いえさがし
「瀬川、五月十一日付で川西店への異動が決まったぞ」
大手家電量販店に勤務する瀬川次郎は忙しかった新生活のシーズンとゴールデンウィークを終えて、これから少し落ち着くなと思っていたところに店長からそう告げられた。
あまりに急で、その上通勤時間が大幅に長くなることに少し不満を感じたが、雇われの身としては突っぱねることなど出来ない。
入社五年目、そろそろ仕事にマンネリを感じていた時期でもあるし、いいタイミングなのかもしれないと自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えることにした。
転勤先は自宅から通えなくもないが、この際引っ越して一人暮らしすることに決めた。
さっそく次の休日の朝一番に不動産屋に電話をかけた。次郎が不動産屋に希望条件を告げると、不動産屋はすぐに条件に合った物件が紹介できると早口で言った。
次郎もすぐにでも決めたかったので、その日の午後一時に不動産屋と約束した。昼食を不動産屋の最寄り駅の駅前にある牛丼屋ですませてから不動産屋へと向かった。
不動産屋は駅から歩いて五分くらいのところにあった。ガラス張りの壁にたくさんの物件情報が貼ってある、昭和の臭いが漂う昔ながらの地元密着の不動産屋だ。
次郎は重いガラスのドアを押し開けて中に入ると、年配の男性と若い女性が椅子に腰掛けていた。年配の男性が朝の電話で対応してくれた人だろう。
「すいません」
ドアを開けたところで次郎が言うと、椅子に腰掛けていた二人は同時に次郎の方に顔を向けてから立ち上がり、「いらっしゃいませ」とにこやかな表情を向けた。
感じのいい人たちで、紹介してもらう物件も期待が持てそうだと思った。しかし、次郎は困ったことに気づいていた、
中年の男性の方が次郎のところまで歩みよって「瀬川次郎さんですか」とふっくらした満面の笑みを見せた。
男性の年齢は五十代後半くらいだろうか、体が風船のように膨らんでいて手足が短い。太りすぎたペンギンのようだなと思った。
「はい、午前中にお電話した瀬川です」
次郎がそう言うと、男性は「お待ちしておりました。さあ、さあ、どうぞ」と言って、奥のテーブルへと案内してくれた。
「よろしくお願いします」
次郎はテーブルの前に立ち、男性に向けて頭を下げた。
「はい、どうぞお掛けください」
男性は次郎の座る椅子を引いてくれた。
次郎が椅子に腰を下ろすと男性も資料を持って、テーブルを挟んで次郎の前に腰を下ろした。
「はじめまして。私が、瀬川さんを担当する志賀と申します。今日はよろしくお願いいたします」
志賀はそう言って、次郎に名刺を差し出した。
「よろしくお願いします」
次郎は頭を下げてから志賀が差し出した名刺を受け取り、名刺に視線を落とした。名刺には『志賀佐衞』と書いてあった。
「しがさえいさん?」
次郎はそう呟いて、志賀に顔を向けた。
「はい、私は『しがさえい』と言います。よろしくお願いいたします」
『しがさえい』
次郎は首を傾げた。これは本名ではなく、不動産屋だからこの名前にしたのか、それとも本名がこれだから不動産屋になったのか、訊く必要もないことだが、次郎はすごく気になった。
「朝の電話のお話では、川西方面で家賃が六万円くらいでお一人でお住まいの部屋をお探しということでしたね」
志賀はニコニコした表情を浮かべている。
「は、はい」
次郎の声は小さくなってしまった。朝の電話で次郎は志賀に希望条件を通勤時間が三十分以内で家賃六万円とお願いしていたが、正直家賃が六万円だと家計がきつくなることに後で気づいた。これが次郎の困ったことだった。
「お電話いただいてから、家賃六万円前後の物件で良さそうなのをいくつかピックアップしておきましたよ。きっと気に入ってもらえると思います」
志賀はニコニコと自信たっぷりの表情を浮かべた。
「そ、そうですか」
次郎は志賀のその表情を見て、後ろめたい気持ちになった。
「たまにね、川西で五万円以下の部屋がないかって言われるんですけど、そうなるとほとんど紹介できないんですよ。けど、お客さんは六万円前後でということですから、そこそこいい物件がありますよ。期待してください。まずはね、特に私のおすすめの物件を五つピックアップしておきました。これらの資料を見てください。今から順に紹介していきますね」
志賀は言ってから五枚の資料をテーブルに広げた。
「そうですね、まずは、どの物件から紹介しましょうかね」
志賀はテーブルに並べた資料に視線を巡らせた。その様子はなんとなく楽しそうに見えた。
それから、志賀が順に全ての物件を紹介してくれたが、次郎は決めることが出来なかった。予算オーバーだからだ。
志賀が紹介してくれた物件の中で一番安いのは家賃が五万七千円だった。それに共益費を含めると、月々の出費は六万円近くになってしまう。
今さら、志賀に五万円以下で探しなおしてくれとは言い出せなかった。かと言って、今紹介してくれた物件で契約するとなると、月々のやりくりは本当に厳しくなる。
次郎は答えることもできず俯いてしまった。次郎が俯いてしまったせいか、志賀もさっきまでとは違い、言葉数が少なくなった。
しばらく志賀の視線が俯く次郎の脳天に刺さるのを感じた。次郎は一段と顔を上げづらくなった。
志賀の口から、「ハァー」というため息を漏らす音が聞こえた。
次郎はそっと目だけを上げて志賀の様子を窺った。志賀は分厚い下唇を突きだして短い腕を組み次郎の方をじっと見ていた。
「どの物件も気に入らないですかね」
志賀はそう言って首を折った。ベテランの志賀は二十代の若輩者の次郎に対して、熱心に条件に合う物件を探してくれ、それぞれの物件について細かく丁寧に説明してくれた。
気の弱い次郎は、今さら志賀に向かって家賃五万円以下で探しなおしてくれと言い出せなかった。
「す、すいません」
次郎はペコリと頭を下げた。
「いいですよ。家賃六万円なら、まだまだ他にもいい物件がたくさんありますからね。ちょっと待っててください。すぐに次のおすすめ物件をピックアップしますから。よーし、次はどれにしようかな」
志賀は気を取り直すようにして両膝を叩いて立ち上がり、背後にある棚に体を向けた。棚には青いファイルがズラリと並んでいる。志賀はその中の一冊を抜き取りページをパラパラとめくりはじめた。
五万円以下の物件にしてくれと、早く言わないといけない。次郎は慌てて口を開いた。
「待ってください」
次郎にしては大きな声が出た。
志賀は、「はっ?」と言って次郎に向き直った。
「どうかしましたか」
志賀は次郎に訝しげな顔を向けてきた。
「いや、あの、そのですね」
次郎はモジモジした。
「私の紹介する物件には興味がありませんか」
志賀は呆れたように言った。
「いえ、志賀さんの紹介してくれた物件はどれも良かったです」
「ありがとうございます。では、物件の紹介続けてもよろしいでしょうか」
「いや、いいんですけど」
「いいんですけど、どうかしましたか」
「実は、朝ここに電話した後、計算してみたんですが思ったよりお金が足りなくて、家賃が六万円だと生活が厳しいかなと思って、それで五万円以下でいい物件がないかなと思いまして、あの……、すいません」
次郎は頭を深々と下げた。志賀にキレられるのではないかと思った、
「なるほどそういうことですか。川西界隈で五万円以下とはなかなかきついこと言いますね」
志賀は苦笑いを浮かべた
「本当にすいません」
次郎は上目遣いで志賀を見た。
「川西で家賃五万円以下ですか」
志賀が一旦椅子に座りなおして腕を組んで、「うーん」と唸りながら天井を眺めていた。
志賀はそこからしばらく分厚い下唇を突き出して目を閉じたまま固まっていた。
次郎はあきらめて帰った方がよさそうだなと思った。
「やっぱり、川西で家賃五万円以下なんて無いですよね。お手数おかけしてすいません。あきらめます」
次郎は椅子から立ち上がった。
きっと志賀は、それなら最初から電話でそう言えよ。無駄な時間を使わせやがってと思っているのだろう。
「お客さん、名前は瀬川次郎さんでしたよね」
志賀が目を閉じたまま急に次郎の名前を確認してきた。
「あ、は、はい。瀬川次郎です」
「なるほど、いい名前ですね」
志賀が目を開けて立ち上がった次郎を見上げた。志賀の分厚い唇の両端がギュッと上がった。
自分の名前がいいなんて思ったことない。『しがさえい』の方が不動産屋らしくていい名前だ。
「僕の名前がいいですか」
次郎は首を傾げた。
「うん、絶対いい名前です。これでぴったりです」
「何がぴったりなんですか」
全くわけがわからなかった。わかるのは志賀は怒ってないということだ。なぜかニコニコしている。
「じゃあ、あなたに特別な物件を紹介しますよ」
志賀は勢いよくソファから立ち上がった。
「五万円以下であるんですか」
「ありますよ、それもすごい特別なのがね。特別な人にしか紹介していない物件があるんですよ」
志賀は右の口角だけを上げた。
志賀は立ち上がり背後の棚に並ぶ青いファイルに芋虫のような人差し指を這わせた。
「よし、これだ」
志賀はそう言って棚から背表紙に赤色で大きく『特』とだけ書いたファイルに人差し指をかけ抜き取り、次郎の方に体を向け、ニヤリと笑みを浮かべた。
「瀬川さん、どうぞ座って下さい。これから瀬川さんにここにある特別な物件を紹介しますから」
次郎はよくわからなかったが、とりあえず椅子に腰を下ろした。
志賀も椅子に座って、ファイルをテーブルに置き、二、三ページめくったところで一枚の資料を抜き取った。
「ありましたよ。これです。これこそがうちのとっておきの特別な物件です。これがダメでしたら、うちが紹介できる物件はないですから、違う不動産屋をあたってもらうしかないですね。でも、あなたはここに決めなきゃダメなんですよ」
志賀が資料を次郎の方に向けた。そのあとギョロっとした大きな目で次郎をじっと見ていた。まるで相撲の立ち会いの時のような真剣な眼差しだった。
「こ、これが特別な物件ですか」
次郎は資料を手にとり視線を落とした。
『川西マンション。築三年、洋室六畳・キッチン三畳、川西駅から徒歩五分、家賃三万円、共益費、敷金、礼金なし』
次郎は見間違いではないかと何度も何度も見た。家賃が三万円で駅まで徒歩五分。古いボロボロの建物かと思ったが築三年と新しい。築三十年の記載間違いではないのかと思った。
「築三年って新しいですよね。三十年の間違いじゃないんですか」
「いえいえ、まだまだ新しいきれいなマンションです」
「でも、これ、本当なんですか」
「ええ、本当です。すごいでしょ。それが、うちのとっておきの特別な物件なんです。気に入ってもらえましたか」
「なぜ、こんなすごい破格の条件なんですか。これまでのとは比べ物になりません。なにか、理由があるんじゃないですか」
次郎は物件のあまりの条件の良さに何かウラがあるんではないかと疑った。
「嫌なら、いいですよ」
志賀は拗ねたように口元を歪めた。そして、次郎から資料を取り返そうと、短い右手を伸ばしてきた。
嫌なわけがない。こんな条件、他を探しても絶対に見つからない。これを逃すわけにはいかない。
「い、いえ、ぼ、僕、こ、ここにします。ここを紹介してください」
次郎は立ち上がって志賀に向けて深々と頭を下げた。
「そうですか。決めてくれますか」
志賀がニヤリと口角を上げた。
引っ越しの荷物を全て部屋に運びこみ、次郎はこれからこのマンションの住人に挨拶に回るつもりにしている。
一人暮らしのマンションで引っ越しの挨拶に回るのは少数派かもしれないが、これから同じ屋根の下で暮らす住人たちに手土産を持って挨拶して、損することはないだろう。どんな人たちが、このマンションに住んでいるのか、前もって知っておくと、後々なにかと役に立つはずだと思っている。
引っ越しの挨拶の手土産は何がいいかとネットであれこれと調べてみると、クッキーのような焼き菓子がよいと書いてあったので、駅前の関急百貨店で買い求めることにした。
不動産屋の志賀から川西マンションは現在十部屋のうち四部屋が埋まっていると聞いていた。駅近の好立地で破格の安さのわりに自分を含めて半分しか埋まっていないことが、少し不思議に思ったが、この時は、それについて、それほど深く考えることはなかった。
志賀はとっておきの特別な物件と言ってこのマンションを紹介してくれた。確かに条件は良すぎなので、とっておきの特別な物件なのはわかるが、志賀は何故とっておきの特別なこのマンションを自分のような若輩者に紹介してくれたのかが不思議だった。
『瀬川次郎』という名前が気に入ったと言っていたが、なにが気に入ったのかはわからない。瀬川次郎という名前に何か意味があるのだろうか。次郎はそんなことをぼんやりと考えながら関急百貨店へと歩いて向かった。
女性客が行き交う中、菓子の甘い香りや香水の香りが鼻孔から入ってくる。店内に流れるアナウンスやBGMと床を打つ靴音、店員やお客さんの声が次から次へと耳に飛び込んでくる。次郎はこういう華やかな場所は気後れして得意ではない。
普段、来ることのない百貨店に来て、次郎は落ち着くことができず、おどおどしながら店内を見渡していた。
地下一階の洋菓子専門店がずらりと並ぶフロアに来てみたが、人の多さや雰囲気に馴染むことが出来ず、次郎は息苦しさを覚えた。
華やかな服を身に纏う女性客、ショーケースの奥でキラキラと満面の笑みを浮かべる女性店員。この空間にいる自分は場違いな男ではないかと感じた。
次郎はショーケースにケーキやバームクーヘン、シュークリームが照明に照らされ輝いているのを遠くから眺めることしかできなかった。煌めくショーケースに近づくことが出来ず、どの店で買えばいいのかも決められない。店員に声をかける勇気もなくただひたすらフロアをグルグルと何周も回っていた。
同じフロアを何周も回っているので、そのうち女性店員たちの次郎に突き刺す視線が冷たくなってきた。それを感じて、次郎は一段と店に近づけなくなった。
ショーケースに並ぶ生菓子のケーキが美味しそうだったが、挨拶に持っていく手土産は日持ちのするものにした方がいいとネットには書いてあった。ケーキは魅力的だが、それは自分用に一つだけ買うことに決めた。
「いらっしゃいませ、こちらは季節限定のフルーツたっぷりゼリーケーキですよ。今しか買えない限定販売です」
高くて清んだ声が次郎に向けられた。声のする方に顔を向けると黒目がちの大きな目をクリクリと小動物のように動かす若い女性店員が小首を傾げ次郎に向けて微笑んでいた。
次郎は彼女を見た瞬間に心が跳ねた。自分の口元が緩んでいくのがわかった。
彼女は白のフリルのついた黒地のワンピース姿がよく似合っていて、陶器のような肌にピンク色の頬が人形のようだった。可愛いすぎるだろと次郎は思った。
次郎は夢遊病者のように彼女の立つショーケースの前へと足を踏み出していった。
「いらっしゃいませ」
次郎がショーケースに近づくと、女性店員は満面の笑みで迎えてくれた。それだけで次郎の顔は熱くなった。
「季節限定のフルーツたっぷりゼリーケーキ、こちらがあたしのおすすめですよ」
次郎は彼女の輝く笑顔を見てから、ショーケースの方へと視線を下げた。女性店員がおすすめと言うフルーツたっぷりゼリーケーキがショーケースの真ん中でキラキラと輝いていた。
この可愛い女性店員が、おすすめしてくれているし、美味しそうだったので、これをひとつ買うことに決めた。あと、引っ越しの挨拶用の菓子をどれにしようかと、今度はショーケースの上に並ぶクッキーの方に視線を上げた。クッキーの並ぶ奥に女性店員の膨らんだ胸元が見える。つい、そちらに視線がいってしまう。
女性店員に声をかけた方がいいのではと思うが、なんと言っていいのかわからず無言のままクッキーとその奥に見える彼女の胸元を見ていた。
ショーケースの上には五百円から三千円までのクッキーの詰め合わせが所狭しと並んでいた。
千円のでいいだろうと、千円の値札のついたクッキーの見本を覗きこんだ。
「お客様、こちらのクッキーをお求めでございますか」
女性店員が声をかけてきた。アニメのキャラクターのような鼻に抜けるふんわりとした甘い声だ。
次郎は女性店員の方に顔を上げ、彼女の顔を見てから、もう一度小さく膨らむ胸に視線を下げた。そして名札に書いてある『浦川』という名前を確認した。
「浦川さんか」と心の中で呟いて、頭の中に浦川という名前を刻みこんだ。
「え、ええ。引っ越しの挨拶にと思って探してるんです」
次郎はやっと口を開くことが出来た。
「それでしたら、お客様が、今ご覧になっております当店オリジナルのクッキーの詰め合わせがおすすめですよ。特にこちらの缶に入ったタイプは缶のデザインも可愛いですし、この店の人気の商品です」
女性店員の魅力的な薄い唇が動く。最後ににっこりと笑みを浮かべ小首を傾げた。その仕草が可愛いすぎた。心臓がピョンピョン跳ねて、次郎の思考はおかしくなっていった。
「じゃ、じゃあ、こ、これにします」
次郎は生唾を呑み込み、ショーケースの上に並ぶクッキーを指差した。
「五百円から三千円までございますが、どのくらいのご予算でお考えですか」
女性店員がまた少し小首を傾げながら笑みを浮かべた。女性店員が可愛いデザインだと言う缶入りのタイプは二千円と三千円のタイプだった。
次郎が買おうと思っていた千円のタイプは箱入りだ。
「二、二千円のを四つ下さい。そ、それとこのフルーツたっぷりゼリーケーキも二つ下さい」
女性店員の笑顔のせいで、次郎は見栄をはり、千円のクッキーのつもりが二千円になり、自分用に一つでよかったフルーツたっぷりゼリーケーキも二つになった。一人で二つのケーキが食べられるだろうか。予定していた出費が倍になってしまったが、そんなことは今はもうどうでもいい。彼女と会話できたことだけで満足だ。
「こちらのクッキーが四つとフルーツたっぷりケーキゼリーがお二つですね。先にお会計よろしいですか」
「あっ、はい」
次郎は財布をポケットから取り出し中身を確認した。一万円札が見えてほっとした。
「全部で九千九百三十六円になります」
次郎は財布から一万円札を抜き取った。
「こ、これで」
女性店員が出すトレイに一万円札を載せた。おつりを受け取ってから、大きく息を吐いた。
「では、商品を包装しますので、もうしばらくお待ちくださいね」
またまた女性店員が少し首を傾げながら笑みをくれた。次郎はその仕草にメロメロになり、心臓は爆発寸前になっていた。
一つ一つ丁寧に包装する彼女に見惚れた。次郎の視線は彼女の瞳から薄い唇、胸元へと下りていく。もっと彼女と話がしたい。知り合いになりたい。体をカッカさせながら包装が終わるのを待った。
包装が終わり彼女が、ショーケースから前に出てきて次郎の前に立った。
「大変お待たせいたしました」
女性店員は二つの紙袋を次郎の前に両手で差し出した。
「あ、ありがとうございます」
次郎はペコリと頭を下げた。それからしばらく紙袋を受け取った体勢のまま動かず、彼女をじっと見つめていた。
女性店員はニコニコと笑って「ありがとうございました」と頭を下げた。
次郎はそのあとも、しばらく彼女を見つめていた。
「お客様?」
彼女が首を傾げて声をかけた。
「は、はい」
「まだなにか、ご入り用でございますか」
「えっ、い、いえ、だ、大丈夫です。こ、これ美味しそうですよね」
次郎はショーケースの中のフルーツたっぷりゼリーケーキを指差した、
「ええ、季節限定のおすすめ商品でございます」
「ぜ、絶対、ま、また買いに来ます。そしてあなたに会いにきます」
次郎は腰を半分に折った。
「楽しみにお待ちしております」
女性店員が丁寧に頭を下げた。
「は、はい」
次郎はフロアーに響くくらいの今日一番の声を上げた。