お久しぶり4
「じゃあ、そういう先輩は何しているんですか?」
特に深い意味はなかった。
忘れていた過去を掘り返されて――ついでにちょっとからかわれて――恥ずかしい思いをした。そのちょっとした意趣返しのつもりだった。
だから、不意を突かれたようなリアクションはむしろ好都合のはずだった。
「ッ!!」
一瞬、目を逸らしたその姿は、なんとなく俺が想像している以上の何かを隠しているような気がして、多分これ以上深掘りするべきじゃない話だと即座に分かった。
「ま、まあ……色々とね」
「そっすか」
だから興味がないという体で早々に打ち切る。
それからお互い、グラスの中身を半分ぐらいまで干した。
からん、と氷が音を立てる。
エアコンの音だけが妙に響き、BGMは聞き覚えのある曲に変わる。
「そうだ!」
「え?」
再び切り出したのは先輩だった。
「連絡先交換しよう!せっかくだし」
そういうや否や、彼女は型遅れのスマートフォンを取り出して、それで全てが通じると信じているように俺に見せる。まあ通じるのだが。
「私がこの町で初めての刑部君の友人になってあげよう」
「何言ってんですか」
言いながらも、俺も同じようにスマートフォンを取り出す。
メッセージアプリの類は使っていないようなので、先輩からメールアドレスと電話番号を赤外線で送ってもらう。
「あ、来ました」
画面に表示される「琉子」の文字。
流石に先輩を呼び捨て登録は気が引けるので「琉子先輩」に変更して登録。
その新しい連絡先に自分の連絡先を送る。
「お、来た来た」
「届きました?」
「うん。これからよろしくね。ケイッチ」
「普通に呼んでください」
タナちゃんと疎遠になってからもう呼ぶ者のいない小学校時代のあだ名は懐かしくもあり、何故か先輩に呼ばれるとその何十倍も恥ずかしい気がした。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ。今日はありがとうね」
店を出て、最初に出会った公園の前まで一緒に歩いていく。
「暇になったら連絡するから、その時はよろしく」
一応はいと答えておくが、本当に友達みたいな感覚で行くつもりなのか。
「それじゃあ、気を付けてね」
「はい。ありがとうございました。失礼します」
公園の前で、彼女に見送られながら、俺は本来の帰り道に戻った。
その日の夜、ベッドの上に転がりながら、先輩のアドレスを改めて見る。
自分のスマートフォンに入った母親以外唯一の女性の連絡先――その我ながら気持ちの悪い受け止め方だとは分かっていながら、その事実と、先輩のどきりとする屈託のない笑顔を思い出していた。
記憶の中の先輩=高校一年生の頃の姿と、今日の姿が頭の中で重ね合わせられる。
併せて古いアルバムを引っ張り出し、埃を被ったそれの中から当時の写真を探し出す。
一目見た時に先輩だと気付いたことからも、二つの顔はよく似た雰囲気を持っていた。
「……ッ!」
どきり、血液が固唾のように心臓から流れ出す。
先輩は過去からも、あの当時何も思わなかったのはきっと、当時の俺に思春期というものがまだ訪れていなかったからだろう。
頭の中の姿と、写真の中の姿、そして蘇る当時の記憶――馬鹿ガキの面倒を見てくれていた頃の先輩との諸々の思い出。
それらは全て、あらゆる意味で距離が近かった。
そんな悶々とした思いを強引に断ち切ったのは、見上げていたスマートフォンを危うく顔面にダイブさせそうになった着信のバイブレーション。
「!?」
表示される文字=琉子先輩。
再び心臓が硬直する。
落としそうになったスマートフォンをしっかりと手の中に収め、180度ロールする体。
うつ伏せのまま覗き込んだ画面に表示された新着メールを、最早意識せずともできる程に慣れた手順で開く。
From:琉子先輩
Title:テスト
テスト送るの忘れたので送りました。
これからヨロシク!
たったそれだけの文章。
絵文字や顔文字の類も一切ない、極めて短いそれを読むのに、俺は随分と時間をかけることになった。
そして返信にかけた時間はその倍はかかっていた。
To:琉子先輩
Title:Re
届きました
よろしくお願いします
どうしようもなく短くてそっけない返事。だが、これ以上の返答などあるのだろうか。
そもそも相手だって特に用があった訳ではない。ただのテストメールだ。だったら、こちらもその結果だけ伝えればいい。
そう結論付けた返信を送るまでの間に頭の中に浮かんでは消えた諸々は、一切存在しなかったものとして扱う事にした。
そんな夜が明けた月曜日。
世間一般と同様に、浮足立った気分がいつまでも続く訳もない。
いつものように学校に行き、いつものように灰色の授業を受け、いつものように一人きりで過ごして、いつものようにバスで帰宅する。
いつもと違う点があるとすれば、今週の金曜日に英語と数学のテストがあるという事だろうか。月曜の午前中から憂鬱になるニュースでスタートした訳だ。
まあ、だからと言って何だというものでもない。愚痴り合う相手もいないのだから、精々赤点をとらないようにするしかない。
いつものようにバスに乗り、いつものようにぼんやりと窓の外を眺める。
いつものように遠くに見えている宇宙塔が、いつものように消えていく。
いつも通りの月曜がいつも通り折り返し地点を超えて、いつものように終わっていく。
そうしたら次はいつものように火曜日が始まって――後はその繰り返しだ。
当然、何のイベントもなく日々は過ぎて、灰色の学校生活を繰り返し、帰りのバスでは毎日宇宙塔が途中で消え、金曜日には予告通りに英語と数学のテストが行われて、自己採点の結果予想通り英語は精々七割、数学は赤点ぎりぎり回避程度だろうという結論に達した。
そんな日の帰り道。帰りのホームルームの後でトイレに寄っていたためにいつもより一本後のバスを待つことになった。
俺の前には同じ丸橋南の生徒が三人。ちらりと見えたクラス章の色から全員三年生であることは分かった。ギャーギャーと、随分楽しそうに盛り上がっている――二人だけは。
「――で、誰なんだよ結局」
そのうちの一人が、唯一例外に鬱陶しがっている奴の肩を抱くようにして何かを尋ねる。
当然、やられた側の機嫌は何一つ変わらない。
「っせーな。誰でもいいだろ」
何の話か知らないが、それで逃すつもりは無いというのは俺だって分かる。
「いやいや、興味あるっしょ。年上のお姉さんとデートだなんて話。白状しちゃえよ目撃談があるんだからさ」
もう一人が横から茶々を入れる。
鬱陶しがっていた奴がそこで初めて反論を発する。
「デートじゃねえって!あれは従姉妹だよ従姉妹!」
その騒ぎの最中に到着したバスに彼らを先頭に乗り込んでいく。
いつものように走り出したバスの中、いつものように車窓の向こうで宇宙塔が消えていく。
だが、それを眺めている俺には、全く何一ついつも通りのところなどなくなってしまった。
年上のお姉さんとデート。最早とうの発言者たちは別の話題に切り替わっているのは、席が離れていても聞こえてくる声で分かる。
年上のお姉さんとデート、多分発言者も既に忘れているだろうそのワードが俺の頭の中をぐるぐる、ぐるぐると回り続けている。
この前の日曜日の一件、もし誰かに見られていたら――いや、そうではなかったとしても、世間一般からはそう見えているのだろうか。
例えばあの時のマスターはどう見ていただろう。
ただの友人関係と思っていたのか、或いは話を漏れ聞いて先輩後輩と思っていたのか、或いは――それ以外の関係だと思っていたのか。
幸い、俺の周りにそんな事を嗅ぎまわる輩はいない。仮にゴシップ中毒者のような奴がいたとして、俺のことなど興味はあるまい。
「いや……いやいや」
思わず口をついたその呟きは、幸い誰にも聞こえていないようだった。
そうだ。あり得ない。
誰からもそんな風に言われることなどないはずだ。仮にみられていても、そしてそう思われたとしても、俺ははっきりと答えられる。ただの先輩後輩の関係だ、と。
その答えは何も変わらなかった――その日の夜に再び先輩からのメールが届くまでは。
From:琉子先輩
Title:今度の日曜日
暇?
一緒に映画行かん?
たったの一言、たったの二行。
読むという意識すら持たず、ただ視界に入っただけで反射的に読破できる文字数。
ただの一撃。そのほんの僅かな文字数と、それを目に入れた一瞬が、何時間もかけて構築した弁解を苦も無く崩壊させた。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に