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 魔術というのは便利なもので、傷そのものを癒す治療魔術に適性が無くとも、応急処置が出来る。


 ハンカチが一枚あれば、フィリップにだって濡らして患部を冷やすくらいは可能だ。

 動揺から立ち直ってもなおフィリップを抱き締めたままのルキアは、片手でハンカチそのものを凍らせて頬に優しく当ててくれた。


 「大丈夫?」

 「はい。ありがとうございます」


 依然として口の中に溢れてくる血と涎を、ねばつきに苦労しながら嚥下して、お礼を言う。


 ハンカチを受け取ろうと手を伸ばすが、ルキアは手を放そうとしなかった。

 ルキアの手に自分の手を重ねているだけというのも不毛に思えて、だらりと垂らしたままだったウルミを仕舞う。


 「概ね理解した。……まぁ、なんだ。実は私たちも去年、何人かに喧嘩を売られた。如何な魔術学院とはいえ人間の集合だ、馬鹿が出るのは仕方ない」


 初耳だ。

 というか、この二人に──世界最強の証を双眸と胸元に輝かせる二人に、喧嘩を売るレベルの馬鹿が存在するとは。


 旧支配者が外神に喧嘩を売るようなものじゃないのか、それは。


 「だが、まだ理解できないことが一つある。何故カーターを──こいつを殴った? 模擬戦外での不意討ちは、カーターが同じことをしたという勘違いによるものだとしても、そもそもの動機が分からない」


 何も考えていなかったのだとしたら、話は終わりだ。

 ステラも、ルキアも、フィリップも、眼前の馬鹿に対する興味を一片も残さず失う。


 「新学期早々だ。そっちの女子に惚れている、などといった甘い理由ではないだろう?」

 「で、殿下? ……いえ、やっぱりいいです」


 確かに、彼らは入学してから数日程度の仲のはずだ。

 この短期間で恋に落ちるとしたら一目惚れ、外見に惹かれてだろうが……いや、よそう。フィリップの美的感覚は壊れている、マザーによって壊されている。ルキアもステラも、鏡を見れば人類最高の美貌がそこにあるから、程度の差はあれズレているはずだ。


 ほら、あれぐらいの顔でも、世間一般では可愛いのかもしれない。そういうことにしておいた方が、みんな幸せだ。


 「はい、聖下。そのような理由では、断じて」


 だろうな、とステラは当然のように頷く。

 そんな理由だったらフィリップの痛みと我慢の意味まで薄れるので、それは朗報だ。


 「邪魔をされたと、ただそれだけの理由で女性を傷付ける者に対して、今は亡き我が最愛の兄であれば、きっとこうすると思い……短絡的に行動してしまいました。そちらの……カーターさん、には、謝罪の言葉もありません」


 フィリップの目を真っ直ぐに見据え、それから深々と頭を下げる。

 深い謝意の込められた正式な作法での謝罪に、ステラは一先ず溜飲を下げたようだが、しかし。


 「最期に名前を……あぁ、家名だけで結構よ。教えてくれるかしら」


 全員纏めて塩の柱に変えようとしているルキアを、何よりも優先して止めなければ。


 しかし訊くのは家名だけって、それは一族郎党根絶やしにするからでは……?


 「……神が私を罰するべきだと思し召すのであれば、是非もありません。どうぞ、私に裁きの光を降らせてください」


 きゃあきゃあと騒ぐセシルたちとは違い、彼は覚悟を決めていた。

 ……いや、それも少し違う気がする。彼のそれは、死の覚悟などというフィリップがどうあっても抱けないものではなく、むしろ、フィリップがずっと抱えている渇望に近いような──?


 「我が家名はルメール。国王陛下より伯爵位を戴いておきながら、無様を晒し続ける家系でございます」


 聞き覚えのある名前に、思考が誘導される。

 観察から回想へ、見たことの分析から記憶の走査へ。


 「ルメール?」

 

 人間の脳とはすごいもので、一度覚えたものは忘却の彼方にあっても引き戻せる。

 それは視覚や、嗅覚や、聴覚による刺激で強く補助される。口に出す、というのも、いい方法だ。


 ほんの一回オウム返しに呟いただけで、フィリップの脳は記憶の奥底から該当人物のフルネームと、多少のエピソード記憶を引き出した。


 「リチャード・フォン・ルメール様のご係累ですか? 昨年の夏に亡くなられた」

 「──っ!」


 フィリップの推理は正解だと、弾かれたように顔を上げた彼の反応を見ればすぐに分かった。


 ルキアも一応、凄惨な死を遂げたクラスメイトのことは覚えていたのか、魔術の照準を止める。

 元班員に免じてというより、フィリップが興味を惹かれたからという理由の方が大きそうだったが、彼女の判断基準や価値基準に口を出せるほど大層な人間でもないので、それはさておくとして。


 「ご存知でしたか。私はその不肖の弟、ジェームズ・フォン・ルメールと申します」


 フィリップがもう一度左頬の手に触れると、ルキアは少しだけ躊躇ったあと、ハンカチを預けてそっと離れた。背中に感じていた体温が遠ざかり、ほんの僅かな寂寥感を覚える。


 ジェームズに近付いていくフィリップとは反対に数歩だけ下がった彼女に、ステラがひそひそと耳打ちをする。


 「カーターと仲が良かったのか?」

 「……まぁね。あの子、魔術剣とか好きでしょう?」

 「なるほど、それで」


 そんな二人の会話を余所に、フィリップはジェームズの前に片膝を突く。

 跪くという訳ではなく、ただ視線を合わせただけだ。


 「フィリップ・カーターです。貴方のお兄さんが亡くなった一件では、同じグループでした」

 「……貴方が、あの」


 あの、の後に何が続くのか、とても怖い。聞きたくないほどに。

 そんな内心を汲んでくれたのか、ジェームズは先を続けることはせず、は、と浅く笑った。


 その態度にルキアが柳眉を逆立てるが、呆れたような笑いの宛先はフィリップではなく、彼自身だった。


 「失礼しました。貴方を笑ったわけではなく、その……実家から「カーター猊下とサークリス聖下とお近づきになるように」と言われているもので」

 「なるほど、笑っちゃうぐらいの大失敗ですね」


 けらけらと笑うフィリップにつられて、ジェームズも苦笑の中に微かな同調の笑いを浮かべる。

 

 なんとなく和やかに話が進みそうになっているが、ルキアはともかく、ステラはそれを許さない。


 「ところでルメール。信賞必罰という言葉を知っているか? まあ概ね“褒賞も報償も、感情に左右されず厳正な判断をすべき”という意味だ」

 「その言葉も、恥も、知っているつもりです、聖下。如何様にも罰をお与えください」

 

 フィリップが何か言う前に、ジェームズが先んじて頭を下げる。

 彼の態度はずっと一貫して、善性に満ちていた。非を認め、罰を受け容れるところもそうだ。

 

 だからステラの言葉は、懐かしい記憶に絆されてなあなあに済ませようとしたフィリップと、感情のままに苛烈な罰を下しそうだったルキアの二人に向けたものだろう。


 「勘違いするな。私たちは何もしない。学校側に報告して、それで話は終わりだよ」


 もう行け、と、ステラは適当に手を振って全員を追い出した。


 「さて。……医務室、行くか?」

 「……はい」





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