炎花
「これを運んでおくれ、熊鷲」
言うが早いか桜子は、おれの肩にどさりとその荷物を乗せた。
「傷つけるんじゃないよ」
几帳の練絹に包まれた長くぐんにゃりとしたしろもので、ほのかな温みが肩に伝わる。
子供か女、生き物であることは確からしい。桜子が人を攫うことなどまずなかったから、おれはあわてて呼びとめた。しかし目に映ったのは、水干の背にひるがえる長い髪だけだった。
桜子の姿はすでにない。
館にはきなくさい煙が立ち込めていた。そこかしこで女たちの叫び。なすすべもなく右往左往する腰抜けの男ども。久々の掠奪を思うさま楽しんでいたおれだったが、こんな大きな荷物を抱えては動き憎いこと夥しい。
その時、築土の向こうから近づく松明の群れが見えた。検非違使の一団だ。さて、ここらが潮時だろう。おれは近くの仲間に声を掛けた。それと同時に桜子の、凛とした引き上げの合図が聞こえた。おれたちは一斉に館を出、それぞれの馬に飛び乗った。
馬を走らせながら振り返った。追っ手を遠く引き離している。館はすでに炎につつまれていた。澄んだ夜空に、うねる煙のさまが美しい。
突然前の方で、鈴を鳴らすような笑い声が響いた。桜子だ。ころころと身をよじるように笑い続け、それはなかなかやむことがなかった。
鈴鹿山の夜叉丸といえば、都でも名の知れた盗賊だった。
配下は百人を下らず数に似合わず神出鬼没、都の連中がどうあがいてもその正体は掴めない。おそらく都では、夜叉丸がこの世にいないことさえ知らないにちがいない。夜叉丸は三年前に風邪をこじらせてあっけなく死んでしまい、今その跡を継いでいるのは一人娘の桜子なのだが。
一人娘とはいっても、おれたちは桜子が夜叉丸の実の子だとは信じてはいない。夜叉丸は眇の恐
おそろしく醜い小男で、女の趣味もお世辞にもいいとはいえなかった。どこぞから攫うか、拾うかした子供だろうとおれたちは言いあったものだ。都の姫君にも劣るまい、桜子はすこぶる美しかったのである。
夜叉丸は醜い小男だったが、その果敢さ、残忍さ、統率力はおれたちの頭にふさわしかった。そして桜子は美しい小娘だが、気性ばかりは夜叉丸に似た。
夜叉丸亡き後、桜子が跡を継ぐことに異論を唱える者はいなかった。二十に満たない桜子の、鋭い一瞥に震えあがらぬ者もまた、いなかったのだ。
鈴鹿山の隠れ家に着くとすぐ、仲間たちは戦利品を山積みにした。留守の女たちが歓声を上げてとりかこんだ。
それには目もくれず、桜子は例の荷物を抱えたままのおれに手招きした。おれは桜子の後に続いた。
桜子の住まいはおれたちの雑多な家屋とは違い、屋敷の体をなしている。門をくぐると、しつけの行き届いた小女が灯りを持って出迎えた。
廊下を渡って奥の部屋に入る。そこにはどういうわけか翠野が涼しい顔で座っていた。
翠野は、一月ばかり前からこの隠れ家にまぎれこんでいる陰陽師くずれで、おれはこの男が好きでない。
好かない理由はその顔だ。烏帽子もつけず、結いさえしていない黒髪にふちどられた蒼白な面は、男のおれが見てさえも、ぞくりとするほど美しかった。桜子の生気溢れる美しさとはちがう。世に完璧な美があるとすれば、それにはどこかしら禍々しさがつきまとうのにちがいない。偸盗を稼業としているこのおれですら、いつかこの男を始末せねばならぬという義侠めいた思いにかられてしまうのだ。
もっとも桜子はこの陰陽師がいたく気に入って、しょっちゅう側に呼んでいた。月影弾く蛇の鱗のぬめりさえ、美しいものは悉く愛する女だった。
桜子はおれを押し退けて帷の包みを引き剥がした。
帷から夥しい黒髪がこぼれ落ちた。
桜子がさらにその黒髪を掻き分けると、瓜実形のほの白い顔があらわになった。その時、閉じていた目がうっすらと開いた。
おれは息を呑んだ。
桜子でさえ、瞬間身を強ばらせたのにちがいない。
帷の中に桜子がいた。そう、おれたちがのぞきこんでいるのは桜子と寸分違わぬ顔形の少女なのだ。
目は開いたものの、少女にはどんな表情も浮かばなかった。瞳は動かなかった。内なる空を示すかのように。
桜子はまじまじと少女を見つめ、やがてかん高い笑い声をたてた。
「おまえのいう通りだよ、翠野。ほんとになんて似てるんだろう」
翠野は不可解な微笑を浮かべたまま、ただうなずいただけだった。
「どういうことだ、桜子」
翠野の前で動転するのもしゃくにさわる。おれはあえて平静に言った。桜子は肩を小刻みにふるわせて、なおもくっくと笑っていた。
「説明しろ、桜子」
「そうだね、熊鷲。教えてやろう」
桜子はぴたりと笑うのを止めておれを見た。
「これはあたしと同じ時、同じ腹から生まれた姫さ」
「おい…」
「双子は忌むもの。わかったろう。あたしの方が捨てられた」
「だが、この姫は」
「そうさ、ごらんの通り魂がない」
桜子は姫に手を掛け身を起こしてやった。姫は大きな美しい人形のように、桜子のなすがままだった。姫を抱き寄せ、その艶やかな髪を指ですきあげながら、桜子は歌うように言った。
「姫とあたしは身ふたつで生まれたが、あいにく魂はひとつだけ。そうだね、翠野」
「ああ」
「魂を持っているのはこのあたしだったのに、親たちが選んだのは姫の方だった。気づいた時にはもう遅い。捨てたはずのあたしをもう一度さがしまわったそうだが、あたしは夜叉丸に拾われていたからね。結局姫は今の今まであの館の奥で育てられいてたわけさ」
「それで…、どうするつもりなんだ、この姫を」
「どう?」
桜子は艶然と微笑み、姫に頬ずりした。
「可愛いがるさ、姫はあたしのものだもの」
紅、濃紅梅、淡紅梅、淡紫、濃紫、黄、萌黄、青、朽葉に蘇芳──この世のゆかしさをすべて集めたかのようなとりどりの色の単。美しい模様がほどこされた唐衣や裳。檜扇や黒漆螺鈿の化粧箱。それらが姫の周りに広げられた。みな都からの盗品だ。
自分は水干姿の男装なのに、桜子は襲の色目をあれこれと吟味しながら、姫の着付けを楽しげに繰り返す。
髪を丹念に梳り、化粧をしてやり、立たせ、座わらせ、その姿をしげしげと眺めては目を細める。生人形の姫は、まったく桜子の玩具だった。
夜は夜とて桜子は、姫と同じ床で寝た。両腕で抱え、顔を寄せて。
姫の透けるように白い肌、白くはあるが内に熱い血をたぎらせた桜子の肌。
おれは桜子の裸身を見たことはないが、つい想像してしまう。
華奢でなよなよした姫の肢体とくらべ、桜子の身体はしなやかに引き締まり、鞭のようでもあるだろう。冷たい、とろりとした二人の黒髪だけは、どちらのものともわからぬほどに交じり、絡まり合っていることだろう。
おれは悶々として家の外に出た。
春とはいえ、夜気は冷たい。
頭を冷やすにはよさそうだ。
灯火がなくとも、そぞろ歩きできる明るさだ。満月に近い月が、ほんの少しの雲を帯びながら空にかかっていた。
隠れ家の周りは山桜の木が多い。夜叉丸は柄にもなく桜が好きだったようで、桜子の名の由来もそこにある。
いま、桜のつぼみはほころびかけていた。気の早い花が、ぽつぽつと咲き始め、ほの白く月の光を含んでいる。
少し行くと、枝垂れ桜の樹の下に人影を見つけた。
太い樹の根元に、ゆったりと腰を下ろしているのは翠野だった。瓶子を傍に置き、月を見ながらの独り酒を洒落込んでいるようだ。
翠野はおれに気づいたようだ。言ってやりたいことがあったので、おれはそちらに近づいた。
「あの姫のことを、どこで知った。翠野」
翠野は盃の酒を飲み干し、新しい酒を注いでおれに手渡した。おれは翠野の脇にどっかりと座って、酒をあおった。
「都にいたころ、わたしはさる陰陽師の弟子だった」
翠野は目を細め、夜空を見上げた。
「ある時、師があの姫の館から依頼を受けた。姫の病は治らぬものかと。師は、姫は病ではなく魂がないだけだと判断した。わたしは、師の命を受け、姫の魂を長く捜した」
「それが桜子か」
「ああ。捜しあてたとたん、もう姫にかかわらなくてもよいとのお達しだ。拍子抜けすること夥しい」
「なぜ?」
「帝が姫の噂を聞き、興味をもたれた。動かず、意思もない人形のような姫に、だ。姫の入内が決まった」
おれはもう一口酒を飲み、顔をしかめた。
「いい趣味とは言えんな」
「普通の女には倦いてくるのだろうさ」
翠野はおれから盃を取りかえし、再び飲みはじめた。おれは瓶子から直に酒を飲もうとしたが、半分こぼしてむせかえってしまった。
「帝の邪魔をしたのか」
口をぬぐいながらおれは言った。
「逆鱗に触れるぞ。巻き添えはごめんだ」
「勝手に怒らせておけ」
翠野はあっさりと言った。
「姫は、帝よりも桜子の方がふさわしい」
「桜子が姫にかまけすぎて、稼業がおろそかになっては困る」
「さてな」
翠野は首をかしげた。
「どうなるか」
人を小馬鹿にしたような物言いに、おれは声を荒げた。
「いったい、おまえは何をしたい」
「これは、めったにない面白い事象だ」
薄い笑みを浮かべて翠野は言った。
「二つの身体に一つの魂。生まれたての魂は、二人の間でまだ固定されていなかった。引き離された時、魂の核がついていったのは桜子の方だ。魂の緒は姫にも繋がっている。そうでなければ姫は生きていないだろう」
おれは言葉も出ず、翠野の横顔をにらんでいた。おれの怒りにもかまわず、翠野は楽しげに語り続ける。
「わたしは桜子に姫を与えた。二人が再び近づいた時、魂はどうなるか。すっかりと桜子に根を下ろしたままなのか、姫にも惹かれてしまうのか」
翠野は、おれの方に首をめぐらして目を細めた。
「興味がある。なりゆきをこの目で見てみたい」
「気色の悪いやつだ」
おれの怒りは頂点に達した。まるで桜子たちを掌の上で弄んでいるような言いぐさではないか。
おれは立ち上がり、腰の刀をすらりと抜いた。
「もう何も見えないようにしてやろうか」
翠野は声を出して小さく笑った。
その時、突然月が翳った。あたりは真の闇になる。
おれは翠野の居た場所に刀を振り下ろしたが手応えはない。
一陣の風が吹いた。
月明かりが甦った。
おれは、ぐるりとあたりを見まわした。
桜の木々が、皎々と充ちた月の光を静かに浴びているばかりだ。
翠野の姿はどこにもなかった。
翠野は、隠れ家から姿を消した。
どこか、おれたちの気づかぬ場所にひそんで、桜子と姫を眺めているのだろう。
怒りの行き所もないままに、おれもまた桜子と姫から目を離せない。
数日がたった。
桜子は、常に姫の傍にいた。
姫の蝋のように白い顔に、ほんのりと赤みがさしてきたように見えるのは気のせいか。一斉に咲き誇りはじめた桜の花色のせいなのか。
反対に桜子の方はけだるげで、姫の髪を梳りながら、放心したようになる時もあると小女から聞いた。桜子の魂が、姫に浸透しようとしているのだろうか。
おれは、いてもたってもいられなくなった。桜子の腕をとって、部屋の外に連れ出した。
驚いたことに桜子は、やすやすとおれに従った。以前の桜子なら、罵声をあげて、おれを殴ろうとするだろうに。
「いいかげんにしろ」
おれは桜子の両肩をゆさぶった。
「もう姫にかまうな。このままでは──」
桜子は、おれを見上げた。
おれはぞっとした。その目からは、以前のような凜とした赫きが消えていたのだ。ひらめく刃のような眼ざしこそが、おれたち偸盗をまとめ上げているものだというのに。
桜子が桜子でなくなっている。
みな翠野と姫のせいなのだ。
「痛いよ、熊鷲。離しておくれ」
桜子はおれの手を振り払った。声に強い響きが戻って、おれはいささかほっとした。
「姫と一緒にいて何が悪い」
「魂を吸い尽くされてもいいのか」
「魂?」
桜子は眉を上げ、小さく笑った。
「まさか」
「あなどるな。おまえたちは少しづつ変わってきている。翠野の思うつぼだぞ。あいつは、今どこにいる?」
「知らないね。いつのまにか居なくなった。来た時と同様さ。気ままな男だ」
「あいつは、どこかでおまえたちを見ている。おまえたちの変わりようを見て楽しんでいる」
「わたしが変わるものか」
「姫はどうだ」
「姫は」
桜子は眉をよせ、つぶやいた。
「ああ、そうだね。顔色がよくなったようだ。都よりも山暮らしの方があうのだろうさ」
「おまえの魂を手に入れているからだ」
「ちがう」
桜子はきっぱりと首を振った。自分の胸をたたき、
「わたしの魂はちゃんとここにある」
「これからもそうだと言いきれるか?」
「あたりまえだ」
桜子は昂然と肩をそびやかした。
「翠野が見ているというなら見せてやろう。わたしが、ずっとわたしであるということをね」
「桜子!」
おれを押しのけて行く桜子の後背に、おれは、叫んだ。
「気をつけろ」
おれが傍にいたいのは、昔のような桜子だ。
研ぎ澄まされた刃のように冴えた光を放ち、触れるものみなに傷を負わせずにはいられない冷酷さ。なにものにもとらわれず、まっすぐに前を見て己が道をいく桜子だったのに。
ところが今はどうだ。かたときも姫の傍を離れない。稼業はすべておれたちまかせ。おれが目を光らせてはいるが、手下どもとて緩んでくる。
いっそ姫を殺そうか、とおれは思った。桜子に恨まれてもかまいはしない。昔の桜子を取り戻せるなら。
このごろの桜子は、小女すら近づけず、姫と母屋にこもったままだ。おれは意を決して桜子の元に向かった。
うらうらと暖かい春の宵だった。
山の桜は散りかけで、庭にも簀の子にも、屋根のかかった庇の中にもどこからともなく花びらが舞い落ち、降り積もり、夜目を照らすようだった。
おれは庇に立って、声もかけずに桜子たちのいる部屋の戸を開けた。
桜子は、姫と並んで座っていた。高灯台の薄明かりの中、桜子の顔はおれが見たこともないほど穏やかで、姫の肩に頭をもたせかけていた。
姫は静かに微笑んでいた。桜子を抱き寄せるようにして、桜子の豊かな髪を指先で弄んでいた。
おれは息を呑んだ。
姫が動いている。人形ではなく、美しい人間の表情をまとわせて。
桜子は、魂の大半を姫に譲り渡してしまったのか。
姫を殺しさえすれば。
おれは、腰の刀に手をかけた。
その時、低い笑い声が聞こえた。
はっと首をめぐらすと、部屋の隅の薄暗がりの中に翠野の姿があった。
「やめた方がいい、熊鷲」
楽しげに翠野は言った。
「姫を殺せば桜子も死ぬぞ」
「なんだと」
「二つの身体に一つの魂。魂の緒は両方に繋がっているが、魂の濃い者の方が主体となる。主が死ねば、もう一方の魂の緒も断ち切れる。反対に、いま桜子の方が死ねば魂は晴れて姫だけのものになる。なかなか面白いだろう」
姫をはじめて見た時に、即座に殺すべきだったのだ。
おれは歯がみした。
このことさえ知っていたら。
「おまえは」
おれは、怒りをこめて言った。
「はじめから姫に桜子の魂を与えるつもりだったんだな」
翠野は、にっと笑った。
「であればいいと思ったまでだ。見てみたいとは思わないか。姫の気品に桜子が加わったら、どれほど美しいものが出来上がるのか」 翠野は、ゆっくりと桜子たちに近づいた。
「この国までも動かす存在になるかもしれん。楽しみだ」
おれは刀を握り直した。
翠野が許せなかった。
この男は、自分の楽しみのためにだけ桜子たちの魂を弄んでいるのだ。
「わたしに手をかけている暇はないぞ」
動じることなく翠野は言った。
「都に戻って、姫がここにいることを告げてきた。すでに北面の武士たちが周りを取り囲んでいる。姫を取り戻すために」
確かに、気がつけばあたりが騒がしくなっていた。あちこちで怒号が起き、猛る馬のいななきが聞こえた。外が異様に明るくなっているのは、武士どもがおれたちの家に火を放っているからだ。
小女たちが悲鳴をあげている。炎が、こちらまでも押し寄せて来ているのだ。
「さあ」
翠野は、姫に手を差し伸べた。
「行こう、姫」
姫は桜子から身体を離し、すっと立ち上がった。そのほっそりした両手で翠野の腕を静かに掴んだ。
そして、
「熊鷲」
低いが、玲瓏たる声で言った。
「殺しなさい」
桜子と同じ声だった。
同じなのに違っていた。
桜子のような荒々しさや命令口調はない。なのに、その冷たく冴えた一声は、すべてのものを従わす力を持っていた。
おれはためらわず、刀を翠野の胸に突き刺した。
翠野は、おそらく何が起きたか理解できなかったに違いない。身体を痙攣させながら驚いたように目を見開き、おれではなく姫を見つめた。
おれが刀を引き抜くと、血が迸った。姫は背筋をまっすぐに伸ばし、血しぶきにも動じることなく翠野を見返した。
姫が手を離すと、翠野はおれの足もとにどさりと倒れて動かなくなった。
「わたしは都に帰ります」
澄んだ声の響きのまま、姫は言った。
「姫…」
姫はおれを見つめた。
奥に光をたたえた美しいまなざしは、おれをとらえて離さなかった。桜子のものであった魂を持ちながら、そこにいるのは確固とした姫の自我だ。
おれは、息詰まりそうになりながら、姫の視線を受け止めた。姫が死ねと言えば、おれは即座に自分の命を絶っていただろう。それほどまでに、姫はおれの心を支配した。
翠野は、驕りすぎたのだ。
おれは思った。
その掌の上でこの姫の生き様を眺めることなど、誰もできはしない。姫の生は、姫自身のものなのだから。
「熊鷲」
姫がおれの名を呼んだ。
「桜子を連れて逃げなさい」
おれは、我にかえった。
「桜子は、おまえに任せます」
姫は裳裾をひるがえし、おれたちに背を向けた。
振り返りもせず、
「大切にするのですよ」
すでに、館にも火が燃え移っていた。甲冑をきた武士たちが、姫を捜して館の中をどたどたと走りまわっている。
彼らの一人が姫の姿を見つけて声をあげた。
おれは、夢中で桜子を担ぎ上げた。庭に飛び出し、追われぬように、わざと炎の中をかいくぐる。
あたりの桜の木々は炎に煽られ、これが最期とばかりに花を散らしていた。それは火花よりもきらきらしく赤く染まり、夜空をおおい、おれと桜子の上に降りそそいだ。
おれは、思わず立ち止まりそうになる。
このまま花とともに炎に呑み込まれても構わないとすら思う美しさだ。
しかし、痛いほどの熱風がおれを正気に引き戻す。
おれは渦巻く花と炎の中、なんとか桜子を抱えたまま山中に逃げ延びた。
来た方を振り返ると、眼下に、盛大に燃え続けるおれたちの隠れ家が見えた。武士どもは、姫を連れて意気揚々と都に引き上げて行くところだ。
残された桜の森は炎に明るく照らし出され、静かに、ただ静かに細かな花びらを舞い散らしていた。
* * *
それから何年たっただろう。
おれは同じ山中で、桜子とともに暮らしている。
桜子は、はじめて会った姫のようにもの言わず、動かない。桜子にあった魂は、いまは姫のものだ。
もう一度、姫に桜子を近づければ、魂はまた桜子のもとにもどってくるのだろうか。
だが、今となってはできない話だ。姫は、それを怖れておれに桜子を委ねたのだから。桜子を殺さなかったのは、姫なりの愛情か。
おれは姫に従った。姫の凜とした声音、ものごしは、おれをやすやすと言いなりにした。
姫の名は、藤原得子だと後に知った。鳥羽上皇の寵を受け、やがて帝となる皇子を産んだ。
権謀術数渦巻く朝廷で、しっかりと己の地位を築いている。翠野が言っていたように、この国のありようを変えていくのかもしれない。生きていれば翠野も、さぞ姫の生きざまを見て楽しんだことだろうが。
姫はこれからも、姫の思うがままに生きていくだろう。
颯爽たる偸盗の首領桜子と、魂を得た姫。おれは、二人の女に心を奪われた。
いや、一人と言うべきか。どちらも同じ魂なのだから。
もはやおれの手には届かない魂だ。
おれに残されたのは、桜子の抜け殻だけ。
大切にするのですよ。
姫の声が、まだ耳にこびりついている。
むろん、そうしている。
おれは桜子を慈しむ。
人形のような桜子を、おれがいなければ生きてはいけない桜子を。
それが姫への、そして桜子であったものへの思いの証しなのだ。