番外編 大切な教え
クリフが十になるかならないかといった頃のことだ。
まだイエルクが存命であった頃でもあり、アンダリュサイト砦では時折、華やかな宴が開かれることがあった。
集まるのはイエルクと親交のあったものたちで、行儀のいい王国貴族はお呼びではない。いや、彼らも普段は行儀よくしているかもしれないが、華やかな服装を一枚めくれば、どす黒い野望を胸いっぱいに抱えているような客たちばかりだ。
そもそもが、よりにもよってイエルクのご機嫌うかがいに来るような連中だ。
ろくでもない客ばかりであることは間違いない。
クリフは宴も、宴に来る客も、どちらも好きにはなれなかった。
いちばん嫌だったのは酒に酔って上機嫌なイエルクが客前にクリフを呼びよせることだ。呼び寄せたからといって何をするでもなし、よけいな口出しでもしようものなら監禁部屋に押し込まれて三日は飲まず食わずということになるので、ただ突っ立っているだけなのだが、客の値踏みをするような視線がいやだった。
さらに輪をかけて嫌なのは、父オスヴィンやほかのきょうだいたちの嫉妬が自分に向けられることだ。
オスヴィンは宴会の最中、会場にいても、ほかの誰とも会話をしてはいけないとイエルクから命じられていた。
これはイエルクがオスヴィンを後継ぎとしては見ておらず、種付け用の雄馬くらいにしか思っていないという意志の表明に他ならなかった。
父親にとっては大変屈辱的な命令だ。
じゃあクリフがイエルクから何かしらの期待をされてそばに置かれたのかというと、それも違うのではないか、と現在のクリフは思っている。
イエルクは恐らく、オスヴィンやきょうだいたちの嫉妬心を掻き立てるためにそうしたのだろう。家族の内、だれかひとりがひいきされていると思えば、きょうだい達は必死になる。生きるも死ぬもイエルクの匙加減といった砦のなかで、抜け駆けは裏切りだ。
何よりもクリフ自身がほかの連中に追い落とされないように必死にならねばならない。
しかし、ひとたび宴会が開かれるということになれば、イエルクはそちらに集中するので、食事や飲み物に毒を混ぜられることはなかった。顔に痕がつくくらい殴られることも無い。
ただ朝から晩まで働かされるだけですむので楽といえば楽だ。
折をみて、クリフはイエルクのそばを離れて広間から抜け出た。
人気のないところまでやって来ると暗がりに声をかける。
「じじいども、いるか!」
「あいよ、ぼっちゃん」
姿を現わしたのはチビ・ヒゲ・ノッポの三人組である。
「手筈は整っておりやす」
チビがそう言って手揉みして待ち構えている。
ヒゲとノッポは布をかぶせたワゴンをそれぞれひとつずつ押している。
片方は宴会会場から下げてきた残飯が満載になったワゴンだ。
クリフは残飯の皿を手に取るとノッポが差し出した新しい皿に中身を移し替えていく。
骨やら皮やら、どうあっても食べられそうにもない部分を取り除き、まだ身が残っている肉や肴を盛りつけ直していく。
「うん……こんなもんでいいだろう」
作業を終えると、布をかぶせなおす。
もう一つのワゴンを確認すると、そちらには、まだ誰も手をつけていない料理や酒が満載されていた。
「じいさんも見栄っ張りだな。雇われ楽団にこんなもの食わしてやっても肥えるだけなのに」
「バレたらぼっちゃんが被ってくだせえよ」
「あのイエルクに告げ口する奴がいるわけないだろ。運べ」
クリフがスプーンで皿を叩くと、ヒゲは盛り付け直した残飯が載せられたワゴンを押していく。行き先はこの日のために雇った楽団の控室だ。
本来、楽団のために届けられるはずだった出来立ての料理と残飯をすり替えることを思いついたのはクリフであった。
宴会の最中、クリフは基本的に飲まず食わずだ。一応テーブルは用意されているのだが、あちこちに呼ばれては世間話を聞かされ、小間使いにされるため、客がはけるまで自由な時間はない。
まともにやっていると飢えるが、食事をつまみ食いすることは許されていなかった。もしもそんなところをイエルクに見られでもしたら、どうなるかわからない。
そこで思いついたのが、宴席からではなく宴のために雇われた人間の食事を盗むことだった。
こうした席での楽団との契約では食事を提供することになっているが、どのような食事が供されるかは主催者の気分しだいだ。
冷たく量の少ない飯が出て来たとしても、それ自体はそう珍しいことではない。
けち臭いと思われるかもしれないが、イエルクに面と向かってそれを言う奴が王国にいるはずもない。
「で、ぼっちゃん、ワシらにも分け前が貰えるんでしょうな」
チビとノッポがニヤリとした。
クリフはため息を吐き「好きなだけ持っていけ」と言った。
食事のすり替えを思いついたとしても宴席から離れられないクリフは、どうしてもがめついじじい三人組に頼るほかない。
すっかり足下をみているじじいはあれもこれもと料理や酒をさらっていき、量は半分以下になってしまった。
「ひひひ、じゃ、ぼっちゃんも楽しんで」
「宴会最高!」
そう言ってジジイとは思えないほど軽快な足取りで使用人小屋に下がっていく。
クリフは彼らにできるだけ苦しい死を与えるよう女神に祈りを捧げつつ、軽くなったワゴンを押していった。
料理を運んで行った先は厨房である。
宴会の日、厨房の仕事は過酷になる。
料理人が休みなく働かねばならないのはもちろんのこと、給仕係も宴席と厨房を忙しなく行き来して、クリフと同じく食べる暇もない。
それに、どれほど豪華な食事を客に振舞ったとしても決して自分たちの口には入らないのだった。
「キルフェ! 料理をくすねてきたぞ!」
クリフがそう言って台所に入っていくと、まず給仕係が歓声を上げた。
それから、かまどのそばで仕事をしていたキルフェがゆっくりと振り返る。
白金の髪を三角巾の下にまとめた妹が、薄青の瞳を丸くしている。
「クリフお兄さま……」
キルフェは手を拭いて立ち上がり、ワゴンに小走りで駆け寄ると、かぶせた布を取った。
一目でクリフが何をしでかしたのかを見抜いたらしく、眉をひそめた。
けれどもそれは一瞬のことだった。
「みなさんで少しずつ頂きましょう」
そう声をかけると、薄暗い厨房全体に歓声が上がった。
「ありがとうございます、ぼっちゃん」
「さすがはクリフ様だ」
使用人たちはクリフの頭を撫で、褒めそやす。
普段、イエルクに怒鳴られてばかりのクリフも悪い気はしない。
しかし、肝心のキルフェはあまり気乗りしない様子である。
クリフはワゴンから藤の籠に入れられた一品を手に取った。
それだけは、三人のじじいに取られないよう死守したものだ。
クリフはキルフェの手を引き、食料を保管している小部屋に連れていく。
「キルフェにはとっておきだ。ほら、甘いもの。好きだろ?」
籠の中には、まだ焼き立ての熱を残したパイが入っていた。
キツネ色に焼き上げられた編み目模様の合間から、砂糖を混ぜたかぼちゃのフィリングがのぞいている。香ばしいにおいも漂ってくる。
しかし、キルフェは困ったような顔つきだ。
「お兄様、でも、イエルクおじいさまに気がつかれたら……」
「しばらく飲まず食わずだろうな。でも大丈夫だ。空腹なんかもう慣れっこだから気にするな。それより、俺はキルフェが喜ぶところが見たいんだ」
「それじゃ、お兄様もいっしょに食べてください」
「いいよ、俺は宴席でたらふく食べてきたから。キルフェに食べてもらいたいんだ」
その瞬間、クリフの腹が異議を唱えるかのように切なく鳴った。
キルフェは目を丸くして、くすくす笑いはじめた。
「たらふく食べて来たのではなかったのですか?」
「これは……その……」
キルフェはひとしきり笑うと、手にしたナイフでかぼちゃのパイを半分に切り分けた。
「お兄様。わたくしは、おいしい食事を独り占めしたいのではありません。ふたりで分け合いたいのです」
クリフは複雑な気持ちで、差し出された半分のかぼちゃパイを受け取った。
でも、と言いたいのを必死でこらえる。
妹の前で言い出しかねた言葉の続きは、こうだった。
でも、キルフェ。
俺は明日、生きているかどうかもわからないんだよ……。
イエルクの気まぐれしだいで、剣の稽古中に殺されるかもしれない。オスヴィンが癇癪を起して、やはり殺されるかもしれない。そうでなくとも、満足に食べられず、冬を越せないということも考えられる。
そうなったら、キルフェを守ることはもうできないだろう。
そうなってしまう前に、クリフはキルフェにたくさん食べてもらいたかった。
自分で自分を守れる強さを身につけてほしかった。
でもそんなことは、とてもではないが口にはできない。
キルフェは半分になったパイを差し出して、なんの不安もなく幸福そうに微笑んでいる。
ふたりで隠れて食べたパイは甘かったが、どこか苦い味がしてうまく飲み下せなかった。
*
クリフはカーネリアン邸の中庭で目を覚ました。
いつの間にかうたた寝をしてしまったようだ。
夢の中では久しぶりにキルフェに会った。
あのときのことは、本当にあった出来事だ。
独り占めするのではなく、分け合いたい……。
まだ幼いのに空腹を抱えたまま朝から晩まで働かされ、それでもクリフを思ってそう言った彼女の心遣いが切なかった。
せめて素直に優しさを受け取れたらよかったとも思うが、あの頃のクリフは生き抜くことで必死で、自分の命よりも大切なものを持つのが怖かった。
もちろん、それは彼女も同じだっただろう。
でもキルフェは飢えや死を恐れず、クリフに大切なことを教えようとしてくれたのだった。
迷宮街の夜気が体の芯まで沁みている。
使用人に頼んで暖かい茶でも淹れてもらおうか、と考えたその耳に、広間から聞こえてくる賑やかな音楽が届いた。
それで、今日はグレナ・カーネリアンが街の名士たちを招いて音楽会を開いていることを思い出した。
食事会の準備もあるため、使用人たちは忙しいだろう。
あきらめて部屋に戻ろうと腰を浮かしたところに、よそ行きを着たラトがやって来た。
「クリフ君!」
「ラト、どうしたんだ? 音楽会に顔を出すとか言ってなかったか」
「そう。この屋敷の客分として、僕もカーネリアン夫人のお客様たちを楽しませてあげようと思ったんだけどね。夫人が、クリフ君のために特別なお菓子を焼いたから、二人だけでこっそり食べておいでってさ」
それを聞いたクリフは微妙な顔つきになる。
たぶん、カーネリアン夫人がそのように言ったのは、クリフへの思いやりとかではない。ラトを体よく厄介払いしたかっただけに違いないからだ。
「お前、また客の前で死体の話をしたんじゃないのか?」
「いや。今日は三つ首の山羊の話だ」
ラトはクリフが腰かけたベンチに座り、使用人に持たされたと思しきバスケットを開けてみせた。
籠の中には小振りなパイと紅茶が入っている。
パイの中身は、たぶん香りからしてアンズのジャムだろう。
先日、ジェイネルが贈ってきたものだ。
ラトはいそいそとパイを半分に切り分ける。
「でかい方を食っていいぞ、ラト」
「むっ。僕がそんないやしいことをするわけがないじゃないか」
「へえ、そうかい」
クリフはラトが差し出したパイに早速かじりついた。
さっくりとした触感の生地から暖かく熱されたジャムがこぼれ落ちそうになる。
生地の合間に重ねられた果実はたぶん竜人公爵が差し入れた林檎だろう。しっとりした舌触りがパイに合っていた。
「うまいな」
クリフがそうつぶやくと、ラトはにやりと笑ってみせた。
「クリフ君、知らないの? お菓子は独り占めするんじゃなく、半分こにすると美味しさは二倍になるんだよ」
ラトはあたかも自分だけがこの世の真理を知っているかのように尊大な口調で、自慢げに言う。
それから少しばかり思い直した様子で、
「パパ卿はなんでも知ってるんだよ」
と控え目につけ加えたのだった。