見えなくなったとしても4
先輩のお母さん。そう名乗ったその女性は、俺がその言葉を咀嚼して飲み込むよりも前、まだ曖昧な表情で会釈しているぐらいの段階で、隣にいる男性と一緒に深々と頭を下げた。
「娘を助けて頂き、ありがとうございました」
「えっ、あっ、いや……」
何も言えない。人にそこまで深々と頭を下げられたことなどなかったし、何しろそんな事をしたつもりはない。
「その……自分は、何もその……」
もじもじしているだけの所に一緒にいた男性が頭をあげてから名乗る。
「琉子の父です。よく娘からお話を聞いています」
まず、敬語で話されるのに慣れない。
だがそんな事を気にしている場合ではない。何か返事をする前に、目の前の扉が開いて先輩を乗せたストレッチャーが現れたのだから。
「先輩!」
「「琉子!」」
三人一斉の声と、六つの目玉に迎えられた先輩は、ちょっとばつが悪そうにしながらストレッチャーで病室に運ばれていく。
それからは色々な事があった。
正直こんな経験は初めてで、その上俺はあくまで通報して付き添っただけなので、詳しい話は先輩のご両親の方がメインだったこともあり、何をしているのかはよく分かっていない。
だから、諸々の間にしたことと言えば帰りの時間の確認を何度か入れてきた母親に、恐らく怒っているだろうと覚悟を決めながら連絡する事ぐらいだった。
「今東丸橋総合病院にいる」
繋がるや否や開口一番まくし立ててくるのをとりあえず凌いで必要な情報を話す。
「え?病院?なんで?」
幸い話を聞く冷静さは残っているようで、その一言を聞き逃さずにいてくれた。
さてここからだ。どうやって説明しようか。何しろこっちは先輩の存在自体を伝えていないのだから。
「えーっと……」
何とか冷静さを取り戻していた頭が答えをひねり出す。
「友達というか先輩と一緒にいた時に、相手が倒れて救急車呼んで、それで付き添いで病院に来た」
「ちょっとそれ本当?」
まあ、疑うのも無理はない。俺だってよく分かっていない。
と、冷静ならばそういう余裕もあったのだが、こちらの置かれている状況はそれどころではないのだ。
「……じゃあ写真撮って送るから」
それだけ言って電話を切り、適当にナースステーションが入るように一枚。院内の撮影が認められているかは知らないが、誰にも何も咎められなかったのでよしとして送った。
それで向こうも信じたらしい。帰る時間が分かったら連絡するように、相手が無事だといいねと一言付け加えての返信が来て、この件は終わった。
次の、そして最も大きな問題はその後、先輩の病室に入った時だ。
「ああ、刑部君……ごめんね」
入るなり、先輩は俺に詫びた。
「いえ、何も詫びる事なんか……」
「いや、随分心配かけちゃったからさ」
言われて初めて、俺はどういう状態でここまで付き添ってきたのかを思い出す。
パニックになっていたとはいえ、今にして思うと少し恥ずかしいような気がする。
「もう大丈夫なんですか?」
その恥ずかしさを紛らわせるように努めて明るい声を意識して尋ねると、しかし先輩は対照的に目を自らの上の布団に落とした。
それがどういう意味なのか分からなくて――なんとなく良い意味ではないという事だけは何となく察したが――ちらりと横にいた先輩の両親に目をやると、ほぼ同時に先輩もお母さんの方に目をやる。何かの許可を求めるように。
そしてその許可が下りたのだという事は、真っすぐ俺の方を見た先輩の目が教えていた。
「今日話そうとしたことなんだけどね――」
「はい」
一拍置いて、それから僅かに笑おうとしながら、先輩は続けた。
「私ね、多分もうすぐ死ぬの」
それがどういう意味なのか。
国語的には分かる。だが、それ以外の全てが分からない。
「……ッ」
ご両親の方を見る。それが狂ったジョークである事をどこかで願って。
「……」
そして――これまたどこかで理解していたように――それが紛れもない現実であると知らされる。
「コルブス・ロイヤー病って言ってね、2000万人に一人の病気なんだって」
漫画みたいだよね、などと付け足して笑って見せる先輩。
その聞いたことのない病気が恐らく今日の一件と関係があったのだろう。
「少しずつ時間をかけて心臓が繊維みたいになっていく病気でね、高校三年生になってすぐの頃に発症して、少しずつ時間をかけて進んでいった。普段は普通に生活できるよ。今までだってそうだったでしょ?でも……時々今日みたいな発作が起きるの。それで……もう相当なところまで進んでいる。先生の話だと、多分来年まで持たないだろうって」
そう語る先輩の態度は落ち着いていて、表情も穏やかなものだった。
ご両親もそこは同じで、一人ショックを受けて口が半開きになっている俺だけがこの空間の異物だった。
「発作が出ると心臓がまともに動かなくなって、今日みたいになるの。その時は薬でなんとか落ち着かせるけど、それでも治療している訳じゃない。ただ発作を治めるだけで、治療も進行を止めることも出来ない」
それから小さく一息ついて、まるで仕方ないねと笑うように小さく肩を竦めて、それから先輩は俺の目を見た。
「だから今日は、お別れを言うつもりだったの」
その言葉の意味を理解するのに、不思議と時間はかからなかった。
「お別れ……」
「今まで、ごめんね」
それからもう一度、先輩は笑った。
「私、一緒にいたら刑部君に迷惑になるから」
そんな事はない――そう言うのが正解なのは分かり切っている。そして俺自身そう言いたいのだ。
「――それに、多分また驚かせてしまう」
俺の内心を読み取ったようなその言葉に、俺は反論できなかった。
自分が通報する時、そして救急車の中でどうなっていたのか、それを忘れる程の時間も、都合のいい記憶もない。
「……」
俺には黙るしか出来なかった。
そんな俺を怒るでも、失望するでもなく、先輩は優しい笑みを浮かべていた。
――その事が、俺には何より辛かった。
この人は死ぬ。
もうすぐ、それこそ今年中に死んでしまう。
なのにその人に、俺は気にかけられているのだ。
「……いや」
否定したかった。反駁したかった。撤回させたかった。
でも、現実はそうじゃない。
「……」
いや。絞り出したその二文字の後には何も続かぬまま。病室の中は水に沈んだように静まり返っていた。
(つづく)
投稿遅くなりまして申し訳ございません。
今日はここまで
続きは明日に
なお、明日は午前1時20分に予約投稿する予定です