第62話 ガンバテーザ要塞の記憶
毒の効果はあまりにも急激に現れた。
凄まじい苦痛の波に揉まれ、数分ほど時間の感覚を失った後、苦しみは去ることがないという絶望に気がつく。その繰り返しだった。
脈をはかると恐ろしい速さだった。
みるみるうちに高熱が出て、もっと高まるという予兆はあっても冷める予感はない。生き急ぐかのような喘鳴が続く。
記憶は飛び飛びになり、再びクリフの意識が戻ったとき、控室にはラトのほかにドラバイト卿とロー・カンの二人組が揃っていた。
三人は難しい顔を突き合わせて話し込んでいる。
ただしレガリアの効果はまだ続いており、ラトは平坦な表情をうかべ平板な声つきで喋っているように聞こえる。
「なぜです? ドラバイトおじさま。どうしてこんな仕打ちをするのですか?」
「それがアルタモント卿の指示だからだ。理解してくれ、ラト」
「毒を調合したのはロー・カンでしょう。解毒剤の用意があるはずです、それをすぐに僕にください」
「相棒を責めないでやってくれ。我々としても悩んだ末にだした結論だ。しかし、もしも奴がガンバテーザで三十人もの王国兵を殺した犯人なのだとしたら、これはぬるい仕打ちだぞ。正式に裁かれて、処罰を受けたとしたら見せしめに拷問を受ける。苦痛は五度では済まない」
「クリフ君がそのように無意味で残虐なことをするとは思えません」
「しかし、奴はガンバテーザ要塞にいたと告白したのだ」
「そうだとしても、殺人とは別問題です」
ラトの声は、耳に分厚い布をかぶせたように遠くで聞こえた。
そのほかの声は大きく聞こえたり、小さく聞こえたり、世界全体が眩暈を起こしているかのようだ。それは毒の影響だろう。
ドラバイト卿は気まずそうにラトから目を逸らした。
また記憶が遠ざかり、戻ってこれたのは三十分後だった。
そばにはラトがいて氷嚢をクリフの額に押し当てていた。
「クリフ君、気分は? もちろん良いわけがないだろうね」
「生殺しだ」と答えただけで、のたうち回りたいくらい喉が痛んだ。
真っ赤になるまで熱された鉄の棒を体の真ん中に通されたかのようだ。
「ロー・カンはサーペンティン医師団の中でも薬を扱う大天才なんだ。性質も効果も異なる複数の薬を組み合わせて、好きな時間に好きな効果を発現させることができる。いつもはそれが患者を救う薬になるが、今回は毒だ。というかまあ、いつも毒なんだけど、普段は良心的に使われているということだね。きみには今、出血毒の影響が強く表れているが、二杯目三杯目を飲めば、その効果がどのように未知の変化を遂げるかわからない」
「俺を不安にさせたいのか?」
「無理はしないほうがいい。体中の粘膜という粘膜から出血するはめになる。まったく、ドラバイトおじさまの一番の功績はロー・カンを探偵騎士助手にして、暗殺者にしなかったことだろうね」
ラトはそう言ったが、実際に毒を盛られたクリフにとってロー・カンは殺し屋でしかない。
しかし発言すると喉が裂けるほど痛むので、黙っているしかなかった。
「僕は限界までおじさまの説得を試みるけれど、でも不可能だった場合、この窮地から逃れるにはアルタモント卿に自分の間違いを認めさせるしかなくなる」
ラトはそこで言葉を区切り、クリフの目を覗き込んだ。
「アルタモント卿の殺人法廷が再び開廷し、次の質問が行われるまでにあと十五分ある。僕の質問に答えてくれるね、誠実に。君は海蛇の年の九月十七日、たしかにガンバテーザ要塞にいたんだよね?」
クリフは熱で朦朧とする頭の中から記憶を呼び起こそうとしていた。
しかしそれは思い出すのに苦労するほど遠い記憶というものでもなかった。
「そうだ」
クリフは答えた。
「海蛇の年というと……」
「迷宮街に来る直前だ」
「どうして」
気のせいでなければ、そして毒のせいでなければ、ラト・クリスタルの「どうして」には責めるような響きがあった。
「たしかに、俺は要塞にいた。三十人の兵士たちとも顔見知りだ。アルタモントのくそばか陰険野郎が言う通り、その全員が死んだ」
「詳しく聞かせてくれ。彼らは何故死んだ? どうして、君はアキシナイト姓を名乗っている?」
「まるで俺が犯人だと責められているみたいだ」
「面白い冗談を言い合いっこしている暇はないんだ、クリフ君。それが確かなら、君は不利な行動ばかりとっている。こうして狭い部屋で向き合っていると出会ったばかりの頃を思い出すね。そして僕は君の行動や振る舞いから、君は元兵士だと推理した」
その出来事をクリフは覚えていた。
クリフがラトと出会ったそのはじまりのことだ。
ラトはクリフの素性を当てようとしたときのこと。ラトはクリフの家族構成を完全に言い当ててみせた。
「そのとき、僕が君は元王国兵だと推理したのは……それなりに根拠があることだ。しかし、なぜなんだ? もしもこれがアルタモント卿なら、君がそう装っていたからだと推理する。だって、彼らの視点からは、犯人がみずからの犯行を隠蔽したかったのだと思えるような行動を君はしているんだ」
ラトが言いたいことを、クリフは理解していた。
「覚えているかい? 君は迷宮街に入る前に装備を一式、売却したはずなんだよ」
その通りだった。
マラカイト博士の事件でも、あれほどまでに周到に事件の細部を探り尽くしていた探偵騎士団のことだ。おそらくきっと、彼らはクリフがガンバテーザ要塞から迷宮街に向かう道中の行動を調べ尽くしているに違いない。
クリフが売り払った装備一式のこともきっと把握している。ひょっとすると実物を手に入れているかもしれない。
その装備からは、クリフがガンバテーザ要塞にいたという証拠しか見つからなかったに違いない。
なぜならそれらの品々は、要塞に詰めていた兵士と全く同じものだからだ。
「だけどもしも君が狡猾な犯人なら、あり得ないミスをひとつした。とんでもないミスだよ。君は剣だけ手元に置いたんだ。どうして?」
「ラト、お前は勘違いをしてる」
「勘違いって?」
「俺はお前が思うほど正しい人間ではなかったってことだ」
「どうして。君はイエルクの血を断ち切りたいと言った」
「ずっとそうだったわけじゃない」
クリフは文字通り血を吐くような思いで、その言葉を口にした。
「砦を出てからずっと、一秒たりとも道を間違うことなく、善人だったわけじゃないんだ」
それはクリフ・アンダリュサイトが砦を出た後のことだった。
家族との関係に嫌気が差して土地を離れたものの、王国のどこにも行く当ては無かった。
路銀はあっという間に底を尽き、生きるためには何でもやらなければならなくなった。騙されもしたが、騙しもした。
かろうじて殺しだけはしないと決めてはいたものの、その頃のクリフは、今ほど悪事を働くことに抵抗はなかった。
彼が所有していたものは自分の体とイエルク仕込みの小賢しい思考と、そしてわずかばかりの暴力だけで、まっとうに働くよりも盗みをし他者を脅して奪い取るほうが楽だった。
そうせねば生きられないという事実が罪の実感を軽くしていた。王国の各地をさ迷えばさ迷うほど人としてのあるべき理想は遠のいていった。
やがてクリフは数人の仲間と組んで強盗を働くようになった。
街中ではやらない。大きな街ではどこでも、ナミル氏のような悪党の元締めがいて縄張り争いがあり、上がりをかっぱらっていってしまう。
自然のなりゆきで山や森に潜んで山賊行為を働くようになった。
狙いは王国の中でもさほど重要ではない位置にある、要塞や砦に物資を運ぶ輜重隊の隊列だ。
けっして大きな拠点は狙わなかった。
兵たちの練度が低く、何よりも数が少ない場所がいい。
その点、ガンバテーザ要塞は格好の獲物だった。
針魔獣の監視などという、あってもなくてもいいような任務を任される兵士たちは、大抵はろくに使えないという理由で他所から回されてきたか、何か問題を起こして左遷された能無しばかり。輜重隊の護衛も数が少なかった。
そのぶん儲けは少ないが、殺しはせずに食い扶持だけを稼ぐにはもってこいの標的だ。
それにクリフにとって王国兵というのはあまり強い存在ではなかった。
立派な武器を持ち鎧を着て腰から剣を提げていたとしても、誰もが同じ、決まり切った型どおりの剣術しか使わない。
クリフからすると動きが手に取るように読みやすく、反対に、アンダリュサイト砦で悪党どもに仕込まれたクリフの剣技は誰にも読まれないという利点があった。
ガンバテーザ要塞の輜重隊を数回襲い、そろそろこの土地を離れて、大きな拠点を狙って一財産作るのもいいかもしれないと思っていた矢先のことだ。
その日もいつも通り、物資を運ぶ荷馬車を止めさせて食料を奪い取ろうとしていた。そのときだった。
荷馬車の幌を開けた仲間がいきなり血を噴いて倒れていくのが見えた。
荷物は食料などではなかった。
武器を持ち、姿を隠していた王国兵だったのだ。
森の中に隠れていた仲間の兵士たちも次々に現れて、クリフたちは瞬く間に完全に包囲されてしまった。
そこまでを回想したところで、クリフは気を失った。
回想しながら事の経緯というものをラトに語ったはずだが朦朧として定かでない。
*
気がつくとクリフは室内にいた。
簡素な部屋だが暖炉があり、火が爆ぜる音がして暖かい。
食べ物のにおいもする。
手足を動かすと体のあちこちが軋んだ。手足は縄で縛られている。
どれくらい時間が経過したのかは定かではないが、仲間たちが死んだことだけは数えていた。
どうしてこんなことになってしまったのか、まるで見当がつかなかった。
山賊行為を取り締まるにしても、食料を奪っていくだけの小悪党には過ぎた戦力だった。
部屋にはほかに男が二人おり、ひとりは机に向かい椅子に座っていた。
もうひとりはその男の部下で、何かしらの報告をしているらしい。
それを聞いていた男は机の上を平手で叩いた。
机の上に積み重なっていた書類がはらりと落ち、クリフの視線がそこに書かれた日付を読み取る。——海蛇の年九月十七日。
「五人も! よりにもよって、無関係の山賊に五人もやられたというのか!」
「はい……。ですが、他の二人は無傷で対処できたのです。それに、幸いなことに、誰も死んではいません」
「当たり前だ! 大の大人が子供相手に情けないったらない!」
「ですが、セヴェルギン隊長」
「ですが、なんだ。その五人は明日になったら自然と立ち上がって一人前の仕事ができるようになるというのか!?」
セヴェルギンと呼ばれた男は机の上で頭を抱えて呻いていた。
クリフにとっては大人の男がそうやって怒鳴り散らす声を聞くのは不快でしかなかった。父親であるオスヴィンが時折、気が狂ったように怒鳴り散らしていたのを思い出すからだ。
だがセヴェルギンのそれは父親の癇癪とは様子が違った。
気まずい沈黙の後、彼は顔を上げた。
いかにも頑固そうな四角張った顔つきは皺だらけで、薄くなった頭髪はすべて白髪だった。
彼は額に手を当てて、まだ悩まし気な顔つきだったが、怒りは消えている。
適切に押さえこまれているといったほうが正しいか。
「……もういい。今日は下がってくれ。長時間の移動でみんな疲れただろう。私も疲れた。緊張もしていたかもしれないな。こんなことで声を荒げるなんてどうかしていた、許してくれ。その五人は明日にも、近くの街まで送り返そう」
「いいんですよ。後で暖かい紅茶をお持ちいたします」
「頼む」
二人のやり取りには、けして表面的ではない信頼関係のようなものがあった。
セヴェルギンだけでなく、部下のほうも、上司がなぜ声を荒げたかすっかりわかっているというようなふうだ。
そこには《許し》があった。
それはクリフにとってはほんの少しだけ新しい発見をもたらした。
自分よりも立場が下の人間が《許し》てもよいということと、《許された》からといって、さらなる癇癪をぶつける――殴るとか、蹴るとか――ことは必ずしも必要ないということだ。
それはアンダリュサイト砦では想像もできなかったようなことだ。
先にも言ったとおり、クリフの父、オスヴィンは些細なことでひどい癇癪を起した。それが完全に自分の間違いであってもそれを認めることはなかったし、それ以上に許されることを嫌った。
許すというのは目上の人間がやることで、オスヴィンにとってはプライドを足蹴にされて、虚仮にされたのと同じ意味だったからだ。
部下が行ってしまうと、セヴェルギンは机の上に置かれたトレイを手にして、クリフのほうにやって来た。
「目が覚めたか。いろいろ文句もあるだろうが、一時休戦といこうじゃないか。腹が減っているだろう、これを食べなさい」
クリフはトレイめがけて体を跳ね上げ、セヴェルギンに勢いよく頭突きをした。
そのすきに両手の拘束を解いて逃げ出そうとするが、セヴェルギンも負けじと追い縋ってくる。
「待てい!!」
しかえしとばかりにセヴェルギンの頭突きが飛んできて、激しいもみ合いになった。
そして騒ぎを聞きつけたセヴェルギンの部下たちが駆け付けたとき、クリフは彼らの隊長に馬乗りになって拳を固め、ぼこぼこに殴りつけている真っ最中であった。
セヴェルギンは顔を真っ赤にしながら怒っているが、全く相手になっていない。
部下たちはそれを見て止めるどころか、にこやかに笑いはじめた。
「おい見ろよ、隊長がまた負けているぞ!」
「毎度毎度、懲りないなあ、うちの隊長は……」
「がんばれ、隊長」
「もっと腰を入れろ!」
中には乱闘を煽り立てるようなことを言うまでいた。
しかし和やかなムードも、クリフが火かき棒を手にするまでのことだった。
むしろなぜそれまでがなぜ和気あいあいとした雰囲気だったのか全く理解できないまま、クリフはまた兵士たちに取り押さえられた。
さすがにクリフを拘束するものは鉄の手枷になり、納屋の軒先に繋がれることになった。
部隊長に手を出したのだから、明日の朝にも処刑になるだろう。
そう覚悟を決めた。
しかし、処刑の時はいつまでも訪れなかった。
それどころか朝になるとセヴェルギンの副官だという人物がやってきて、朝食を置いて行った。午後になると軍医が足早にやってきて、傷の手当をするではないか。さらに夜になると名前も知らない下士官がやって来てクリフに声をかけ、使い古しの毛布をくれた。
二日間、クリフは殺されることもなく、飢えることもなく納屋の前で過ごした。
その後、クリフは副官の男に連れられて、要塞の中庭の隅にやって来た。
そこでセヴェルギンに再会した。
クリフに殴られた顔はまだ腫れており、大きな痣になっていた。
熱いシチューをかけられた頬から首にかけては火傷になってしまったようで、分厚いガーゼを包帯で巻いた痛々しい姿だ。
セヴェルギンの足下には小さな盛り土が二つあり、それぞれに大きな石が置かれ、野の花が添えられていた。
「手を合わせたまえ」
彼は、負傷のせいでいかにも喋りにくそうな口調でそう言った。
「なんで俺がそんなことをしなくちゃならないんだ。なんだこれは?」
「見てわからんのか。ここに、お前の仲間たちを埋葬したのだ。我々は事情があって、任務が終わるまではこの要塞を離れることができない。彼らを故郷に連れ帰り正式に葬ることはできないが、心ばかりのことはさせてもらった」
クリフは即席の墓石を見つめながら、二人の顔を思い出そうとしたが、それは不可能だった。
「名前も知らねえよ、あんなやつら……。だいたい、俺たちは悪党だ。どこで野垂れ死んだとしても、あんたらには関係ない。野晒しにでもなんでもすればよかったんだ」
「それではあまりにも心が痛むというものだ。たとえ墓碑に刻む名がなくとも畜生ではなかろう。私たちも、そして君もだ」
セヴェルギンは墓の前に屈んで両手を合わせ、まじめな表情で祈りを捧げた。
「女神よ、死の穢れを負いしものたちにも恵みを与えたもう……。王国に仕える立場としてお前たちの所業を見逃すことはできなかったが、うらみはない。安らかに眠るがいい」
なぜそれほどまでに真剣に祈るのか、クリフには理解できなかった。
クリフたちは山賊だ。どうしようもない小悪党で、死んだところで誰が心を痛めることもない存在だ。とくにセヴェルギンたち王国兵にとっては、やるかやられるかの間柄でしかなかったはずだ。
その後、隊長は隊舎に戻って行き、クリフも納屋に繋ぎ直された。
クリフの元には、ひっきりなしに兵士たちがやって来た。
最初はてっきり鎖に繋がれている者をあざ笑いに来たのではないかと身構えたが、どうも様子が違う。
「よう、クリフ。体調はどうだ? 夜は寒いんじゃないか?」
「おまえ、けっこう強いんだってな」
セヴェルギンの部下たちはほがらかで気のいい連中ばかりだった。
兵士たちはクリフに暴力を振るうこともなければ、罵ることもなかった。もちろん、隊長を殴ったことについての報復もない。
副官が着替えを持ってやって来たとき、クリフはこの立ち場にたまりかねて思わず訊ねた。
「どうして俺を殺さないんだ?」
彼はサヴィアスという名前の兵士だった。
背が低くて手足が短く顔もジャガイモのようなセヴェルギンとは何もかもが対照的な男で、顔には大きく一文字の傷があり全身から歴戦の風格を放っていた。セヴェルギンとサヴィアスを見比べたら、百人が百人とも何故この男が隊長ではないのかと疑問に思うくらいの差があった。
サヴィアスはまるでその台詞を聞きたかったのだと言わんばかりである。
「うちの隊長はな、クリフ。絶対に子供は殺さないんだよ」
「俺が子供か? とっくの昔に成人してるぞ」
「それでも子供は子供だ」
「剣を持ってりゃ、子供だって大人を殺せるだろう」
「そうだな。けどお前はなんだかんだ殺しはしなかったし……。隊長は、お前みたいなやつを見捨てられない性分なんだ」
「俺みたいなやつ?」
「そうだ。どこにも行くあてがなく、悪事を働くことしか生きていく術がないような俺たち全員みたいなやつらだ」
そう言いながら、サヴィアスはほがらかに笑っていた。
クリフの態度がおかしくてしょうがないというふうに。
「いいか、クリフ。うちの部隊はみんな同じなんだよ。出身はいろいろだが、裏社会のやつらの使い走りをやらされたり、お前みたいに盗みを働いたり……セヴェルギン隊長はそういうろくでなしを見かけると連れてきちまうんだ。そして自分の部隊に入れて、どうにか性根を叩き直して、王国兵として育てようとする。——中には、バカをやって方々に手配書が回っていたやつもいるが、セヴェルギン隊長がいろんなところに頭を下げまくって、どうにかとりなしてくれたんだ。そういう悪も今じゃ訓練を積んで立派な王国兵のひとりってわけだ」
過去を懐かしむような口調だった。その話しぶりからするとおそらく、その回状持ちとやらがサヴィアスのことなのだろう。
「セヴェルギンはなんでそんなことをするんだ?」
「さあな。理由はわからないが、とにかくそういうお人柄なんだよ。だから、まあ気にするな。隊長をぶん殴ったやつだってお前がはじめてじゃない。できればもう暴れないでくれると助かるけどな。お前がやっちまった五人は後方に戻すしかなかった……。うちの部隊はいま、これ以上に人手を減らされると困るんだ」
サヴィアスはクリフの手枷の鍵を外した。
重たい枷が地面に転がり落ちるのを、クリフは呆然として見つめていた。
足枷はそのままだったが、死ぬまで二度と外れることはないだろう重石だと思っていただけに、解放された驚きはひとしおであった。
サヴィアスが言った通り、クリフは殺されることはなかった。
それどころか、腹が減ったなと思えば、誰かが食事を届けに来た。
喉が渇いたと思えば、また別の誰かが水を汲んで来てくれた。
これまで泥水を啜るように生きて来たクリフに差し出されたのは、無色透明の透き通った水で満たされた器だった。
それを見ていると、クリフは心に感情が湧き上がってくるのを感じた。
彼はいままでそのように扱われたことは一度もなかった。
アンダリュサイト砦を出た後はおろか、出る前もそうだ。
なんの見返りもなく、恐れられることも嫌われることもなく、必要とする一杯の水を差し出されるという経験をしたことが、そのようにささやかなことはこれまで一度もなかったと思えたのだ。
だけどほんとうに……。
ほんとうにそうだろうか。
見つめている器の影が不意にぶれる。
物事の輪郭の影が二重に重なって見えた。
それは錯覚や眩暈のために現れた幻覚のたぐいではなかった。現実に、確かな質感を伴って、器は二つに分裂したのだ。
クリフは急速に、ガンバテーザ要塞から別の場所へと引き戻された。
杯が冷たいテーブルの上に二つあるのが見えた。
目の前に石でできた黒と白の小さな杯が置かれている。
中に満たされているのは透明で、恐ろしいまでに無味の液体だった。
それをクリフに差し出している者の姿は、石壁に囲まれた部屋の中には無い。
向かいにはラトが座っており、室内にアルタモント卿の声が響いている。
「セヴェルギン・アキシナイト隊長はガンバテーザ要塞に向かう道中、部隊を安全に要塞へと派遣するために、略奪を働いていた山賊の討伐を行った。事前の調査では、山賊は五名から六名いると思われていたが、実際はそれよりもはるかに少なかった。山賊たちは討伐されたが、そのうちの一名のみがセヴェルギン隊長の慈悲によって生かされた。このときに負傷し、近在の街まで送り返された兵士たちが証言したところによると、生き残ったのは赤毛の少年だったそうだ。それがクリフ君、君だね?」
「答える必要はないよクリフ君。アルタモント卿、それはガンバテーザ三十人殺しとは直接の関りがなく、被告人を不利にするためだけの質問です。卑怯ですよ」
「君は弁護人じゃないと何度言ったらわかるのかな、ラト」
「――クリフ君、僕に毒の杯を渡すんだ。次の杯を飲み干せば、君はいまよりもさらに苦しむことになる。しかも質問がまだ三題も残されていることから、中枢神経系に作用したり記憶を曖昧にする薬効は現れない。つまり意識ははっきりしたまま、楽には死ねないということで、君にとっては絶望に満ちた予報だが……裏を返すと僕が飲んだとしても問題ないということでもある」
ラトはアルタモント卿を無視してそう言った。
ラトが本当に弁護人で、これが普通の裁判なのだとしたら、これほど心強いことはないだろう。でもそうではなかった。
「質問だ。クリフ君。君がセヴェルギン隊長に捕まった際、共にいた山賊の数は何人だ? 二人なら白の杯、三人なら黒の杯を飲み干すがいい」
「僕が杯を選びます、アルタモント卿!」
「いまの君に何ができるのかな、ラト。レガリアの効果によって君に備わったすばらしい才能は失われた。今の君にはクリフ君の反応から、正しい答えを導き出す観察力はないんだよ」
ラトはクリフを正面から見つめる。
「正しいほうの杯を僕に渡せ」
噛んで含めるような口調であった。
「俺の仲間は二人だった。どちらもセヴェルギンの部隊に殺された」
クリフは白い杯を手に取り、ためらうことなく飲み干した。
二杯目の毒の杯は、いとも簡単に空になった。
「どうして……」
ラトが呟くように言った。