一夜3
「……」
納涼花火大会などという言葉が質の悪い冗談であるかのような熱気の中で、俺は自分の内側が熱くなってくるのを感じていた。
「お待たせ」
そんな妄想は背後からの声で打ち切られた。
反射的に振り返った先=今まさに頭の中にあった人。
「あっ……」
だが、現実は頭の中など越えてくる。
白地に赤と紫の朝顔の描かれた涼やかな浴衣――いつもは降ろしている、うなじの後ろで赤いリボンで一本に結った黒髪と、それによく似合う白い生地が、風に吹かれてひらりと舞う。
「……ぁ」
思わず声を失っていた。
「どう?似合う?」
その問いに、一瞬無言になってしまうぐらいには。
「似合います。……すごく」
何とか絞り出した、日本語覚えたてのようなぎこちない賞賛。
「えへへ、ありがと」
対して、恐らくナチュラルな感情での答え。
その間にも、視界の隅で他のカップルたちが川へ川へと進んでいく。
訂正:俺たちもあそこに混じるのか、という心配は無用だった。
混じる訳がない。俺はともかく先輩は。
「じゃあ、行こっか」
「……ッ、は、はい!」
普段は出さない類の声が出る。
「夜になっても暑いね~今日は」
そう言いながら、恐らく先程駅前で貰ったのだろう、英会話教室の広告がプリントされた団扇で顔を扇いでいる。
右利きの先輩は当然右手でそれをする訳で、当然ながら、左側に立っている俺は風下になる。
映画の時のバスと同じ微かな甘い匂いが、その動きとそよ風に乗って俺の鼻腔をくすぐり、それが鼻から心臓まで達して動悸を激しくさせる。
火照ったような暑さは、気温のせいだけではない。
「混んできたね」
「そうっすね……」
そんな俺のことなどつゆ知らずと言った様子の先輩の声。
彼女の視線の先、その言葉通りに増えてくる、同じ方向に向かう人の群れ。
交通規制によって車の往来を気にしなくてよくなった途端、車道にあふれ出した人間たちは、むしろそれまでどうやって歩道に収まっていたのかと思うほどにその広さでさえ狭苦しく感じさせる。
だが、それに混じって進まなければ目的地に着かないのも事実だ。
「んっ……と、刑部君大丈夫?」
「え、ああ。はい」
雑踏の中で必然的に距離が縮まる。
その上周囲には酒が入っているのか、浮かれた集団もいくつか。つまり、そいつらの不規則な動きを避ける必要があるという事。
それが更に体感的な狭さを強調しているのだろうか、100mも進まない内に歩く満員電車の様相を呈し始めた通りは、一歩ずつ歩みのスピードを奪い、遂には完全に停止させた。
「止まっちゃいましたね」
言いながら――周囲の他の連中と同様に――自分のスマートフォンを見る。花火の開始予定時刻まであと5分を切っている。
「……」
続いて目を人の頭で埋まっている正面方向へ。
ここから川岸まで、普通に歩いても5分で着くかはギリギリなところだ。
「始まっちゃうね」
「そうっすね」
先輩も同じ方向を見ながら呟くのを聞きながら、同じ状態で答える。
ここからでも見えると言えば見えるが、どうせなら川岸まで行きたい――ここにいる全員がそう思っているだろうが、不思議と中々進まない。
「お?」
代わりにどこからか聞こえてくるのは剣呑な大声の応酬と、会場スタッフだか警備に当たっている警察官のマイク越しの声。
喧嘩か何かだろう。押したとか押されたとか、足踏まれたとか踏んだとか。多分その手のやつ。
「騒がしいね」
その騒がしさはしかし、まるで波紋のように広がっていくようだった。
「あっ――」
先輩が声を漏らす。
波のような人の動きが彼女を飲み込んで吐き出す――俺のすぐ横で。
「ッ!!」
先輩の体が一瞬浮いたように思えた。
それから、遠くに引き離されていくような動きと、明らかにそれについていけていない上半身。
「危なっ!!」
咄嗟に伸ばした手をしっかりと掴んだ先輩の手が、彼女自身それを理解していたことを物語っている。
「ぐっ」
そのまま先輩の体を引き寄せる。
「あ、ありがとう……」
漫画みたいな展開だ――そんな風に考える余裕は、何とかその波が落ち着いて、警察のマイク越しの声が怒声に変わった辺りでようやく生まれてきた。
「大丈夫――ッ!!?」
そしてそれもすぐに失われる――皮肉にも先輩との距離、そして何よりしっかりと握り合った手に意識がいく余裕が産まれるのと同時に。
「あっ……うおっ!?」
そしてもう一度の波。今度は俺を背中から押すように。
意図せぬ密着:先輩と俺の上半身。
「「ッ!!!」」
声は出なかった。
お互いの表情が、一瞬だけ数cmまで肉薄した。
そして波が退き、ようやく普通に歩けるようになってから俺たちの距離もそっと元に戻る。
「手……」
「えっ?」
「手、このままで行こっか」
脳みそが一文字ずつ咀嚼していく。
手、このままで行こっか。
つまり、二人の手を繋いだまま歩こうという意味――ここに到着するまで、日本語初心者位の時間がかかっているだろう。
「い……」
そこまでして絞り出した答えが、ようやく喉を通過する。
「いいんですか?」
「危ないしさ。……だめ?」
駄目な理由などどこにもない。
映画の日のままの手の柔らかさ、心地よい冷たさを、その時俺は全身を神経にして感じていた。
「いえ……駄目じゃないっす」
ぎこちない日本語。相手から駄目かと聞かれた時の回答はどうするのが適切なのか――その答えすらすぐに出てこない。
「……じゃあ、行こ」
心なしかはにかんだような先輩。
人混みの中で、俺たちはそっと両手の指を絡め合った。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に




