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ニ〇四号室の住人

 百貨店の女性店員の笑顔が頭から離れないまま、ルンルン気分で部屋に帰ってきた次郎は、このマンションの住人に挨拶に回る準備をはじめた。

 買ってきたクッキーを可愛い女性店員が別につけてくれた小さめの手提げの紙袋に一缶ずつ入れかえてテーブルに並べた。まず、そのうちの一袋を手に部屋を出た。

 このマンションに入居しているのは四名で、二階は二〇三号室と二〇四号室、一階は一〇三号室と一〇四号室に住んでいると不動産屋の志賀から聞いている。

 まずは隣の二〇四号室のドアの前に立ち、インターフォンのボタンを押した。

 どんな住人が出てくるだろうかと、次郎の胸に緊張が走った。次郎は無機質なブラウン色のドアをじっと見つめ、大きく息を吸った。

 しばらくすると、インターフォンから「はあ」という張りのないしゃがれた低い声が聞こえてきた。気だるく不機嫌そうな声だった。それを聞いて嫌な予感がした。

「お忙しい時間にすいません。本日、このマンションに引っ越してきた瀬川といいます。引っ越しのご挨拶にお伺いしました」

 次郎が言うと、インターフォンの向こうから「チェッ」と舌打ちする音が漏れた。

 この住人はすこぶる機嫌が悪そうだ。忙しかったのだろうか。ちょうど夕食の時間くらいだから食事中なのかもしれない。もう少し遅い時間にした方がよかったのか。しかし遅い時間に訪ねるのも非常識だ。明日にすれば良かったのか、いや、明日にしても同じことだ。挨拶は出来るだけ早い方がいいはずだ。

 やはり一人暮らしのマンションで引っ越しの挨拶は嫌がられるのだろうか、やめた方が良かったのか。

 ドアの前で待っている間、インターフォンを見つめながら、そんなことが次郎の頭の中をめぐった。

 部屋の中からドタバタと激しい音がして、次郎の胸は早鐘を打ちはじめた。一度ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 カチャっと鍵の開く音がして、ブラウン色のドアが少し浮いた。次郎は髪の毛を整え深呼吸した。そのままドアがゆっくりと三十センチくらいだけ開いた。

 次郎は三十センチのドアの隙間に回りこんで、「失礼します」と頭を下げた。フンと鼻を鳴らす音がした気もするが、男からはっきりした反応はなかった。

 顔を上げてから、ドアの隙間を覗きこむと、薄暗い空間の奥に無精髭を生やした彫りの深い男の顔が見えた。男は次郎を睨みつけていた。その目は鋭く光っていて、海底で岩の隙間から獲物を狙ううつぼのようだった。

「お忙しい時間に申し訳ありません」

 深々と頭を下げた。

 ドアの隙間から男を見ると口元を歪め、次郎の頭の天辺から爪先までを鋭い目で舐めるように見ていた。男の年齢は三十歳くらいだろうか、自分よりは年上だろう。

「それで?」

 男は面倒くさそうにボサボサの頭をボリボリと掻いた。

「あ、あの、と、となりに引っ越してきた、瀬川です」

「それは、さっきインターフォンごしに聞いたけど」

 男は不機嫌そうに頬の辺りを掻いた。

「あ、そ、そうでしたね。こ、これ、お近づきの印にと思いまして」

 次郎はクッキーの入った紙袋をドアの隙間から差し出した。

「隣か?」

 男は顎の先をニ〇五号室の方に向けた。

「はい、隣のニ〇五号室です。よろしくお願いいたします」

 男は部屋の中を次郎に見られたくないのか、ドアを大きく開けようとはせずに、三十センチほどの隙間から自分の大きな体をスルりと滑らせて外に出てきた。外に出てから後ろ手にドアを閉めた。

 前に立つ男は次郎より二十センチくらい背が高く、がっちりとした体格をしていた。男は次郎を見下ろした。

 次郎の目の前には男の厚い胸板が広がり、次郎は男を見上げるような形になった。

 次郎を見下ろす男と目が合って縮みあがりながらも、「こ、これを、ど、どうぞ」と、もう一度男の前に紙袋を差し出した。

「なんで隣なんだよ」

 男は上から次郎を睨みつけてきた。

「すいません。空いていたので不動産屋さんに二〇五号室をお願いしました」

 どこの部屋に引っ越してこようがこっちの勝手だろうと思ったが、間違ってもそんなことを口に出せる相手ではない。口に出した途端、きっとボコボコにされるだろう。

「あんまり、物音たてんなよ」

 男は後頭部のあたりを掻いていた。

「あ、は、はい。それは気をつけます」

「絶対だぞ」

 男は次郎の鼻先に人差し指を向けた。

「は、はい、ぜ、絶対に」

 こんなことを言われると、ちょっとした生活音にも気をつかわなければならない。いきなり厳しい展開になった。

「それならいい。わかった」

 男はドアノブに手をかけ部屋に入ろうとした。

「そ、それと、こ、これを」

 次郎は男が受け取ろうとしないクッキーの紙袋を男の目線まで上げた。

「これなに?」

 男が顎で紙袋を指した。

「お口に合うかわかりませんが、クッキーです。よろしかったら召し上がってください」

「ふーん、クッキーね」

 男は紙袋を片手で受け取って、紙袋の中を覗きこんだ。

「よろしくお願いします」

 次郎は頭を下げてから、この人はなぜこんなに不機嫌なんだろうとぼんやりと男の厳つい顔を眺めていた。

「もう入っていい?」

 男はドアノブを引いた。

「あっ、あの、お名前をおうかがいしてもよろしいですか」

「俺のか?」

 男は口元を歪めた。

「そ、そうです」

 お前以外に誰がいるんだよと、心の中だけで呟いた。

「あ、あー」

 男は後頭部を掻いて、顔をしかめた。

「ダ、ダメなら結構です。すいません」

「三浦、だけど」

「三浦さん? あ、そ、そうですか。で、では、三浦さん、これからよろしくお願いします」

 次郎は深々と頭を下げた。

「わかった、じゃあな」

 三浦はドアノブを引いて、また三十センチほどだけドアを開けて、滑り込ませるようにして体を部屋の中に入れた。三浦の体が中に入った途端にドアが勢いよくバタンと閉まった。

 次郎は閉まったドアをじっと見つめ、いきなり一癖も二癖もある住人だったなとため息を吐いた。

 胃に鈍く差し込むような痛みを感じた。ここに住む残り三人はどんな住人たちなんだろう。残りの三人に挨拶に回るのが少し憂鬱になった。

 このまま挨拶はやめてしまおうかとも思ったが、どうせ顔を合わせることになるなら、前もってどんな人たちか知っておいた方がいいと、勇気を奮い立たせた。

 次郎は一旦、部屋に戻って一息つくことにした。



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