一夜6
夜の町に先輩の草履のこすれる音が響く。
木造の平屋建て、錆びだらけの階段と外廊下で繋がった古いアパート、庭の木に飲み込まれそうになっている古民家――どこにでもある古臭い住宅街。
街灯の明かりで照らし出されるその古いだけの街並みさえも、二人で並んで歩くと新鮮な景色のように思えてくるから不思議なものだ。
その住宅街の中に徐々に自然が増えてくる。
コンクリートで覆われた山――というか岩の周囲を覆うようにして繁殖している名も知らない植物や木々。それらが家の代わりに道路に面している場所が所々現れ、徐々に山の中に入っていくような感覚を覚える。
「あっち」
その風景の中に突然現れるトンネル。
心霊スポットと言われても信じそうな、薄暗い道の奥にぽっかり開いたそこは、まだ使われている事を示すようにオレンジ色の光を暗闇に浮かび上がらせている。
「トンネル……?」
「びっくりした?この時間車は通らないから大丈夫」
普段からほとんど通らないけどね、そう付け加えながら先輩は平然と足を進める。
実際、虫の声だけが響く茂みの中に開いただけの穴だ――自分に言い聞かせながらそちらに歩みを進め、オレンジの光の真下に入ってから不意に先輩が言った。
「刑部君ってさ」
「はい?」
「幽霊とか見える人?」
どうやら考えていたのは俺だけではなかったようだ――念のため表情を確認するが、からかっている様子ではない。
「見えませんし、信じてもいません」
これはどちらも嘘ではない。
信じていないのと、何か出そうな場所を薄気味悪いと感じるのは別の問題だ。
「……そっか」
妙な間を開けて先輩はそう言った。
「じゃあ、何か出たらしっかり守ってね~」
「ッ!?」
からかうような口調に戻ってそう付け加える――それはいい。
問題は、その瞬間俺の肩に頭を預けてきたことだ。
鼻腔が先輩で満たされる。
それが神経を伝って脳を焼き切らんばかりの電撃になって迸る。
それを知ってか知らずか、先輩はトンネルを出るまでそのままの姿勢で歩き続けた。
「せ、先輩……」
「もうすぐ着くよ」
預けてきた時と変わらぬ、何も気にしていない様子で元に戻る先輩。
それからちらりと俺の方を見る。無論、俺の表情を。
「ごめん、ごめん。ちょっと刺激が強かったかな」
「……からかわないで下さい」
ポーカーフェイスなど夢のまた夢。
そんなやり取りをしながら、俺は何とか平静を取り戻そうと色々考えを巡らす。
先輩には俺が悶々としている事は分かっている。
だとしたら?先輩はどこまでそうなった時の高校生男子の肉体について知っているのだろうか。
精々20mかそこいらのトンネルの中、俺の頭の中に明滅した映像が、考えが、意思が、多分一番適切な日本語を当てはめるなら劣情が肉体にどういう影響を与えるのかを。
「……」
不意に、最もそれらに対して素直な提案がなされそうになって、ギリギリのところでそれを抑え込む。
「刑部君……?」
「えっ、はい!」
先輩が心配そうに、そして申し訳なさそうに俺の目を覗き込んでいる。
「ごめん、その……怒った?」
本当に怒らせてしまったかもしれない。それを心配するような、謝罪するような――なんとなく泣きそうにも見える二つの瞳が、腰を折って俺を見上げている。
提案が出されそうになる出端を抑え、それを闇に葬る。考える事さえ罪だ――自分の中のそれを怒鳴りつけて。
「いえ、何でもないっす」
「……本当に?」
「本当ですよ」
そうだ。本当に何でもないんだ。
怒ってなんかいない。そんなものが入り込む余地なんてない。
「先輩にからかわれるのなんて、初めてじゃないですし」
あのまま力任せに引き倒して、そこいらの茂みの中に連れ込み……ごく一瞬、一秒の百分の一か千分の一ぐらいの時間出現の兆候を見て反射的にかなぐり捨てた思考の前で、からかわれた怒りなどどうして感じることがあるだろうか。
「それって……」
ああくそ、察し悪いなこの人。
「それって言うのは、つまり俺は――」
言いかけて一瞬冷静になる。喉まで出ている言葉の意味をそこで初めて確認する。
だがすぐに決断するしかなかった。どうせもう言うしかないのだ。
「つまり俺は結構楽しいって思っているってことです」
本当ではない。でも嘘ではない。
いや、本当だ。本当なんだ。
本当ではない場合、なら何を本当だとするべきなのかを出せないのだから、嘘ではないこれが本当なんだ。
「そっか……」
先輩はそれで納得してくれた。
「それなら、よかった」
「はい……」
それきり、その話は打ち切りだ。
互いの言葉は消え、俺は素直な反応を示している自分のソレを鎮める作業に戻る。
「仏説魔訶般若波羅蜜多心経……」
ようやく硬直したそれが落ち着き始めた頃、声に出していたことに気付く。
「えっ、ちょ、刑部君……」
先輩が少し焦った様子で辺りを見回す。
「え、あっ……すいません」
「……もしかしてやっぱり見える?」
そういう事ではないのだが、薄暗い夜道ではそういう解釈になるのかもしれない。
「いえ、そういう訳では……」
言いかけてから先輩の手がぎゅっと力強く握られている事に気付き、改めて表情を見る。
「……これでおあいこってことで」
丁度いい逃げ道を見つけてそう付け加えると、先輩は少しだけむくれて――でも手の力はそのままに――ぼそりと呟いた。
「ドSめ……」
だが、勿論根に持っている訳ではない。
一瞬の沈黙。それからどちらともなく噴き出した。
「「ふっ……フフフ、ハハハハ」」
ノーサイドの合図。
ひとしきり笑いあい、そして差し掛かった分岐を右へ。
「さて……、もうすぐだよ」
先輩の指し示す分岐の根元、丁字路の突き当りに置かれた一枚の行き先表示が、俺たちの行き先が『明治七年丸橋川氾濫犠牲者慰霊の碑』であることを示していた。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に