見えなくなったとしても5
「……君に謝らなきゃいけない」
「え?」
代わりに沈黙を破ったのは先輩。
「初めて出会った時、私の方から声をかけたでしょ」
今でも鮮明に思い出すことのできる記憶。懐かしい駄菓子屋を探して、シャッターの閉まったそこを見た時、背後から声をかけてきたのが先輩だった。
「あの時ね、ううん。あの時だけじゃない、私はずっと、この町を目に焼き付けようとしていたの」
昔懐かしいような目で遠くを見て、それから「まあそんな昔からじゃないけどね」と付け足して笑いながら。
「私はどこにも行かれずにここで死ぬ……。そう思ったからね、せめて私の世界を知っておきたかった。私の終焉の地になる場所をしっかり隅々まで見ておこうって思ってね、町の中の色んなところを回って、歴史も調べて、とにかくこの世界の見納めをしようとしていたの」
不意に記憶が戻って来る。
先輩が町から出ていけない、この町が自分の世界だと言っていた事を。
この町の事を何でも知っていたことを。
俺は感心していた。そしてその話を聞いていた。
――だが、そんな壮絶な覚悟のものだなんて、思いもしなかった。
自分の棺桶について語っているなんて、思いもしなかった。
「出席日数はぎりぎり足りていたから、高校を卒業だけは出来た。けど、友達は皆東京や大阪に行ってね、誰もこの町には残ってないし、三年生のほとんどの間学校に行ってないから、もしかしたら私が友達って思っているだけで向こうはもう自分の生活にもっと大きいウェイトを占める何かがあっても何も不思議じゃない。私に残っているのはお父さんとお母さん、それとこの町の思い出だけ……そう思っていた時に、懐かしい姿を見つけた」
未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように飛び去り、過去は永遠に静止する――先輩は過去の人だった。少なくとも先輩の友達にとって。
その先輩が俺を見つけたのだ。
俺が宇宙塔を見つけたように。
「……気が付いたら、声をかけていた。……嬉しかったよ。最後の最後に、家族以外に私を知っている人に会えたって事が。……君が私を覚えていてくれたことも」
凄く嬉しかった――そう語る先輩の目は病室の明かりを受けて光っていた。
「頭では分かっていた。君に関わっちゃ駄目だって。君を傷つけるって……一緒に出掛けたり遊んだりして、その度にそう思った。私はもう死んじゃうんだから、刑部君は優しいから、きっと困らせるなって、きっと悲しんでくれちゃうよなって……」
先輩は楽しそうに、本当に楽しそうに、過去を思い出していた。
それが楽しい話なんかじゃないのは誰の目にも明らかなのに。
「でも、止まらなかった」
そう言って小さく一息ついて、その顔は泣きながら笑っていた。
「君といるとね、楽しくて嬉しくて、久しぶりに友達に会えたような……、普通の人間になれたような、そんな気がして、会うたびに『もう止めなきゃ』って思うのに、でもどうしても言い出せなかった。……でも、今日の事で分かった」
先輩はそこで一息ついた。まるで一区切りが終わったように。
「刑部君――」
この時ほど、自分の名が呼ばれるのが嫌だった瞬間はない。
「今日まで、ありがとう」
それは感謝で、しかし別れだった。
ここで俺と先輩の関係は終わってしまうという事だった。
先輩は一人で死ぬ。俺はその側にはいられない。当たり前の話、仕方のない話。なのにどうしようもなく己が恨めしい。
「……ずっと一緒にいたら、きっと私刑部君を傷つける。刑部君に辛い思いさせる。……だから、もう終わりにしよう」
傷ついても、辛い思いをしてもいい――その言葉が脳に浮かぶより、死を受け入れた人間は速い。
「君に辛い思いをさせるのは、死んでも死にきれないから」
その一言はどんな一撃よりも重い。
俺は辛くない。俺は傷ついたりしない。そう言いたかった。それが嘘だと分かり切っているのに。
でも言えない。先輩が倒れた時のあの気持ちは、救急車の中のあの気持ちは、見て見ぬふりを出来るような代物ではない。
余りに生々しくて、余りに辛くて、あれをもう一度味わえと言われれば、サイコパスでもない限りそこに躊躇が産まれない者はいないだろう。
俺は何も言えず、ただずっと押し黙っていた。
先輩もまた同じように、その一言の後は続かずに黙り込んだ。
どうする事も出来ない俺と、多分先輩も。
二人がずっと黙り込んだ時、不意に横で沈黙を貫いていた先輩のお母さんが先輩の枕元に立った。
「ッ!?」
そして俺の前で、先輩の頭をはたいたのだった。
「あいたっ!」
勿論本気ではない。ただ小突くような一発。
だが不意打ちだったのだろう、先輩の頭は下を向いて間抜けな声を出す。
「ごめんねぇ刑部君」
お母さんはまるで大したことでもないと言うように苦笑しながら俺に言った。
「この子、結構意地っ張りなところあるから、多分無理してこんな強がり言っているのよ」
「ちょっ、お母さん!?」
先輩が慌てて口を挟もうとするが、お母さんは意に介さない。
「でも私はこの子の母親だから、その立場からちょっと」
「え……?」
「もし、もしよ?もし刑部君さえよければだけど、この子が外に出られる時は遊んでやってくれないかしら」
「「ッ!!?」」
俺と先輩が同時にお母さんに驚きの目を向けた。
「娘の言いたいことは分かっているのよ。でも母親の立場からするとね、せっかくまだ生きていられて、一緒にいてくれる彼氏がいるんだから、どうか最後まで楽しんでほしいのよ」
そう語るお母さんの表情は、とても娘がもうすぐ死ぬという状況にいるとは思えない、ごくごく普通の母親のようで、俺にはどうしてそんな精神状態になれるのかが分からなかった。
「勿論、無理言っているのは分かっているわ。刑部君だって今日この子が倒れた時凄く驚いたと思うし、もうこりごりだって思っていてもおかしくない」
「いや……」
そんなことないと言いたいのか、言わなきゃいけないという義務感なのか、自分でも分からない。
「でも、この子はもう慣れている」
「それは……」
先輩も口ごもるという事は、その事は否定しないのだろう。事実今日だって、あれだけ苦しそうにしながら正確に薬を取り出して自分で服用していたのだ。
「だからもし、刑部君さえよければ、娘の体調がいい時は……今日はちょっと朝から具合悪そうだったから、そういう時は今後は行かせないけども。そうじゃない時は構ってあげてくれないかしら」
それからちらりと、自分を見ている娘の方に目をやる。
「あの子、あなたと一緒に出掛けた日はね、すっごく嬉しそうに色々聞かせてくれるのよ」
(つづく)
今日はここまで
続きは次回に
なお、次回は本日20時頃の投稿を予定しております