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塔の町で君と  作者: 九木圭人
一夜
17/34

一夜8

「ッ!!」

 先輩は笑顔に戻っていた。

 いつも通りの、何かを隠して平静を装うようなそれではない、無邪気で子供っぽい笑顔に。

「私は色々事情があってここにいるからさ、いいなーって、思っただけ」

「そう……ですか……」

「うん。だからごめん……気にしないで」

 先輩はそう言って、もう一度笑った。


「優しいなぁ、刑部君は」

「えっ?」

「どう答えたら私を傷つけないか、ずっと考えていたんでしょ?」

 今度も答えられなかった。内心をズバリ当てられた場合の対処法なんて未経験だったから。

「ッ!?」


 そして、女の人に突然抱きしめられたのもまた、初めてだったから。


「私は幸せ者だなぁ。こんな優しい後輩に恵まれて!」

 煌めく町を満員の観客に見立てたように声高らかにそう宣した先輩。

 俺は何も言えず、先輩もそれ以上何も言わず、ただ俺の心臓が発狂したように高速で脈打つだけ。

 押し付けられるその体は柔らかくて、浴衣に包まれて分からなかった体格は、思っていたよりずっと華奢で、所在なくなってしまった両手を――そうしたいと思った通りに――その腰に回したらそのまま折れてしまいそうで。


「……ごめんね」

 顔のすぐ横、俺の耳元で、耳朶をくすぐるように呟いたその声は少しだけ湿っていた。

 その真意を問う前に、先輩はさっと俺から手を放す。

 腰に回そうとしていた俺の両手をすり抜けて、もう一度夜景をバックに手すりに寄りかかって立っていた。

「ここはね、この石碑に来た時に知ったんだ。ここからなら町が一望できるって」

 そう言って視線を向けたのは、この一部始終を見守っていた石碑。

「明治七年丸橋川氾濫犠牲者慰霊の碑」

 刻まれたその名を俺が読み上げると、彼女はもう一度夜景に目を戻す。

「丸橋川はね、昔はまろはし川って言ったんだよ」

「まろはし?」

 オウム返しに頷き、話を続ける先輩。

「そう。転ぶ橋って書いて転橋(まろはし)川。暴れ川でね、しょっちゅう氾濫していたから、橋を架けてもすぐにひっくり返されちゃう川ってことでそう呼ばれていたの。明治時代以降護岸工事が行われたり、昭和に入って上流にダムが出来たりしてから、もう何十年も氾濫なんて起きていないけどね。この石碑は、その護岸工事の最中に発生した氾濫で犠牲になった人たちの慰霊碑なんだよ。こうやって、安全になった川を見下ろせる場所に、って」

 まるで年寄りの知識――思っても言わない。


「その慰霊碑をわざわざ見るために?」

「まあ、ね。言った通り、私は諸々の事情でこの町から出たことが無いから、せっかくだし隅々まで見ておくってのも悪くないかってね。……ああ、ついでに言うと、川見台って地名もその頃からの名残だよ。川が氾濫する頃は沿岸にはとても住めなかったから、危険の兆候があったらすぐに高台に非難していた訳だけど、そのための川を見下ろす高台があの辺の丘だったって訳。そこに周辺の人たちが住み着いて、川見台の町になっていったの」

 この町の知識という意味で言えば、もしかしたら市内で一番詳しいかもしれないと思わせるような口調と内容。


「先輩、凄い知っていますね」

「へへっ、そうでしょうそうでしょう。もっと尊敬してもいいんだよ?」

「いや、そこまでは……」

 実際にはしっかりと尊敬している。

 だが、そういって茶化すのを求めているような、そんな気がして。

「なっ!?少しぐらい褒めてもいいじゃん!」

 そう言って浴衣の袖で俺を叩く。

 当然、どちらにも悪意も敵意もない。どうやら正解だった。

 ――本当は、いっぱい聞きたいことがある。

 何故町から出たことが無いのか。

 何故その話を途中で打ち切ったのか。


「……っと、そろそろ時間も遅いね」

「あ、そうっすね」

 だが、それに踏み込むことは出来なかった。

 自信?勇気?好奇心?なんでもいい。とにかく、それ以上その話を深掘りするのは、この時間を、世界を壊してしまう気がして。

 だから、先輩に合わせた。もしかしたら俺がそういう選択をするという事を狙ってお開きにしたのかもしれないと頭の片隅で考えながら。


 会話に合わせて、また先輩がそうするのに合わせて俺もスマートフォンを取り出して時間を確認する。花火大会の終了から既に一時間近く経過していた。

「このすぐ下にバス停があるから、それに乗って帰ろう」

「了解です」

 言うが早いか、先輩はさっと身を翻して慰霊碑に一礼した。お騒がせしました、という事だろうか。


「……」

 俺も倣って一礼。

 それから踵を返すと、周囲を囲む茂みの向こう、先程の分岐で分かれた左側の道の先にある老人ホームの明かりが見えた。

 ここに来るまでの道のりを思い出す。歩くのは訳ないとはいえ、この辺はちょっとした丘の上で、左側の道は坂道だ。徘徊癖のある老人が施設から出たりしても遠くまで行かれないようになっているのかもしれない――その物凄く不謹慎な考えが頭をよぎる。


「あ、あそこ私のお婆ちゃんも昔いた老人ホーム」

「そうなんすか?」

 身近に関係者がいた。いや、関係者と言うべきかは不明だが、とりあえず口に出さなくてよかった。

「お婆ちゃん『徘徊するようになってもここからじゃ遠くに行けないね』とか言っていたっけ」

 利用者の口から同じ感想が出ているとは思わなかった。


「ハハハ……」

 俺もそう思いますとは言わず、笑いだけで答えて階段へ。登りの時よりも足元に注意しなければならない。

「ん……」

 それに加えて、来た時は気付かなかったが、階段の一番上=この場所の入口辺りも割と足元が悪い。木の根や石が転がっていて、ぼうっとしていると躓きそうだ。

「先輩、足元気を付けて――」

 そう言いながら振り返る。履きなれていないだろう草履ではつっこけてもおかしくない。

 足元気を付けてください――そう言おうとした、まさにその時だった。


「あっ――」

「ッ!!?」

 その先輩が、振り向いた直後に俺に向かって崩れてきた。

 危険予測の遅れ――なのか、間に合ったのか。

 俺はこの日二度目の転倒の危機を救い、これまた三回目となる先輩との密着を味わった。


「「……ッ!」」

 今度は先程のように分かりやすい抱き着きではない。どちらかと言えば倒れそうになるのを俺が支えただけだ。

「ごめん……今日は助けられてばっかりだね」

「気にしないでください。大丈夫ですか?」

 足元で上手い事脱げかけていた草履を引き寄せて履き直す先輩。

 しっかり履き直せたか確認していた顔がこちらを向く。


「……ッ」

「刑部君?」

 咄嗟に視線を逸らせた。

 月下美人――植物か何かの名前だった気がするが、この場においては先輩を表す言葉だと思った。

 月明かりにぼんやりと光っているように見えるその人は、その事に気付いているのかいないのか。

「大丈夫?」

「え、はい……あっ、そうだ」

 だが、一つだけ分かっている事がある。

 三度の密着は、俺を少しだけ吹っ切れさせるだけの威力を持っていたという事だ。


「?」

 そっと右手を差し出す。

「足元悪いし、下まで」

 吹っ切れたが、全て言葉にするには少し足りない。

 だが、優しい笑みが、そしてそっと差し出された真っ白な指が、それでも十分だと物語っている。

「紳士だね。ありがと」

 指先に触れた先輩の柔らかさと冷たさを、しっかりと包み込んだ。

 夏の夜空に光る月が、僅かにかかった雲の陰からそんな俺たちを照らしていた。


(つづく)

今日はここまで

続きは明日に

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