塔の町で君と1
車は川見丸橋へと戻っていく。
既に日は傾き、夕方と呼ぶに十分なオレンジ色の空の下、山道を抜けて不意に開けた田畑の中の道へ。
そこからも見えるのは、そびえ立つ宇宙塔。
町で一番大きなその建物は、輝く夕日を受けて長くその影を町に落としていた。
「!?」
そこで着信に気付く。
From:琉子先輩
Title:re宇宙塔
本当にいいの?
きっと辛い思いをするよ
指がスマートフォンの上を滑る。
たった一言、これの返答によってはもう引き返せない。
――いや、とっくに帰還不能点など越えている。どの道、引き返す選択肢などこの山の向こうに捨ててきたのだ。
「……」
一瞬だけ指が止まり、すぐに再起動。
一瞬のためらいは、ただ僅かな羞恥心をかなぐり捨てるため。
To:琉子先輩
Title:rere宇宙塔
それで忘れずにいられるのなら
気障かもしれない。後で思い出して恥ずかしくなるかもしれない。
それならそれでいい。
先輩にまつわる恥ずかしさなら、それさえも欲しい。
それから先輩の答えが返ってくるまでは、少し時間を要した。具体的には一時間弱。途中でスーパーの前で車を停めて、母が夕食の買い出しに行っている時までかかった。
「……ッ」
その返答を見て、俺は明日の予定を決めたのだ。
明日は月曜日。だが早い方がいい。
そして、そこからは随分とんとん拍子に話が進んでいった。まるで、これまでの約束と同じように、楽しい約束であるように。
いや、楽しい約束だ。なんていったって、先輩とのデートなのだから。
「よし……」
隣の父に気付かれないようにそっと呟く。
話は決まった。なら後は明日の動き方についてだ。
「はーいお待たせ」
丁度いいタイミングで母が後部座席に買い物を置いて反対側の扉に回り込む。
いいペースだ。帰ってからいくつか用意がある。一分一秒も無駄には出来ない。
その夜はなかなか寝付けなかった。
だが理由は昨日の夜とは違う。答えの出ない問いに悩み続けるのではなく、自分がこれからやろうとしている事について思いを巡らせて、だ。
つまり、俺はまさに遠足の前日状態だった。もし昨日の夜寝付けなかったことによる眠気が来なければ、ひょっとしたら徹夜になっていたかもしれない。
あれこれ考えながら、気が付いたら眠りに落ちていた。いつもより5分早い時間にセットした目覚まし時計に起こされる。
「よし……」
普段なら布団の中で一分一秒でも多く過ごそうとギリギリまで粘るところだが、今日は違う。全身に漲っている気力が体を布団から引き剥がして二足歩行の形をとらせる。
この5分が今日の俺の予定には必要なのだ。無駄には出来ない。
「おはよう」
食卓へ向かい、朝ご飯を流し込む。
既に身支度を終えて天気予報を見ている父にも、俺とほぼ同時にやって来た母にも気づかれてはならない。俺は今日も普通に学校に行くのだから。
「ご馳走様」
納豆とご飯を腹に収めて席を立ち、その時にテレビの時刻表示に目をやる。いつもより5分早い。稼いだ時間はまだ維持できているようだ。
トイレで用を足し、部屋で着替え――の前にスマートフォンを手に取る。
画面は電話帳。この時のために昨夜登録した番号を確認。
それから、喉の具合が悪い演技のリハーサルを行い、十分にいがらっぽい声になったところで通話を押す。
この日、俺は人生で初めて仮病を使った。
「行ってきます」
そんな事はつゆ知らぬ母にそう言って、父から少し遅れて家を出る。
時計を確認。これまでの経験上、この時間から最寄りのバス停に向かっていれば、間に合うバスに乗れる。そして父との時間差は決して遭遇しないで済むぐらいの距離の差になっている。
「……」
念のため周囲を警戒。父が戻ってくる気配も、母が外を見ている様子も、俺を知っている近隣住民の目もない。
「よし……」
早歩きでバス停とは別の方向へ。誰も見ていない方向から、誰も見ていない方向へと、路地から路地を渡り歩くようにして距離を開けていく。
バス停で言えば一つ分ほど歩いて、乗っているはずのバスが稲荷前のバス停を通過するのを物陰から視認。俺のクラスであの路線のバスを使って登校している者がいるとしても、あのバスが間に合う最終便だ。
それが見えなくなるまで待ち、それから更に念のためもう一本バスを見送る。
誰もいない公園で一人、十分に時間を潰したことを確認してから改めて稲荷前のバス停へ。
予定通りの時間に、学生の誰も乗っていないそれが到着。幸い運転手に見咎められることもなく、俺以外乗客のいないそれが駅に向かって動き出す。
第一関門はクリア。
そしてこの時点で、半分はクリアしたと言って過言ではないだろう。
何しろこの時間、残りの過程で知り合いに会う可能性は限りなくゼロに近いのだから。
「ふぅ……」
小さく一息つき、窓の外を流れる景色に目を向ける。いつもの通学時とほとんど変わらない光景は、しかしどこか別世界のもののように見えていた。
その世界が車窓を流れていくのを、俺は通り過ぎる人の顔一つずつを見分けるようにしながら眺めている。バレる可能性は極めて低い。だがそれでも気持ちは別だ。
まるで逃亡犯か、或いは敵国に潜入したスパイか。そんな気持ちで車窓の外を警戒していたが、駅が近づいて人混みが産まれ始めるとその警戒も解けた。道行く人々は――これまでも当然そうだったのだが――誰もこちらを見てなどいない。それに駅でバスを降りた後はあそこに紛れ込んで行動するのだ。あの知っている者も制服姿もどこにもない集団の中に紛れて、だ。
そしてその通り、バスが駅前のロータリーに滑り込み、このバス唯一の乗客だった俺はそこを後にする。
降りる瞬間には僅かに顔をそむけたが、最後まで運転手も気にする様子はなかったし、反対に乗り込んでくる集団は初めから俺のことなど見ていない。川見丸橋がある程度発展した町で良かった。住民全員知り合いみたいな場所ではこうも行かなかっただろう。
その人混みに混じって改札口の方へ。いつもの待ち合わせの場所へ。
その人は、集合時間の少し前に到着していた。
「やあ」
「どうも」
いつものように合流。
今日の先輩は白いワンピースの上に薄手のグリーンのブラウス。俺が制服姿なのも含めて思えば初めて会った時と同じだった。
「……本当に、いいんだね」
唯一の違いである、足元に置いていた小さなリュックサックを肩にかけて、先輩はもう一度、静かな、しかし雑踏の中でもよく通る声でそう尋ねた。
琥珀色の二つの瞳がじっと俺を見つめている。俺の嘘も誤魔化しも、その透き通った目はきっと見抜くだろう――だが、そんな事はこの際大した問題にはならない。
「……勿論です」
だって、その言葉に何ら嘘偽りはないのだから。
「……昨日、婆さんの法事に行ってきました。葬儀の時にはみんな泣いていたのに、昨日の精進落としの席では皆笑っていました。だから大丈夫です」
それを伝えると、先輩は少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに目を細めた。
「……ありがとう」
消え入りそうな、しかしこれもはっきりと聞こえる声で先輩はそう言った。
(つづく)
投稿遅くなりまして申し訳ございません
今日はここまで
続きは本日21時~22時頃投稿予定です
また、火曜日の投稿を持って最終回を予定しております。最後までお楽しみいただければ幸いです。




