番外編 針入れの緋色の星
その針入れは洗濯部屋に置き去りになっていた。
おそらく縫物をしたついでに忘れて行ったのだろう。
小さく平たい針入れだった。
色は明るい青で、蓋は銀製。
しかし青というのもどうやら元はもっと深い別の色で、長い年月をかけて色褪せてしまったもののようだ。
蓋を開けると絵が描いてあり、かろうじて女性の絵が描かれているのが見てとれる。
蓋にはぽっかりと黒い小さな穴が八つ開いている。
女性は背丈ほどもある大きな糸車の前で、椅子に座っていた。
彼は改めて蓋の穴に注目する。
穴の配置は均等ではなく、ジグザグと不均衡な軌跡を描いている。
彼にはそれが何の意味もない配列のようには思えなかった。
おそらく、この穴にはかつて別の役割があったはずだ。
穴の位置には意味があるはずだ。たとえば図形、文字、地形、何かを示す暗号のようなもの……。
しいて言うならば、一番近いのは北の空に浮かぶ星座であった。
一年中北の空に浮かび、時刻を知らせてくれるあまりにも有名な七つ星だ。
だが、蓋に開いている穴は八つ……。
あるはずのない星がひとつある。
彼はその絵や蓋に開いた穴を眺めながら、何事か考えている様子であったが、人の気配を感じ、針入れを手にしたままその場を後にしたのだった。
*
怪盗探偵ことノーヴェの朝は遅い。
毎朝9時頃に起きて遅めの朝食を食べ、それからまた寝台にもぐりこんで二度寝をして、午後に起き出してくるのが日課である。
ずっとそんな調子なので、使用人の誰ももう気にもとめない。
この緋色の髪の美しい少年だか少女だかは、オブシディアン家の別邸で育てられた。
元より美しい子どもであったが、年齢を重ねるごとに緋色の髪と瞳は鮮やかになり輝きをいっそう増していった。
今では深層の美姫がはだしで逃げ出しそうなほどの美貌である。
その出自は様々に噂されたが|《影の貴族》が庇護するとなると、とうてい世間には出せぬいわれのある子どもなのだろうと、家人たちはこの子の存在が決して外には漏れないよう秘密にしていた。
そうした特殊な環境でぬくぬくと暮らしたため、気がつくと、ノーヴェはすっかり昼夜が逆転した生活を送ることになっていたのだ。
「ノーヴェ様、アルタモント様がいらっしゃっておりますよ」
けさもメイドに声をかけられたが、夢の中からの生返事があるのみである。
「わざわざ忙しい時間を縫って来ているというのに、何という様だ」
アルタモントは問答無用で部屋に押し入ると溜息を吐く。
ノーヴェは天蓋つきのベッドの中で、お気に入りのクッションや枕に囲まれ、猫のように丸くなっていた。
「ノーヴェ、起きなさい。出かけるぞ」
揺さぶられ、ノーヴェは柳のような眉をしかめた。
それから、地獄の底から響いてくるような、うらめしげな声が聞こえてくる。
「…………出かけるですって? どこに?」
「君の盗みを謝罪しに行くのだ、ノーヴェ。ペリドット侯爵家から盗みを働いただろう……」
「ああ、そういえば、そんなこともありましたっけね。盗んだものはあそこにまとめてありますから、持ってってくださって構いませんよ」
そう言って、クローゼットの下のあたりに乱雑に放り出された物たちを指さす。
そこには変装に使う服やトリックに用いる何らかの装置など、ありとあらゆるものが山積みになっている。
「君も行くんだ。そして盗んだものを返し、ペリドット侯爵に謝罪をしなさい」
「嫌ですよ、アルタモント卿。わかってらっしゃるでしょう、ボクは陽の高いうちは外を出歩きたくないんです。外に出て、知らない人と会うのがいやだからです」
ノーヴェはいつもこんな調子であった。
ろくに屋敷の外に出ず、誰とも会わない。
いい歳をして、友達のひとりもいない。
使用人たちはアルタモント卿がノーヴェのことを幽閉しているのだと勘違いしているが、それは全くの誤解である。
ノーヴェを幽閉している者がいるとすれば、それは他ならぬノーヴェ自身だ。
それでいて、他の探偵騎士に引けを取らぬアルタモント卿の観察眼によれば、ノーヴェは真夜中になってから使用人の誰にも気取られぬよう出かける癖がある。
誰も歩かぬ屋根の上を歩行し、厳重な警備をかいくぐって貴族の屋敷に忍び込み、隠されている宝物や誰にも言えぬ秘密の類を眺めては、再び誰にも悟られずに帰ってくるのだ。
いまのところはたちの悪い徘徊で済んでいるものの、アルタモント卿が「盗むな」と厳しく言いつけていなければ、とっくの昔に手配書が王国中に回っていたことだろう。
その性質はどうにも矯正できかねるものらしい。
昔は口うるさくもしたが、アルタモント卿も年齢を重ね、怒るよりも諦めの境地に達していた。
「なぜ、知らない人と会うのがいやなんだ?」
いくらか譲歩してきくと、ノーヴェはふてぶてしく答えた。
「……ばかが感染するからです」
アルタモント卿は、桶に入った氷水を思いっきりベッドにぶちまけた。
*
「盗みを働いて……ごめんなさい……」
頭を下げると、馬の尾のようにひとつに結んだ緋色の髪が跳ねた。
場所はペリドット卿のタウンハウス。
なぜか眼鏡をかけてはいるが、使用人によって上着やベストを着せられ、身なりを整えたノーヴェはそれなりにきちんとした貴族の子息に見えた。
だが、表情はムスっとしていて、まったくといっていいほど心のこもらない謝罪の言葉は三文役者の芝居よりもひどい。
その姿を目にしたジェイネルはおかしそうに笑っていた。
「謝ってないねえ。アルタモント卿、君、どういう教育をしたのかな」
「ことこれに関しては面目次第もない」
アルタモント卿は職業柄、いつも眉間に皺を寄せているが、今日はさらにその刻みを深くしていた。
謝罪の場には使用人たちも控えていた。
彼らは普段、ジェイネルの客人に対して何ら感情というものを差し挟まない立場にあるが、ノーヴェの態度にはあまり好感を持たなかったようだ。
さもありなん、彼らはそれぞれの持ち場に不審者の侵入を許し、管理する物品を盗まれ、まんまと逃がしてしまったのだ。
探偵騎士の侍従として教育を受けた使用人たちの誇りは傷ついたままだ。
「ねえ、もういいですか? まったく茶番というものですよお二方。確かにワタシはこの館から盗みをしましたけれど、大したものは盗んでないでしょう。こんなのはペリドット侯爵の財産のうちにも入りませんよ」
「だけどね、ノーヴェ。君は大したことがないと言うが、盗まれたという気持ちは時として人を大きく傷つけることになるんだよ」
ジェイネルの諭すような言葉も響かないようだ。
「おためごかしは結構です、ペリドット卿。ボクが大した思い入れがないと言うからには――――それはまったく《《間違いなくそう》》なんです」
あまりのふてぶてしさに、アルタモント卿はまたもや声を荒げる寸前だった。
常ならば探偵騎士団団長としても、影の貴族としても、決して感情を表に出すことのない人物ではあるが、ことノーヴェに関しては養い親としての立場があるのだろう。
しかしジェイネルはアルタモント卿が感情的になるのを制した。
「まあ、アルタモント。まずは言い分を聞いてみようじゃないか」
「しかし、ジェイネル」
「面白いことが聞けそうな気がするんだ。話してごらん、ノーヴェ」
促され、ノーヴェは嫌そうな顔つきになる。
「心のレガリアを自在に操るペリドット卿に講釈をたれるのはいささか気が引けますが、いいでしょう」
ノーヴェは掌をひらめかせて、盗んだ品々が載せられた卓上から、銀のナイフを選び取った。
そのナイフをテーブルの上のトレイと軽く打ち合わせてみせる。
金属質な音が広間に響く。
続いて、ノーヴェはナイフを頭上に掲げてみせる。
使用人たちはそれを不思議そうな顔つきで見上げていた。
「……なるほど、わかった」
人の心理というものに誰よりも精通したペリドット卿は訳知り顔で頷いてみせたが、アルタモント卿には何のことかわからない。
「なんだ、どういうことなのか私にもわかるように説明しなさい」
「ボクにはペリドット侯爵のように人の感情を操るすべはありません。でも《《物》》のことならわかるのですよ、アルタモント。本当に人に欲されている物というのは欲望を集める器のようなモノなのです」
そう言ってノーヴェは部屋中を歩き回り、若い男の使用人の前で何気なく懐中時計の蓋を開いてみせた。
細やかな金細工、色鮮やかな宝石で彩られた逸品に、いやでも関心がむく。
関心は目線や興奮となって如実に表情に現れる。
もちろん客人の前でなるべく感情を伏せようと努力はしているが、ノーヴェが先ほどナイフを見せたときとは雲泥の差であった。
「ご覧のとおり、この場に古びたナイフを大切に思う方はいらっしゃらないようだ。館に何枚もあるシーツや、何年も手入れされていない毛織物も同様でしょう」
「実に興味深い。君はその技をどこで身に着けたんだね」
「どこででもありませんよペリドット卿。ワタシは自他共に認める人嫌いですから」
ジェイネルはノーヴェの言い分に感心し、アルタモント卿に話しかけた。
「あの力はラトと同じく贈り物だね」
アルタモント卿は深く首肯する。
ノーヴェを探偵騎士団に加えたのは趣味や道楽からではない。
その才能が本物だからこそだ。
しかし、本人にその自覚が無いのが大問題ではあった。
「というワケで、ボクはこの件については謝罪しようという気にはならないのです」
いくら大したものではないからといって「盗みをした」ということには変わりないのだが、ノーヴェはこのような調子で本気の謝罪など望むべくもない。
技術はともかく人格に難がありすぎた。
「ペリドット侯爵、今回の件は誠に申し訳なかった。本人には強く言って聞かせるので、謝罪はまた日を改めさせてほしい」
アルタモント卿がそう言ってノーヴェを連れ帰ろうとしたときだった。
ノーヴェが直立不動のまま動かなくなった。
それこそアルタモントが腕を引っ張ろうが、押そうが、てこでも動かない。
ノーヴェは痩せてみえるが、特殊な身体操作の技法を学んでおり、こうと決めたら絶対にそこを動かないのだ。
「ちょっと待って。謝罪はしないと言いましたが――それはペリドット侯爵に対してだけですよ」
「ノーヴェ?」
「……ペリドット卿、この家のメイドはこれだけですか?」
ジェイネルが頷くと、ノーヴェは居並ぶ四人のメイドたちをまじまじと見つめる。
タウンハウスに仕えるメイドは、ヴィオラ、ミモザ、マーガレット、ローズの四人である。
ヴィオラが一番年配で、ローズが一番若い。マーガレットもまだ十分に若いと言えたが、ローズはそれよりも一回り下だ。
ノーヴェは一番端に立っているローズの前に片膝を突き、紅玉の瞳でまっすぐに見つめる。
そして戸惑うメイドに、掌に小さな針入れを載せて差し出した。
「ペリドット侯爵のタウンハウスで働いた盗みにおいて後悔することがあるとしたら、この針入れを盗んだことのみです。ワタシのおかした重大な過ちです。これはあなたのモノだ」
小さく平たい針入れだった。
色は明るい青で、蓋は銀製である。
蓋をの内側には色褪せて消えかけてはいるものの、かろうじて女性の絵が描かれているのが見てとれる。
蓋には小さいながらも目立つ穴が八つ開いたあの針入れだ。
「あっ、それは……!」
タウンハウスに仕えるメイドのひとり――ローズは、はっとした表情で針入れに手を差し伸べる。
ノーヴェは差し伸べられた手の甲に贖罪の口づけを送り、彼女の両手に針入れをしっかりと持たせてやった。
「こちらの品が見えなくなったことで、あなたはどんなにか悲しまれたことでしょう。事情があってすぐに返して差し上げることができませンでしたが、その間も不安だったことと思います。心からお詫びします、どうかワタシを許してくださいますよう、おかわらしい方」
ローズの頬がほんのりとばら色に染まっているのは、眼鏡の奥の美貌に気を取られたからだったかもしれない。
それからさっと立ち上がると、
「じゃ、ボクはこれで」
そう言ってすたすたと広間を出て行った。
*
タウンハウスの明るい廊下を、ノーヴェはさっさと歩き去ろうとしている。
広間から続いて現れたのは、狐につままれたような顔をしているアルタモント卿とペリドット卿のふたりだ。
アルタモント卿が振り返りもしない背中に声をかける前に、メイドのローズがスカートの裾を掴んで持ち上げ、広間から廊下に走り出してきた。
「お待ちください、ノーヴェ様!」
裾の長いスカートで走ったため、勢いあまって前につんのめったローズを、あやういところでノーヴェが抱き留めた。
「あ、あの、申し訳ありません。わたし、なんてことを……あの、でもこれ。針入れが……」
ローズは恥ずかしさと困惑が入り混じった顔つきで、先ほどノーヴェから返してもらったばかりの針入れを差し出してみせた。
それは、先ほど返却された針入れとはまったく違うものだった。
いや。
大きさや形はそれそのものなのだが、褪せた色は鮮やかな藍色に輝き、蓋の内側で糸を紡ぐ女性の姿もハッキリと見える。
そして何よりも、小さな八つの穴が完全に塞がっている。
しかも穴のそれぞれに照りよく輝く宝石が飾られていたのである。
「さっきまでは古びた針入れだったのに、まるで新品のようなのです。それに、この宝石はぜんぶほんものではありませんか? こんな高価なもの、わたし、受け取れません」
ローズが針入れを差し出す。
ノーヴェは彼女を立たせてやりながら言いにくそうに答えた。
「それは……まちがいなくあなたのものです。何も聞かずに受け取っていただいて構いません」
「それではとても納得のできない話ですわ。何も聞かずに受け取れるような品物でもございません。それに、なぜこの針入れがわたしのものだと分かったのでしょう? ほかにメイドは三人もおりますのに。ぜんぶ説明してくださいますか」
「女性には退屈な話になるかもしれませんよ」
「探偵術の初歩を学んでおります」
「そういえばそうだった」
ローズの真剣な表情に打たれ、ノーヴェはいかにも渋々という調子で話しだす。
「では、針入れがあなたのものだと分かった理由からお話します。この針入れはそもそもが北部にある村の様子を描いた品物で、穴の位置が天の星空を表現しているのです」
ノーヴェは銀の蓋にはめこまれた宝石に触れる。
極小の金剛石が七つと、ひとつは少し大きめの紅玉である。
七つの金剛石を指でなぞると星座の形になった。
いつも変わらずに北の空にあり、旅人や船乗りたちの道しるべになる星座である。
「この点についてはいかがですか?」
「その通りです。でも、なぜ北部の村だと……?」
「糸車の種類でわかります。ここに描かれているのははずみ車がついたかなり大きな糸車です。女性の身長ほどあるでしょうか。これは羊毛を紡ぐための糸車で、羊毛の産地を調べれば使われている場所を絞れます。それから蓋に開いた穴は道具を使ってこじ開けたもの。たぶん宝石を彫り止めしていたのを、無理やり外して売ろうとしたンだと思います。八つの宝石の配置は規則性がないように見えますが、星空だとすると説得力があります。糸紡ぎは寒い冬の夜に行う女性の仕事ですからね」
ノーヴェは紅玉を示した。
「星空は時間をあらわします。ふつう、北の空にはこうした赤い星は無いのですが、歴史を紐解くと二十四年前に一度だけ北の空に赤い不吉な星が流れたそうです。この意匠はその星をあらわしているのでしょう。日付のかわりですよ。銀の蓋だけでも農民が持つには高価すぎるものですから、おそらくは記念品か婚約の品でしょう。しかし農民であっても婚約の品は指輪が一般的ですから、何かの記念品。次に女性の絵を見てみましょう」
再び蓋を開けると、そこにはややふくよかな体つきの女性が椅子に座っている。
「興味深い絵です。——というのも、こうした大きな糸車で糸を紡ぐ際は、立っていなければいけないからです。時には一晩中、立ち続けることもあるそうですよ」
「よくご存知なのですね」
「特上の毛織物というのに一時期興味がありましてね。さて、彼女はあなたのお母さまですね。お腹のなかにあなたがいたので、その年は立って糸を紡ぐことができなかったのでしょう。タウンハウスのメイドの中で、年頃の女性はあなただけです、ローズ。ワタシの推理はまちがっていますか」
「いいえ、あっていますわ……。この針入れは母からの贈り物です」
ローズは針入れの蓋を愛しげに撫でた。
「私の父は若い頃、王都で彫金師の修行をしていたのですけれど、お針子をしていた母と出会い、かけおちしたのです。お互いの雇い主が結婚を許してくれなくて。ふたりは北部の村に流れつき、苦労して、そして私が生まれました。これは私が生まれた記念に父が母に贈ったものです。宝石は……彫金師のならいで、工房からくすねたものを使ったそうです」
「そうしたならいについては存じております。結婚祝いを贈るかわりに、親方は奉公人たちの盗みに気がついても見て見ぬふりをするそうですね。慣習に基づく正当な報酬です」
「ええ。でも、お恥ずかしながら、その後の生活の苦労で宝石をひとつずつ売らねばならず、穴だらけになってしまっていたのです」
「いいえ、恥ずかしいと思う必要など何一つありません」
ノーヴェはその点だけは真剣な顔つきであった。
「赤い流れ星が落ちたあと、北部では家畜に疫病が流行り飢饉が起きたと聞いています。娘を愛するがゆえの苦労でしょう」
「ノーヴェ様は王国の星空を全て記憶していますのね」
「いいえ。アナタの故郷の毛織物がすばらしい出来でなければ、ワタシは興味も持たなかったでしょうし、正直に告白すると……針入れを最初に目にしたときはまるで気がつかなかったのです。なぜ穴が八つなのか? 星座に似ていましたが、北の標星は七つですからね。ですから、この針入れも何ら思い入れのない品だと勘違いをしました。……明らかなミスでした」
ノーヴェは盗んだ瞬間にそのことに気がつけなかったことを悔いているようだが、推理はあまりにも鮮やかであった。
探偵としては無気力でも、盗みに関すること――いままさに盗もうとしている品物を見定める審美眼は確かなのである。
「差し出がましいとは思いましたが、ボクが信頼している職人に頼んで宝石を再び戻し、退色してしまった絵を色鮮やかにさせました。それは間違いなく、あなたの針入れです。盗みのお詫びとして差し上げます」
では、と言ってノーヴェは立ち去ろうとした。
「待って。針入れを偽物からすり替えたトリックをまだ聞いておりませんわ」
ローズは好奇心できらきらと輝く瞳でノーヴェを見つめる。
それと反比例するかのように、ノーヴェは嫌そうな顔になっていく。
「それはまた今度というコトで……ワタシは知らない方と話すのが苦手なんです」
「そんなふうには見えません。理由をおうかがいしても?」
ノーヴェはちらりとアルタモント卿のほうを見る。
機嫌をうかがうようなまなざしだ。
また今朝の「ばかが感染する」が飛び出すと思ったのだろう。アルタモント卿はアルタモント卿で厳しい顔つきをしている。
ノーヴェはため息を吐き、これまで以上にずっと言いにくそうに言葉を紡ぐ。
さきほどまでの自信に満ちた様子がウソに思えるほどだ。
「ボクは……喋り方がちょっとほかの人とはチガウからです。レガリアの強い影響で、どうしても……。だから、本当は、ワタシは人前ではあんまり話したくないのです」
他人を遠ざける眼鏡の下の美貌は、いまはなりをひそめ、行き場のない子どものように頼りなげにみえる。
しかし、口にしたのは偽りのない本心であった。
ノーヴェが自分のことを呼ぶときに二つの呼び方があるのは、それは自分自身では制御できないことなのだ。
「そんなことで」と思わず口走ったアルタモント卿を、二つのまなざしが睨みつけた。
ひとつはジェイネル・ペリドット、もうひとつはローズのものである。
「何を言ってるんだい、アルタモント卿。本人にとっては大問題だよ」とジェイネル。
「ふつう気にすると思いますよ」とローズが小声で訴える。
普通と言うならば使用人は主人の客人に意見をするべきではないのだろうが、あまりにも息子への理解がないことから義侠心に駆られたのだろう。
しかしアルタモント卿にも同情すべき点はある。
日々、影の貴族として様々な事件に立ち向かっているアルタモント卿にとって「悩み」というのは王国を揺るがす規模のものだ。これが解決せねば国が傾くとか、民が飢えるとか、戦争が起きるというのが「悩み」であるので、市井の人々が抱くあたりまえの悩みというものにいまひとつ理解がないのである。
自分の体が思うようにならないということは、国を揺るがすような性質のものではない。
しかし、他人からどう見られるかという問題は若いときほど重大に思えるものであるし、内容によっては一生ついて回るものだ。
ノーヴェのように目立つ容姿だと、ささいな欠点がかえって気になるのだろう。
ローズはノーヴェと向き合うと、年の離れた弟にするように優しく微笑んでみせた。
「ノーヴェ様。大切なのはどのように話すかということよりも、何を伝えるかですわ。さきほど、貴方様はわたくしに、ボロボロの針入れを恥じる必要はないとおっしゃいましたね。両親の愛だから、と。とてもうれしかったのですよ」
「……ボクを許してくださるんですか、ローズ」
「もちろんですわ」
みつめあうふたりを、少し離れたところで探偵騎士たちがそれぞれ別の意味で複雑な表情で見守っている。
「探偵仕事に興味のある娘と探偵騎士。……どこかで見たことのある光景だな」
「君はまた探偵助手になり損ねたかもしれないね、アルタモント卿」
「許さないぞ」
アルタモント卿はおそらく王国の誰も理解できないであろう複雑怪奇で幼稚な嫉妬心にかられていた。
「慰めるようだけども、君はノーヴェといるときが一番探偵助手らしかったよ。君は君の望む以上のものを見つけ出す天才だね」
「その筆頭がお前だった、ジェイネル」
アルタモント卿はジェイネルの横顔をちらりと見つめ、それから過去を思い出していた。
エメリーンという輝かしい女性が、探偵騎士の隣に立っていたときのことだ。
「探偵助手になる前に、父親業について学ぶのはどうだい?」
アルタモントは不服そうにしていたが、やがて諦めたようだった。
時代は否応なく移り変わっていく。
それは風のようなもので、必然と若いものの方に吹きつける。
だれにも引き止めることはできないものだ。
《番外編 針入れの緋色の星——おわり》