第9話 女装趣味・上
冒険者ギルドの業務は多岐に渡るが、こと街の運営という観点から見た場合、最も大事な仕事は《迷宮の管理》だろう。
迷宮街アレキサンドーラは近郊に五つの迷宮を抱え、《いずれも未踏破》という、体の内側におそろしい爆弾を抱えた都市だ。
知っての通り未踏破の迷宮というものはぐらぐらと煮えた鍋いっぱいの湯のようなもので、その内部には魔物がひしめき、ひとつ間違えると迷宮街の外にまであふれかえってしまう。
そうならないようギルドは定期的に冒険者たちを集め、低階層に蔓延った魔物たちを一掃するようにしている。
大掃除の仕事だ。
ただし、街の存続・維持にとっては大事な仕事でも、冒険者にとっては二束三文の仕事であり、これを受けるのは全くの新入りか、クランに入れなかったあぶれ者しかいない。
ラト・クリスタルがエストレイ・カーネリアンの死の真相を解き明かしたという噂は、張り巡らされた目には見えない情報網を伝わり、一両日中には街の隅々にまで行き渡った。
そのことはラトと共に事件に関わったクリフ・アキシナイトにとって紛れもなく不幸の元となった。
クリフは迷宮街の新参者として平凡な人生設計図しか描いていなかった。
ギルドで冒険者登録をし、どこかのクランに潜り込んでレガリア探索なり魔物退治をするなりの、冒険物語の定番のような冒険者暮らしだ。
だから、噂が広まったのは彼にとって非常に都合が悪かった。
なにしろ、今やラトは《冒険者殺し》というとんでもない悪名をかぶっているのだ。本当の冒険者殺しはガルシアという小悪党のほうなのだが、世間は両者をどっちもどっちだと思いこんでいる。
クリフは噂が落ち着くのを待ち、そのあいだのつなぎとして《迷宮第三階層にはびこる小鬼退治》という二束三文の仕事を受けることにした。
仕事場は第三迷宮、通称・《ガルドルフ邸》。
ここは入口が新市街地のど真ん中にあるため、ギルドが最も気を配っていなければならない迷宮のひとつだ。
この迷宮はその呼び名のとおり、第一階層から第三階層が《邸宅》になっている。
そう、この迷宮はかつて《邸宅》として利用されていた過去をもつ。
大商人ガルドルフの、迷宮内部で生活しながら商売もできるという奇想天外な発想を、莫大な富と財産で実現した代物だ。
内部には数えきれないほどの寝室や広間があり、図書室や遊戯室、金庫室や噴水つきの庭園までもが揃う。もちろん、冒険者相手に商売をするための店舗や倉庫も備えている。
ただし、現在でも往時の面影を残しているのは地上に露出した第一階層のみで、そのほかの場所は廃墟となった。
いまでは、ここに魔物以外の住人はいない。
ある不吉な晩、魔物たちが押し寄せて、ガルドルフや使用人たちを皆殺しにしてしまったからだ。
偉大な人物の夢は、より強大な弱肉強食という理論の前に倒れ伏したのだ。
そんな栄光と思い上がりが同居した場所で、クリフは息を殺していた。
監督役から割り当てられたのは使用人たちが寝起きしていた区画だ。
ほかの場所よりも通路が狭く、内装も地味で、窮屈な構造になっている。
クリフは勝手口から厨房に忍び込み、入口ドアの向かいに陣取って、クジ引きで選ばれたほかの仲間たちが小鬼を袋小路に追い込んでくるのを待っていた。
じきに騒々しい足音が聞こえてくる。
靴を履いていない裸足の足音は小鬼のものだ。
クリフは立てた戸板の影で、ギルドから借り受けた弓の弦を引き絞った。
そうしていると嫌でも父親のことを思い出した。父親は狩りが一番の趣味で、大して興味もない息子たちに教えたがるのを二番目の趣味にしていた。
最初の獲物は女神に捧げるんだ、と彼はよく言っていた。
故郷を離れてよかったことは、最初の獲物を自分のものにできる点だろう。
半開きにしておいた戸から、緑色の皮膚をした怪物が飛び込んできた。
逃げ道を失った魔物が真正面に来る絶好の位置だ。どんなに腕前がへぼでも、これを射ち漏らすばかはいない。
クリフが放った矢は小鬼の額をみごとに射貫いた。死の間際、小鬼が放り投げた石斧は抱えていた戸板に突き刺さる。
倒れた仲間の背中を踏みつけ、もう一匹が入口に姿を現した。
クリフは剣を鞘から引き抜いた。
ここまでは予定通りだ。
「ん?」
突然の来客はそれで終わりではなかった。
もう一匹、後に続いて厨房に入ってくる。
「おい、約束がちがう。エルウィン!」
クリフは叫んだが、仲間の返事はない。
一匹か、二匹か。大差ないようでも、ずいぶん違う。
小鬼は力の弱い魔物だが、石や革を加工する知性と群れを作る社会性を持つ。おまけに敏捷だ。すっかり油断していても倒せる敵というわけではないのだ。
しかし、段取りが違うからといって、迷っている暇はない。
ここはもう土壇場なのだ。
テーブルの上に飛び上がり食器の上を踏みつけながら、小鬼はクリフを威嚇し、手にした武器を振り上げた。
石斧が思いがけない速さで額の脇をすり抜けていく。
すかさず畳みかけるように、もう一匹が手にした剣で攻撃してくる。狭い厨房で、至近距離にいる二匹から同時に攻撃されるなんて、とんでもない。
クリフは屈んで攻撃を避け、そのまま床の上を前転して二匹目の脇をすりぬけ、入り口側に抜け出た。
地面にしゃがんだまま振り返ると、二匹目の小鬼が真正面に来る。
反撃のタイミングだ。これを逃したら、怪我をするのは自分のほうだ。
立ち上がりつつ、手にした剣で、下段左から右へと斬り払う。
「ギャッ!」
小鬼は悲鳴を上げるが、切っ先が浅く腹を掠っただけだ。まったく反撃の意志を失ってはおらず、椅子を踏み台にして、再び飛び上がって攻撃を仕掛けてくる。
クリフは大きく一歩前に踏み込んだ。
それと同時に右手に持った剣を逆手に構え、手首の反動を使って片手で振るう。刃が小鬼の首筋を深く切り裂いていく感触がする。
続いて緑色の血が噴き出した。
もう一匹が襲ってくる。クリフは大振りな攻撃にタイミングを合わせて小鬼の体を蹴り上げた。
そして、両手に戻した剣を突き入れる。
タイミングよく、深く入った。
小鬼はしばらく痩せた手足をばたつかせていたが、急所にとどめを入れると静かになった。首を斬ったほうは床に倒れたまま身動きもしない。
三体とも息絶えたのを確認したあと、ようやく組んでいた仲間のひとりが姿を現した。
「ごめーん、遅れちゃった!」
「どういうことだ? お前たちが一匹ずつやるって段取りだったじゃないか」
「だってぇ、服が汚れるのがいやで……あらっ、あんた結構やるじゃない」
杖を手にした女魔術師は、呑気そうに厨房の荒れたようすを見回している。
廊下の奥の袋小路では、もうひとりの仲間である太った男が、最後の一匹を何度も繰り返し叩き潰している最中だった。
思わず、溜息が出た。
安い報酬、信用のおけない仲間、予想外の出来事。これだけ揃えば、早々に地上に戻りたいと願うのも無理はない話だ。
どうにか文句を飲み込み、黙って身を屈め、厨房の床に転がった小鬼の死体から右耳を切り離した。
低階層の《掃除》の仕事は歩合制だ。倒した小鬼の数だけ、雀の涙のような報酬が支払われる。
そのあいだ、エルウィンはあちこちの戸棚を開けたり閉めたりと、無駄なことばかりに精を出していた。
「金目のものなんかとっくに持ち出されてあるはずないぞ」
クリフは苛々しながら、喉の奥に押しとどめていた文句の片鱗を口にした。
聞いているのか、いないのか。エルウィンが声を上げた。
「ねえ、見て。何か光ってる。レガリアかも!」
「――――はあ? こんな低階層にあるわけないだろ」
エルウィンは暖炉の中を覗き込んでいる。
近づいてみると、果たして、奥のほうからか細い光が漏れ出している。
「高く売れたら、山分けだからね!」
クリフは残されていた薪や鍋をどけて、暖炉の中に体を差し入れる。
煙突の奥に目を凝らすと、煤以外に布切れが詰まっているのが見えた。
クリフは手を伸ばし布切れの端を掴んだ。力任せに引っ張ると、大量の埃や煤と一緒に案外と重量のあるそれが落下してきた。
暖炉を詰まらせていたものの正体を目にして、エルウィンは悲鳴を上げた。
「きゃあああっ! 死体よ!!」
落ちて来たのは死体だった。
全身が煤で汚れていたが、確かに人の死体だ。
かなり時間が経ったものらしく肉はすっかり削げ落ちている。乾燥し、骨に皮膚が張り付いていた。ミイラだ。
身に着けている着衣から、かろうじて女性だとわかる。腰のベルトには冒険者証があった。
非常に哀れな状態ではあるが、家具や鍋や皿や干からびたベーコンに囲まれていたとしても、ここは迷宮の中だ。
「蘇生術師を呼べ!」
クリフは大声を出した。
迷宮で死んだ者の魂は女神によって守られており、然るべき処置を受ければ、どれほど時間が経っていようが蘇るのだ。
暖炉の煙突から転がり落ちて来たこの哀れなミイラも、掃除屋たちに随行していた蘇生術師によって奇跡的に復活するだろう。
それから一時間後。
クリフ・アキシナイトは逮捕されて、冒険者ギルドの地下牢にいた。
「……………なんで?」
彼は自分が置かれた状況を把握していなかった。
ただ理解できるのは、自分の目の前には確かに鉄格子が降りているという純然たる事実のみである。
そして、鉄格子を挟んだ向こうには、女もののドレスをまとったラト・クリスタルが嫌味を言っている。
「まったく。こんな昼日中から小鬼と遊んで泥だらけになって、最後は牢屋に閉じ込められているなんてね。冒険者って輩の考えることはどうしてこうも度し難いんだ。君ってもしかして、牢屋が好きなんじゃないの?」
羽飾りのついたつばの広い帽子に、フリルを幾重にも重ねたスカート。心なしか膨らんでみえる胸元を飾るリボン。真っ白なパラソルをくるりと回している。
「……………………………本当に何故なんだ?」
何故、ラト・クリスタルは女装しているのか。
クリフには目の前で起きているとんでもない二つの出来事について、最早何一つ理解できそうになかった。
もちろん、どちらかといえば、理解したくなかったのだ。