塔の町で君と3
その時ふと、この階だけ妙に明るいのに気づく。
他は真っ暗とは言わないまでもランタンの明かりが無ければ足元がおぼつかないぐらいには暗かったのに、この階だけは多少暗いぐらいの状態が維持されている。
「明るいな……」
「あれじゃない?」
先輩が差す方向に目をやる。中二階とでも言うべきものだろうか、足場の隅、少しだけ高くなっている場所に大きな穴――というか、外に通じる通路のようなものが伸びているように見える。
上に登る階段もそこに設けられているためそちらへ。
通路だと思っていた場所は壁のすぐ向こうでなくなっており、目立つ黄色の太いチェーンで厳重に封鎖されていて、万が一にもそこから転落するような事が無いようになっている。
「ここは……?」
その通路があったと思しき場所の天井に当たる部分には巨大なパイプが何本か走っていて、元々は外から宇宙塔にそれが引き込まれている構造だったのだろうという事が伺える。
「これ、煙突じゃない?」
その行き先=見えない天井に目を向けながら先輩がそう言った時に合点がいった。
そうだ。そもそも宇宙塔は煙突なのだ。
他の煙突の中を見た事なんてないが、まさかここまで通って来たような人が歩けるようになっている場所にじかに煙を通すことはしないだろう。
「元々処理場から出た煙をここに通して、それで一番上から出していたんだね」
先輩の説は多分あっているだろう。そこから上に登っていく時には、常にエレベーターシャフトと平行にその巨大なパイプが一直線に上に向かって伸びていた。
階段はそれと一定の距離を維持したまま、壁際を何度も折り返し折り返し進んでいく。
「……これ、下見られないね」
不意に後ろで先輩がそう言って、思わず反射的に振り向いてしまった。
「……ですね」
先輩の後ろに広がっているのは巨大な闇。
そこに何があるのかは当然知っている。今歩いているのと同じような階段と、一定間隔で広がっている足場だ。
だが、頭では分かっていても自分が極めて不安定な、その上落ちたら間違いなく即死するような高度に、決して広い訳ではない幅の踏板と手の中に納まるサイズの手すりだけで立っているような感覚に襲われる。
今ここでこの踏板が落ちれば死ぬ――その直感的な恐怖に思わず足がすくむ。
「見ないで行きましょう」
「了解」
逃げるようにそう言って先に進む。降りる時には全て見ないといけないのだが、それは帰る時に考えればいい。
下から目を逸らすように上を見上げると、いまだ見えない頂上のお陰で狙っていたのとは正反対の効果だけが得られた。
「……」
だが、足を止めることは出来ない。
「大丈夫っすか、先輩」
次の足場に着いた時に尋ねた時に返って来た答えは、少し息が弾んでいる以外は普段遊びに行っている時と変わらない笑顔だった。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
だったら、止まる理由はもうない。
俺の恐怖心はこの足場に着けば、つまり自分が安定できる場所にいると分かれば――幸い、エレベーターの周囲は下の見えない普通の床板で足元を見てしまうという危険はなかったし、それ以外の所もそれなりの密度で格子状に太い鉄骨の梁が渡されていた――納まるのだ。
だが、先輩のチャンスは次にいつあるのか分からない。
なら、その先輩が楽しんでいる以上俺が降りる訳にはいかない。
「さて、そろそろ行こうか。ゴールも見えて来たし」
「えっ」
息を整えた先輩にそう言われて見上げる。それまで見えていなかった天井は、今ではしっかりと見えるようになっていた。
どうやら下の方にもあった点検口のようなものはこの辺りにもあったようで、今いる足場にも一つぽっかりと空いている。
そこから外を見ることで恐怖心を和らげる効果が得られたのは意外だった。
開口部の少し先に設けられている航空障害灯。そしてその向こうに見える街並みと丸橋川。ああそうか、この高さでも十分に見晴らしは良いんだ――高さを感じるはずなのに、その光景が妙に俺を安心させた。
ここと、更に上にも設けられた同様の穴から差し込む光によって薄っすら見えるようになった宇宙塔の天井は、見えなかった時に感じさせた恐怖や不安に代わって妙な寂しさを感じさせた。
もうすぐ終わりだ。
この冒険はあと少しで終わってしまう。
そしてそれが、先輩と俺との関係の終わりを示しているような気がして。
「さっ、ラストスパートだよ!」
先輩は再び動き出す。薄暗い闇の中を、光に照らされた場所から上に伸びている階段の方へ。
「……」
「……刑部君?」
だけど先輩はいつものままで、それが何だか妙に寂しくて悲しくて。
「先輩……」
呼びかけたその声は、本人には聞こえなかった。
そして俺自身、何を言うべきなのか分からなかった。
――いや、分かっている。本当は言いたかった。行かないで、と。
先輩は過去になってしまう。
永遠に静止して、俺はどんどん離れていく。
「……ねえ、刑部君」
「ッ!はっ、はい!」
気が付くと先輩はそんな俺の方を振り向いて、じっと真っすぐ見つめていた。
不思議な話――薄暗いのに、その時の先輩の表情はどんな強烈な照明の下よりはっきりと見えた。
先輩は穏やかな微笑みを浮かべて、優しい目で俺を見て。
「一つ、約束して」
「何ですか」
俺は感情を押し殺して、平静を装って。
「まだ、東京に戻るつもり、ある?」
答えは出なかった。
どう答えたらいいのか、自分がどう思っているのかは分からなかったから。
だから、そのすぐ後に先輩が続けた言葉まで、奇妙な沈黙が場を支配した。
「必ず、東京に行って」
「……え?」
「東京の大学に行って。約束」
そう言われて差し出された先輩の小指。
――ああ、そうか。
この悲しさが、先輩にこんなことを言わせてしまう情けなさが、傷になるってことか。
「……はい!」
先輩の指は柔らかくて、心地よい冷たさで、俺は自分に望んでいたものが、優しく丁寧に刻み付けられるのを悟った。
きっと先輩は、全てお見通しなのだろう。俺が何故足を止めないのかも、何故今の問いに答えられなかったのかも。
その上で、しっかりとこの出来の悪い後輩の面倒を見てくれたのだ。
「ありがとうございます」
「やっと先輩らしいこと出来た!」
そう言って笑い、俺もつられて笑う。
それから再び俺たちは登り始めた。最後の一段までしっかりと踏みしめて。
その間、先輩は鼻歌を歌っていた。あの映画や喫茶店で流れていたTop of the wolrdという曲を。
(つづく)