六月十日 夜
誕生日とはいえ学校でも普段と変わらない時間を過ごし、私は家へと帰る。
家政婦からは「上手く出来たと思います」という言葉とともに、彼女が作ったクッキーを貰った。
「ありがとう、大切にいただきますね」
そう答えると彼女は嬉しさと悲しさを混ぜ合わせた笑顔で、私の手を握りぽろぽろと涙を流すではないか。
私が一人での誕生日を迎えるという状況が、悲しくてしかたがないと子供の様に泣きじゃくっている。
年齢がかなり上の人に対して失礼とは思ったが、彼女の頭をそっとなでながら「大丈夫ですよ」と伝えていく。
本当に彼女は優しい。
人のために自分の感情を揺さぶり、共に分かち合おうとするのだから。
そういった『振り』しか出来ない自分とは大違いだ。
評判の良い、優秀な子。
そんな言葉をかけられながらも、私は何をしてきたのだろう?
何を得て来たというのだろう?
自分の名前のように、何かを実らせることは出来たのか?
彼女の泣き声を聞きながら、私はそれを考え続けていた。
◇◇◇◇◇
作ってくれたクッキーを一緒に食べた後に、今度は彼女が遠慮がちに私の頭を撫でてくれた。
そうして彼女は、自分の子供たちが待つ場所へと帰って行く。
彼女を笑顔で見送り、いつも通りに食器を片付けた私は、彼の元へと向かう準備を始めた。
外へと向かう途中で、私は立ち止まる。
玄関の柱に刻まれた傷。
さらりと一度だけなぞり、庭へと降り立つ。
昨日よりも絡みつくような湿り気をはらんだ雨の匂い。
今日も私は、それを自身の体へと取り込んでいく。
早足で蔵へ向かいながら、柱に書かれていた名前を口にする。
「弥おじさま……」
それは母の弟の名前。
彼は私にとって、叔父にあたるはずの人物だった。
そう、彼はもうこの世には存在しない。
十六歳という若さで、病気により亡くなってしまったのだから。
◇◇◇◇◇
ぽつり、と頭に雨粒が一つ降り立った。
急ぎなさいと誘われているように感じられ、私はどんどん足を速めていく。
蔵へと向かう道のりで、私は彼との出会いを思い返していた。
初めて彼の存在を意識したのは、どれほど前になるだろう。
当時は母に弟がいたが、若くして亡くなったとしか聞いていなかった。
弟の生きていた証を残しておきたい。
母の願いにより、玄関の柱には彼が亡くなる少し前に背丈を測った名残の傷と彼の名が。
そして、絵を描くことが何より好きだったという彼が自身を描いた肖像画。
これが家の蔵に保管されていたのだ。
数年前、母についていった蔵の中で、その自画像を見せられた時の衝撃は忘れられない。
さらさらとした髪に、そのまま空気に溶けてしまいそうな淡く白い肌。
正面からではなく横顔で描かれたもので、笑むこともなく刺すような視線をこちらへと向けたその姿。
なぜこのような変わった構図で描いたのかと母に尋ねれば、穏やかに笑って答えられる。
「あの子はいつも自分の思うようにありたいと願い、他人に縛られることを嫌う子だったのよ。だからこの絵はとても彼らしいと言えるわね」
愛おしそうに、彼の髪の部分をなぞりながら話す母の声。
それを聞きながら、自分の心臓が信じられないほどの速さで打ちつけていくのを自覚する。
その日からだ。
両親が帰ってこない日にはその寂しさを紛らわせるように、蔵へと向かい彼の絵をただ眺める日々が始まったのは。
当時の私は、周囲の求める『あるべき正しい自分』を作るのに疲れ果てていた。
そんな中で出会った彼という存在。
私とは逆の生き方を貫いた人。
それは今まで私になかった感情を生み出した。
これは初恋と呼ぶべき感情なのだろうか。
自分にないものを持った存在。
けれども、もう手の届かない人。
それでも求めずにはいられない、憧れを含んだ思いは膨れゆく一方だった。
そんな状況が変わったのが先週のこと。
いつも通りに彼を見つめている時に、ふと気づいたのだ。
母の血を受け継いだ自分。
つまりは私は、彼とも連なっているということなのだと。
私の中にも彼がいる。
そう考えた時の、あの瞬間の感情をどう表したらいいだろう。
立ち上がりおぼつかない足取りで肖像画の前に立った私は、彼の視線を感じながら自身をそっと抱いてみた。
腕に伝わる力は、指先から感じる熱は。
私であって私でない。
そう、これは目の前の彼からのもの。
その思いに浸り、私はただ強く自分を抱く腕に力を込めていく。
この考えがおかしいのは、もちろん分かっている。
だがそれが何だというのだ。
私は今、彼に抱かれ、彼の熱を知り、生きていることを覚えたのだ。
この私の考えが間違っているというのであれば、それで構わない。
この恋は、思いは。
私だけが知っていればいい。
誰にも教えない、誰にも気づかせない。
こうして生まれた思いを。
私が、私だけで実らせるのだから。
どれだけの時間、そうしていただろう。
いつの間にか私は、ぺたりとその場にしゃがみ込んで彼を見上げていた。
そうして私は、一週間後の十六歳の誕生日に行う、ある計画を立てたのだ。
◇◇◇◇◇
静まり返った蔵の中で、灯りがつくのを待つ。
打ちつける雨の音だけが、途絶えることなく響いている。
私は今日、彼と同じ十六歳になった。
なぜこの日を待ち続けたのかという理由を、上手く言葉には出来ない。
ただあの気付きの日から、出来るだけ彼の存在に近づけるように。
なるべく彼と同じ立場で在ることが出来たら。
そんな思いが、私の中に芽生えていたからだと思う。
いつも以上に緊張をしながら、扉を開くと彼の前に立つ。
震える指でそっと彼の唇へと触れる。
人であれば、柔らかな感触を伝えてくるのであろう。
だがそこにあるのは、真逆のざらりとした感触。
それでも心に溢れ、私を満たしていくこの感情は「歓び」だ。
胸が信じられないほどに早い鼓動を打ちつけているのが分かる。
そのまま視線の高さを合わせてから、ゆっくりと目を閉じ、私は唇を彼に重ねていく。
出会いという種から、すさまじくいびつな成長をして。
芽も花も経ることなく。
私は初恋という思いを実らせる。
その実は、甘くもなければ柔らかくもない。
けれども私は、その味に溺れる。
そっと離した私の唇から生まれたのは。
いい子でいるために、いつも作っていた偽物ではない本物の笑み。
彼を知れた喜びに、胸の奥から叫びたくなるような衝動がこみあげてくる。
思わず目を閉じ空を仰げば、小さな暗闇の中で聞こえてくるのは、止むことの無い雨音。
まるで私の新たな門出を祝う拍手のようだ。
乾いていた心を潤していくその音に共に浸ろうと、私は彼へと手を伸ばす。
祝福の音は、私の背中を後押しするように響き続けている。
熱を持たぬ彼から向けられた視線は、私の心も体にも、熱を持たせていく。
たとえようもない幸福に抱かれ、私は彼を見つめたまま再び唇を重ねていくのだった。