし、二〇三号室の女性はヒステリックな感じだし、これから物音を立てないように注意し、廊下などで顔を合わせても挨拶せずに、出来るだけ刺激しないようにしなければならない。
このマンションに住む限りずっと神経をすり減らさなければならないのかと思うと、次郎は憂鬱な気分になった。
同じ二階に住む二人の挨拶だけで疲れはピークに達してしまった。日中の引っ越しで疲れたと思っていたが、今から思えば、あんなのは屁みたいなものだ。
これから残りの一階に住む二人の住人に挨拶に行く気持ちは削がれてしまった。
関急百貨店の女性店員は愛想が良くて可愛かったのにと思う。ここに引っ越してきて、手土産を買いに関急百貨店へ行き女性店員に出会った時は、引っ越し初日から幸先がいいと思っていたのにとため息が出た。その後、こんな最悪な展開になろうとは思いもしなかった。
あの関急百貨店の女性店員のような女子がこのマンションに入居してくれていれば、薔薇色の一人暮らしになったろうにと、次郎は天井を見上げた。
少し休憩をとり、気を取り直してから三つ目の紙袋を手に部屋を出て一階へと階段を降りていった。
一階に下りて、挨拶に向かう前にポストでさっきのヒステリックな女性の名前を確認することにした。
二〇三号室の下に書いてある名前は『見市』となっていた。ついでに二〇四号室を見ると『石中』と書いてある。さっきの凶暴な男は、確か『三浦』と名乗ったはずだがと首を捻った。あの男性が嘘をついたのか、その可能性は十分にある。まあ、どちらでもいい。この先、あの男性と関わることはないだろうから。
今から向かう一〇三号室は『浦川』となっていて、もうひとつの一〇四号室には名前が入ってなかった。
男性だろうか女性だろうか、それは、この際どちらでもいい。とりあえず普通の人が出てきてくれとポストに向かって手を合わせた。