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プロローグ

 前の公園では蝉がジィージィーと派手に鳴いている。あまりにうるさいので、これからの話の邪魔になる。わたしは窓を閉めエアコンをオンにした。冷たい風が顔に当たる。

 わたしは部屋の真ん中にある小さくて白いテーブルの前に正座した。このテーブルを娘の香代子とこの部屋に運びこんだ日がつい昨日のことのように思い出される。

 あの時の夢と希望に満ちた香代子の晴れ晴れした表情を見て、わたしは娘と離れ離れで暮らす寂しさにも耐えることができると思った。

 それなのに、なぜこんなことになってしまったのだろう。

 テーブルの上には写真立てがポツンとひとつ置いてある。写真の中からわたしに笑みを向ける男と香代子の姿を見ると、胸が締めつけられて涙が溢れてくる。

 先に隣に座っていた夫も同じ気持ちなのだろう。夫は写真立てを一瞥してからバタンとテーブルに伏せた。そして、前に座る男に睨むような視線を向けた。

「それでは、君の相談内容を訊かせてもらおうかな」

 夫は感情を殺し平坦な口調で男に言った。一年前にビール片手にプロ野球の話題で盛り上がっていた二人と同じ人物とは思えない。

 男は背筋をピンと伸ばし、肺に息を吸い込んで大きな胸を膨らませてから口を開いた。

「俺の気持ちの整理がつくまで、この部屋に住まわせてもらいたいんです。お願いします」

 男はそう言ってわたしたち夫婦に向けて、白いテーブルに額をこすりつけた。

 わたしたちの知っている写真に映る優しかった頃の男とは別人のように変わってしまっていたので、この申し出を受け入れるべきか、わたしは頭を悩ませた。

 夫を見ると腕を組み唇を噛みしめていた。夫も同じように悩んでいるのだろう。

 あんなことがあったのだから、男の気持ちは痛いほどわかる。というより、わたしたち夫婦もこの男と同じ気持ち、いやそれ以上に辛い気持ちだ。

 このままではわたしたち夫婦も気持ちの整理がつかないままだ。どこにこの気持ちをぶつければいいのかわからない。あれ以来、わたしは生きていくことに苦痛を感じ死んでしまいたいと何度も思った。

 それから、しばらく白いテーブルを囲む三人は誰も口を開かなくなった。

 沈黙が続く。男はテーブルに額をつけたまま顔を上げない。男の大きな体は小刻みに震えている。男の様子を見て、わたしはこの男に任せてもいいのではないかと思い始めた。

「じゃあ、一年間の約束でどうだろう。お互いのためにも期限は切った方がいい」

 男の申し出を正座したまま黙って腕を組んでいた夫が、男の後頭部に向かって声を発した。夫もわたしと同じ考えのようだ。

 男は夫の言葉を聞くとすぐに顔を上げ、「本当ですか、ありがとうございます」と言って夫とわたしを交互に見た。その時、真っ赤に潤んだ男の目から一筋の涙が伝った。

 その涙を見て、この男はあのころと変わっていない。昔の優しい男のままだと思った。男の顔をじっと見つめる夫の目も赤く潤んでいた。唇を噛みしめ涙を堪えているのがわかった。

 夫がわたしの方に涙目を向けたので、わたしも同じ気持ちですと、コクりと頷いてみせた。

 今度は、男がわたしに真っ赤な目を向けてきた。わたしは男に向けて言葉を発することができなくて、何度も小さく頷いて見せた。

 男は、もう一度「ありがとうございます」と言って、後ろに下がり、今度は床に額をこすりつけた。

「ただし」

 そこで、夫は男に向かって強い口調で言った。

「はい」男は顔を上げた。

「二度と警察の厄介になるような真似はやめてくれ。もし、また、同じようなことがあれば、その時はすぐにここから出ていってもらう」

「はい、わかりました。約束します」

「この件については、不動産屋の志賀さんに、私から話しておくから」

「ありがとうございます」

「志賀さんには、今回の件で大変迷惑をかけてしまったから、これ以上迷惑はかけたくない。くれぐれも頼みます」

「はい、二度とあんな真似はしません」

「私と志賀さんとは、大学時代からの友人でね。いろいろと今回の件も気にかけてくれてるみたいだ。この先も、きっと君の力になってくれると思います。では、そういうことで」

 夫が立ち上がったので、わたしも腰を上げた。

「ご無理を聞いていただいて、ありがとうございます」

 男は慌てて立ち上がり、わたしたちに向けて腰を二つに折った。



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