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土星猫の口元が開き、喉奥からひときわ鋭い触手──口吻が伸びる。
ルキアの真っ白な喉元を狙い、矢のような速度で撃ち出されたそれは、
「……?」
羽虫でも払うような調子で手を振ったルキアの魔力障壁に、いとも容易く弾かれた。
ぱん、と小さな音は、防御の堅牢さに対して攻撃があまりにも軽いことを示している。
土星猫の双眸が驚愕に歪み、ルキアとステラの目は無機質なほどに動かない。
心中に驚きはある。
今の攻撃は、単純な物理威力だけならフィリップのウルミにも劣る。見るからに異形の怪物といった風情の土星猫から飛び出すにしては、あまりに低次元だ。
とはいえ、それが全力なのか、様子見なのか、或いはブラフなのか不明である以上、油断はできない。
「交代ね」
「だな。槍は任せる」
重力の檻が完全に無効化されたのは想定内だ。
より正確に言うのなら、ルキアもステラも「何が起こってもおかしくない」という気持ちで土星猫と対峙していた。
だから先制攻撃に使った最大火力である“明けの明星”が回避されても、重力による拘束が効果を発揮しなくても、ルキアに動揺は無かった。
「《ステイク》」
自分の真横をすり抜けていった土星猫に、ステラの魔術が向けられる。
火属性上級拘束魔術『フレイムプリズン』の改変。相手が動けば焼ける炎の檻ではなく、相手を害することに主眼をおいたそれは、ごく小規模な火災旋風だ。
その場から動かず、延焼もせず、しかし内部に捕えたものを執拗なまでに焼き殺す。
杭に繋がれた罪人を処断する『焚刑』の名を冠した、檻というには攻撃的に過ぎる魔術。
空気を喰らいながら燃え盛る炎は、その内側に向けて強力に吸気する。中でどれだけ足掻こうと、外に出るのは困難だ。加えて1000度にまで上る超高温の炎の壁は、触れるまでも無く肉を焼く。
しかし、土星猫とて惑星間航行能力を持つ外来種だ。
マイナス200度を下回る極低温真空環境への適応能力と、恒星の放つ熱や紫外線への対策は備えている。
土星猫の“敵”は、宇宙空間という絶対死の環境と、一部の神話生物、あとは邪神くらいだ。
今更ヒト風情に負けることなど有り得ない。
そう、過信した。
「──」
炎の檻の無意味さを嗤い、一息で突破する。
その眼前に灯る、蛍の群れ。
ルキアの展開した無数の光球を視認し、その照準を読み解く。
「──」
甘い狙いだ。
自分とその周囲3メートルを埋め尽くす攻撃。点の攻撃では照準を読まれるからと、対策したつもりなのだろうが──そんなもの、4メートル跳んで躱せばいい。
跳びかかった状態、足場の無い空中では避けられないとでも思っているのだろうが、足場なんてない宇宙を泳ぐ土星猫だ。空気があるのなら、それを蹴ることは造作も無い。
ルキアの魔術照準から逸れるように、5メートル上方へ飛び上がる。
足元を照らす光は──意味の無い、ただの光。エネルギー変換もされていない、木々の表面を焼くことも無い、少し遠くまで照らせるだけのサーチライト。
「──?」
なんのつもりだろう、と首を傾げた直後。
「《炎獄》」
“燃焼”を押し付けられた。
普通、人型──より正確には眼窩が正面を向いて備わった頭蓋骨を持つ生物は、横長の視界を持つ。
地球の環境では、ヒトの天敵となり得るのは狼や熊といった中型から大型の地上生物が多い。平地を歩く中で、なるべく広範囲を警戒できるようにという進化の結果だ。狩りの対象になる動物も、動きは早いが横にしか移動しないものが多かった。
だからヒトの目は、横移動を追いやすく、縦移動と高さの移動を認識しづらい性質がある。
さらに、直上5メートルものジャンプという意表を突く大移動。
目で追えるはずがない。
つまり──動きを読まれていた。いや、誘導されたのだ。
その先に待ち受けていたのは、ステラの展開した空間隔離魔術。
直径3メートルほどの火球に見えるが、実態は炎の風船だ。中は空洞になっている。
当然、無害ではない。
王宮祭の御前試合で見せたカスタム版の「煉獄」とは違う、攻撃能力を捨てていない原典通りの魔術だ。
中から外に出ようとする全てのものに「燃えている」という状態を押し付けるそれは、物質だけでなく音や光などの燃えないものさえ燃やし尽くす。
並大抵の相手なら囚われるだけで跡形も残さず、それこそ燃え残りの灰さえ焼却する魔術だが、しかし、土星の猫は依然として存在していた。
健在ではない。
その身体を織る無数の触手は炎に蝕まれ、土星猫は人間の可聴域を超えた絶叫を上げている。
脆弱と侮った人間に。
嘲笑交じりに嬲り殺し、その死体を弄ぶだけの劣等種に。
無様な悲鳴を上げさせられている。
その事に怒りを感じた時には、ルキアは処刑の準備を終えていた。
「放していいわよ」
ぱっと魔術が掻き消え、土星猫が解放される。
概念の炎とせめぎ合うほどの再生能力は、魔術が解けた瞬間に全身を完全に修復した。
ほんの数秒間の拘束だったはずだが、気付けば周囲には闇の帳が下りている。
しかし、いつの間に夜になったのだろうという疑問を抱くような余裕は、もはや持ち合わせていない。
「──!」
きぃぃぃん、と、明確な威嚇音を発する土星猫。嘲弄は消え失せ、殺意だけが残った声だ。
その全周を、小さな光球の輪が取り囲んでいた。一条につき親指大の光球が三十個。それが三つ、軸をずらして廻る様は、土星猫を中心とした惑星儀のようにも見える。
その全てが、エネルギー変換された光だ。
神域級攻撃魔術『明けの明星』の改変。一発の威力に制限をかけ、成層圏まで貫くような射程も捨て、代わりに同時展開数だけを追求したもの。その魔力消費量は極めて大きく、設置型魔術に書き換えてようやく詠唱できるほどだ。
設置型魔術は使い勝手が悪い。
設置場所を看破されたり、魔力操作によって制御権を奪われたりするからだ。
だが、動かない相手を処刑するだけなら。
相手が拘束されていて、絶対に回避できないような状況になっているのなら。
周囲の光を自動的に収束させ、予め決められた方向に機械的に撃ち出すだけの魔術でも、十分に殺せる。
「《エクスキューショナー》──起動」
収束し、エネルギー化された光が杭のように撃ち込まれる。
全周九十本の杭は土星猫の全身をプリンのように抵抗なく貫き、その膨大なエネルギーが空気を焼き切って爆発する。
光で編まれたアイアンメイデンと機雷。
そんな物騒な形容がぴたりと宛てはまる魔術だ。
「──!」
人間の耳には聞こえない、しかし肌を震わせるような断末魔を上げて──全身を一瞬で蒸発させるほどの極大エネルギーを浴びて、断末魔を上げる余裕があるのは凄まじいの一言に尽きるが──土星の猫は跡形もなく消滅した。
「……倒したの?」
「……分からん。透明化、瞬間移動、無敵、何でもありだと思っておけ」
聖痕者二人の鋭い視線が周囲を警戒する。
魔力視を使いたいところだが、何かのはずみで少し遠くを見てしまって、そこに邪神が居たら終わりだ。視界のチャンネルは物理次元に合わせておくしかない。
ならば、と魔力を撒いて空間を埋め尽くし、空間をマッピングする。
──いない。
魔力的に透過できる相手なら、という懸念は残るが、いま手に入る情報から推察するに。
「倒したか」
「そう願うわ。警戒しながら進みましょう」
「……そうだな」
正直に言うと、二人ともその場にへたり込んで、泥のように眠ってしまいたかった。
先の戦闘それ自体は準備運動程度だ。今からお互いに殺しあえと言われても十分に対応できる程度の余力はある。
だが如何せん、精神的な負担の大きい戦闘だった。
二人でやる模擬戦とはまた違った、嫌な緊張感。とびきり気色の悪い魔物と言った外見の土星猫が、次の瞬間には「ぱかっ」と割れて、中から一目で正気を損なうような本物の怪物が現れるかもしれない。そんな荒唐無稽な懸念さえ笑い飛ばせない状況だった。
しかし、本番はこれからだ。
このだだっ広い森の中から、「こっちには行きたくないです」と唸る狼だけを道標に、フィリップを探し出す。場合によっては吸血鬼と戦うことになるだろう。
「少し休憩する?」
「……いや、想定外の接敵だったが、折角スマートに終わったんだ。すぐに動こう。今の奴が群れないとも限らないしな」
「……ぞっとする仮説ね」
二人はもう一度狼を召喚し、方向を確認してから歩き出す。
しかし、フィリップがいるのは迷いの結界──魔術的な要素を持たない、木々の配置や枝葉の向きなどで認識を狂わせる、物理的な結界の中だ。
魔力視を使わずにその中を進めば、迷った挙句に元居た場所に帰ってくることになる。
二人がフィリップと合流するには、もうしばらく時間がかかりそうだった。