一夜7
案内と先輩に従い右へ。道はすぐに未舗装に変わり、茂みに囲まれた小高い丘のような場所へと続く細い階段になる。
「この上だよ」
そう言いながら先行する先輩。
その後ろを追いかけて一段ずつ登っていく。
木の根が所々伸びていて躓きそうになるのをかわし、小さな丘の頂上へ。
左右にあった茂みが不意に切れて、岩をそのまま石碑にしたようなそれが鎮座するちょっとした展望台へと至った。
「じゃ~ん」
「おお……」
その石碑の向こう。先輩が自慢げに手で示した光景に俺が漏らしたのは、多分連れてき甲斐のあるリアクションだっただろう。
小高い丘から見下ろせるのは、川見丸橋の町の全貌。
正面奥、北部の山々をバックに、星座のように浮かび上がっている工場の明かり。
町を東西に横断している高速道路の上を滑るように行き来する白と赤の光点たち。
それと交差する、南西から東北に抜けていく月嶽温泉ラインが、夜の闇の中にその車窓の光を振りまき、闇に溶けた高架と相まって空を飛んでいるような印象さえ与えている。
まるで巨大なジオラマ。永遠に見ていられそうな光の動きの下で、反対に動かない光=駅を中心に放射線状に伸びている街の明かりが、この盆地が無人ではない事を雄弁に物語っている。
大きな町。東京や都賀谷に比べれば田舎だろうが、それでもこの辺では十分に発展している町。
何もないと思っていたが、こうして見る分には観光地としてやっていけるのではないかとさえ思えるような夜景だ。
「綺麗でしょ」
「ですね」
すぐ横で一緒に見ている先輩の声を反射的に肯定。
そして同時に確信する。ここは何もない町なんかじゃない。沢山の人間――先輩や、タナちゃんや、クラスの連中や、そういった大勢の人間にとっては十分暮らしていける地元の町なのだ。
小学校から高校まで揃っていて、大都市に比べればちっぽけとはいえ一通りの施設は揃っていて、車やバイクを持っていれば都市部に働きに出ることもできる、大都会程便利で何でもある訳ではないけど、何もないからと捨てて上京するほどに枯れ果てて何もない訳ではない都市。
つまり、ただ俺に居場所がないだけの町。
「……」
その事実を改めて嚙みしめる。
そうだ。この町から出ていきたいのは、ただ単に俺が、俺が原因なんだ。
「……君、刑部君?」
「……えっ」
俺を心配そうにのぞき込む先輩と目が合った。
「どうしたの怖い顔して?大丈夫?」
「あ、はい……」
指摘に慌てて表情をかき消す。
「……大丈夫です」
努めて平静に、平静を装っているように見えないように。
「そう?」
「はい。もう大丈夫です。すいません」
答えながら、もう一度町を見下ろす。
キラキラと光る夜景=俺のいない町は、それまでと何も変わらず沢山の人間の暮らしを煌々と照ることで雄弁に物語っていた。
「ねっ、あっち見て」
不意に先輩が袖をクイクイと引いて、空いている方の手で指をさす。
そちらが宇宙塔の方向だと言うのは、見えている景色から既に分かっていた。
だが、分かっていたのはそこまでだ。
「おおっ!?」
「へへ、驚いた?」
先輩の言葉に返すこともなく、俺は目の前の光景に魂を奪われていた。
空に光が登っていく。宇宙塔の表面に規則的に並んでいる航空障害灯。それの間を走るように赤と白の光が、空へと光を送るように明滅を繰り返している。
毎日見ていた宇宙塔の、初めて見る光景だ。
「夏の間だけ見られるんだよ。ライトアップ宇宙塔」
「夏の間だけ、ですか?」
聞き返すと、先輩は人差し指をピンと立て、授業中の教師のような口調に――おそらくわざと――なりながら説明してくれた。
「宇宙塔は取り壊されなかったゴミ処理施設の煙突って、前に言ったよね」
「はい、そう聞いています」
「取り残されたはいいけど周囲に家が建っちゃった。そこで、毎年補修工事を行っているの。いつも夏って決まっている訳じゃないけど、大体この時期ね。それで、工事が終わると夏の間は市がライトアップをするの。ちょっとした観光名所にってことらしいけど……今のところ、ほとんどそういう効果はないみたい」
「へぇ……」
言われてから改めてその光景を見る。
確かにライトアップとしてみればシンプル過ぎるだろう。ただ赤と白の二本線が下から上に登っていくように明滅しているだけだ。
それに――俺だけかもしれないが――住民でも知らない者がいる時点で割と駄目な気がする。
「ま、町の人もほとんど知らないから仕方ない気はするけどね」
先輩もその辺に突っ込んだ。
「よくそんなの知っていましたね」
その一言に深い意味は無かった。
ただの感心。ちょっとした称賛だ。
だから、それに返って来た応答に一瞬間が開いて――ちょうど先程の俺のように――隣にいて気が付くぐらいにしみじみとしたテンションに変わっているのが、驚きと不安を掻き立ててやまなかった。
「……うん」
ただその一言、たったの一言。
だが、その音は、イントネーションは、感じる雰囲気は、明らかに何かに触れた声だった。
「……この町が私の世界だから」
その発言の意味は分からない。だが、雰囲気が何も変わっていないことは分かる。
「えっと……」
「私ね、この町から出た事ないんだ」
それは静かで、出し抜けな告白だった。
それがどういう意味かを問う前に、彼女が俺の方を見た――いつもみたいな笑顔で。いつもみたいな声で。まるで俺が先程平静を装ったように。
「ね、刑部君はさ、中学の時東京にいたんでしょ?」
「え、はい……」
先輩の目が、じっと俺を見る。
厳しさはない。言い逃れを許さぬという圧もない。
ただ、どうしてか目を逸らすことは出来ない。
「どう?将来、東京に戻りたい?」
すぐには答えられなかった。
どう答えていいか分からなかったから。
「……そう、ですね」
ようやく絞り出した声は、回答に詰まっているとはっきり分かるものだった。
何か答えなければ。何とかして無言の時間は一秒でも無くさなければ――必死に脳みそがフル回転して回答を探す。
だが答えは出ない。どうやったって出てこない。
――当たり前だ。どう答えたらいいのか、本当はどうしたいのかすらも、今の俺には分からなくなっているのだから。
東京に戻りたい――そう思っていた。
でもそれは今も、つまり今この瞬間も変わらないのか?それを先輩に、今の吸い込まれそうな先輩に正直に告げられるのか?
この人を前にして俺は、東京に戻るつもりですと言えるのか?
もしこのまま二人の間の関係が続くとして、高校を卒業出来たらそのままはいさようならと別れられるのか?
それで、未練はないのか?
「……っ」
「ごめん、忘れて」
何を言おうとしたのか、声になる寸前で謝罪と共に先輩の人差し指が唇に触れて、その直前までの記憶を吹き飛ばした。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に