第50話 円卓からの挑戦状
その頃、名探偵ラト・クリスタルは多忙を極めていた。
謎がない、退屈だとくだをまいては怪しげな遊びに耽っていたあの頃のことがまるで嘘だったかのように、連日、事の大小を問わず、摩訶不思議な事件が飛び込んできてはラト・クリスタルの手を煩わせたのだ。
それはつまり迷宮街のあちこちで珍妙怪奇な事件が巻き起こっていたということでもある。迷宮の外にも関わらず死者が蘇っただとか、死んだ馬が引く不気味な火のついた馬車が走り去るのを目撃したという者もあらわれた。
そうした怪しげな話がカーネリアン邸へと持ち込まれる度にラトは迷宮街を東西奔走し、少なからずクリフ・アキシナイトをも右往左往させたのだった。
様々な事件の中でも特筆すべき事件は、迷宮街でも指折りの名医が研究用に用意させた遺体が、恐るべき殺人によってもたらされた遺体だったという『騒がしい墓守人事件』であろう。そこでもラトは事件の真相をたちまちに暴いてみせ、小金欲しさに故意に殺人をおかした犯人へ、それがいかに人倫を乱し、法に背く行いかを切々と説いてみせたわけだが、それを聞きながらクリフは「お前が言うか」という言葉を三十回ほど飲み込まなければならなかった。
かくしてラト・クリスタルは『迷宮街一の狂人』という名声を盤石のものにし、迷宮街の人々は「カーネリアン邸に住んでいる客人を見かけたら物陰に隠れろ」「いや、姿が見えてからでは遅い」と口々に噂をしあったという。
意外なことに、ラトは迷宮街に謎が溢れかえっている状況を喜ばしいものとしては迎えていなかった。
それはほとんどの謎が知的探求からは程遠い単純明快な結末を迎えたというのが理由の大部分で、また、そのときラト・クリスタルの明晰な頭脳には別の関心事があり、些末な謎に関わるよりは、そちらに取り掛かりたいという願いもあった。
だからこそその夜、ある厄介な事件を片付けたラト・クリスタルは「今日こそは」と意気込んでカーネリアン邸に帰還した。
そのとき、クリフ・アキシナイトはカーネリアン邸の娯楽室にいた。
そして屋敷の執事であるモーリスや侍女長のアンナとともにカードゲームに興じていた。
本来なら屋敷の主人をさしおいて、屋敷に仕える身分の彼らが娯楽室で賭け事に興じるなどあってはならないことだが、客分であるクリフに誘われたのであれば面目も立つし多少のはめも外れる。
いつの間にか酒の瓶も空き、賭けの場はなごやかで楽しい夜の雰囲気に包まれていた。
ラトはそんな空気を切り裂いて現れ、血走った目で三人を見回した。
「どうしたんだ、ラト。流石だな、隣村で今年の春に生まれた子豚がいつの間にか一頭増えていたとかいう謎はもう解けたのか?」
クリフがそう言うと、モーリスと侍女長は酒の助けもあって、いかにも笑いを堪えきれないという顔つきになった。
「もちろんだともクリフくん。これまで僕が事件を解決しきれなかったことがあったかい? 君たちはバカにするが、今回の事件については興味深く意外な結末を得られたよ。子豚は巷を騒がしていた凶悪な連続強盗事件とかかわりがあり――まあそれは後で説明するとして、ふたりとも、外してもらえるかな。モーリス、アンナ。どのみち賭けは君たちの負けだ」
そう言うと、モーリスは心外だ、というような表情を浮かべた。
「残念だが、モーリス、君はいい手が来ると右手で右のこめかみを触る癖がある」
ラトがそう言うと、モーリスはビックリして、先ほどからしきりに顔を触っていた右手を引っ込めた。
「そもそもこの面子じゃ賭けは成立しない。アンナはモーリスが無意識のうちに出すサインのことを知っているけれど、自分にいい手札が来ても必ず捨てるからね。怪しまれないようワンペアかツーペアを手元に残す程度にするだろう。何故なら彼女がここにいるのは、昔、一度だけの過ちをおかした紳士と再び元のような関係になれないか探っているからだ。やけぼっくいに火がつくんじゃないかとね。その証拠にボディタッチがやけに多い」
アンナは全身を強張らせた。そして、気まずそうな顔つきで、モーリスの左肘に触れていた手を引っ込めた。
モーリスは驚愕の表情でアンナの横顔をまじまじと見つめている。
ラトが言うことが確かならば、ふたりとも老いらくの恋と言っていいような年頃である。そこには燃え上がるような恋心があるというよりは、なんとも言えない気まずさが漂うのだろう。
ラトは手にしたステッキを揺らしながら賭けのテーブルを一周すると、クリフの隣で立ち止まり、彼の右手を掴んだ。
「それから君たちが負けると予見した決め手がもうひとつ。クリフ君はかならず勝つ。それは彼がズルをしているからだ」
ラトは彼の袖口から一枚カードを抜くと、三人の面前に投げ捨てた。
ハートのエースが表になると、とうとう執事と侍女長の二人はそれぞれに「興ざめだ」という表情を浮かべて、娯楽室から出て行ってしまった。
「…………俺はカードの仕込みなんてしてないぞ、ラト」
「知ってる。このカードはモーリスとアンナが驚いて気を逸らした瞬間に僕が山札から抜いたカードだ」
「なんでそんなことを?」
「それより僕に言わないといけないことがあるんじゃないのかな、クリフくん」
「何をだ?」
呑気な表情を浮かべているクリフにかっとなったのだろう。
ラトは思いっきり机を叩いた。
「君はバカだ。正真正銘の大馬鹿者だ、クリフ・アキシナイト! なぜカーネリアン夫人の申し出を断った!? あれが無ければ今頃君は、エストレイ・カーネリアンの後継者として迷宮街に君臨していたことだろう!」
ラトは熱弁を振るう。
そのラトの姿を見つめながら、クリフは何とも言えない笑みを浮かべていた。
確かに、クリフはエストレイが残した遺産を受け継がせたいというカーネリアン夫人の申し出を断った。カーネリアン夫人からはそれでもなお「待つ」という返事があったが、それからしばらく経っても、クリフは決断することができなかったのだ。
「君がイエルクの血を憎んでいることは知っている! だが、君はそれを捨て去ろうとしていたじゃないか! だったら、なおさら遺産を受け取るべきだ。確かに今の君は偉大な英雄という立場にはふさわしくないかもしれない。しかし未来の英雄たる資格を得るために必要なのは現在の努力だ! そうとは思わないのかね!?」
悪人をうんざりさせ、市井の人々の眉をひそめさせる鋭い弁舌が披露される。
その語り口に熱が入れば入るほど、クリフの笑みは深くなった。
彼はラトを直視することをせず、顔を片手で覆って肩を揺らしていた。
「何がおかしいんだ、クリフ君! それともそれは自嘲か!?」
「鏡を見てみろ、鏡を。そんな姿で何を言ったって、大道芸人がわめいているようにしかみえないぞ」
ラトは娯楽室の鏡に自分の姿をうつした。
そこには、緑色の苔のような植物に全身が覆われ、頭に小さな花々を散らしたラト・クリスタルの姿があった。
どうやら豚小屋を見張るため、そのような格好をしていたようだ。
たしかにその緑色の魔物のような姿で熱弁を振るったとしても、おかしみ以外の感情を誘うことはできない。
それをラトも悟ったのだろう。
「……着替えてくる」
と言ったきり、疲れた顔で自室にひっこんで戻ってくることはなかった。
しかし、そうは言ったものの、クリフもラトの言い分には一理あると思っていた。
カーネリアン夫人がクリフに息子の財産を譲りたいと言いだしたことは、青天の霹靂であり、またとない僥倖でもあった。
エストレイの遺産。その武器や鎧、そしてレガリアがあれば、クリフはこれまでのような日銭を稼ぐだけの暮らしから脱出できる。それだけでなく、明日からでも英雄譚のような冒険物語を紡ぐことだって夢ではない。またとない人生の転機であった。
それに何より、女神レガリアを守るために若くして亡くなったエストレイの遺志を受け継ぐという行為は、イエルクの血の業から逃れるというクリフの悲願を叶える、そのひとつのかたちでもあるだろう。
ラトはやることなすことすべてが頓珍漢にみえるものの、しかし、クリフに対しては一種の友情のようなものを感じているようだ。
クリフが望んでいない形ではあるが――アンダリュサイト砦での一件もしかり、彼は彼なりにクリフのことを真剣に考えて、まじめに心配をしているのだ。
やり方はいつも悪いが、だが気持ちは本物だ。
それなのに茶化そうとした自分が小さく思えて、クリフは気持ちを落ち着けてみることにした。それから娯楽室を出て、ラトの部屋に向かった。
「ラト、いるか? さっきの態度は大人気なかったよな。謝るよ。それから少し話したいことがあるんだ」
扉を軽く叩いて名前を呼ぶが、返事がない。
意気地のない自分の態度に怒っているのだろうと思い、改めてクリフは自分自身に落胆した。
「わかった。じゃあ、そのままでいいから話を聞いてくれ。カーネリアン夫人の申し出のことなんだが……自分でも情けないとは思うんだが、結論を出すのはもう少し先にしたいと考えているんだ。確かに俺にとってはまたとないチャンスだし、これを逃す手はないとは思う。グレナ夫人から受けた恩に応えたい気持ちももちろんある」
しかし、それでも首を縦には振れない理由が、クリフのなかにもあった。
「だが、俺がイエルクと決別したいという感情は、エストレイの遺志とは別のものだと思う。それは俺自身が向き合うべきことで、カーネリアン家の人々を巻き込んで利用するのは違うと思うんだ。だから、この件については時間をくれ」
返事はなかった。
ラトなりに何か考えてくれているのかもしれないと思い、その場を立ち去ろうとしたときだった。
そのとき、物凄い勢いで扉が開け放たれた。
「いでっ!!」
「モーリス! モーリスはいるか!」
顔面を強打してうずくまるクリフ。
部屋を飛び出してきたラトは、けたたましく使用人を呼ぶためのベルを鳴らした。
その姿は先ほどの苔姿で、頭には野の花とともに、ふかふかの白い羽が加わっている。
血相を変え、慌ててやって来たモーリスは、何故か上着を脱いでいたが、それはともかく、ラトの部屋をみて唖然とした表情になった。
クリフも同じものを見て似たような表情になった。
ラトの部屋は大きく窓が開かれて、そして羽根枕に使われている鳥の羽がそこらじゅうに舞い散っていた。では枕はどうなっているかというと、それは無残にも切り裂かれた状態で寝台の上にあり、短剣が突き刺さっていた。
「モーリス、君は今日、僕の部屋に手紙を届けたかね?」
「いいえ、本日はクリフ様にもラト様にも手紙は届いておりませんでした」
「枕元にこれが添えてあった」
ラトの手のなかには二通の手紙があった。
一通の手紙の封蝋に押された刻印には、クリフも見覚えがあった。
それはペリドット侯爵家の家紋であった。二通のうちの一通はラトの父親、ジェイネル・ペリドットからの通信であることは間違いない。
そしてもう一通は、宛名はなく、差出人もない、不気味な、血のように赤い封筒に入れられていた。
封蝋に押されている印は、なんと王家のものである。
「ラト、その手紙は何なんだ?」
「これは円卓からの召喚状だよ。クリフくん」
「なんだって――?」
円卓、王家の刻印、そのふたつが組み合わせが示すところはひとつしかない。
円卓騎士団だ。
それは王国を代表するといって過言ではない、この国で最強の戦力の旗印である。
「え、円卓ってまさか、国王陛下に仕える近衛騎士たちのうちから、最強の十二名のみが選ばれるという、あの……!?」
「その通りだ。よく知っていたねクリフくん。彼らは王家を守る使命を負い、王国屈指の強靭な精神力と崇高な正義感、類まれな観察眼とひらめきを持ち、そして抜きんでた知性を備えた天才集団だ」
「……ん?」
クリフは痛む額をさすりながら、強い違和感に襲われていた。
噂に名高い円卓騎士は相当の武闘派集団のはずだが、ラトの説明には武闘派らしい単語が一切出てこない。たとえば、力とか剛腕とかそのような単語だ。
「この手紙は円卓から僕に向けられた挑戦状だ。彼ら――つまり《探偵騎士団》からのね」
探偵騎士団。
クリフはその単語を頭の中でよく噛み砕いて咀嚼してみたが、それは嚙みちぎれない固い肉のようにどうにも飲み下せない違和感のかたまりとなっていく。
「……はぁ?」
ラトは「これは大変なことだ」と身震いをしていたが、クリフには全く理解ができない。
探偵騎士ってなんなのだろう?
クリフはモーリスに疑問に満ちた視線を送ったが、モーリスもさっぱりわからないという顔である。だが、ふたりともに共通して言えることは、その謎めいた存在に対する興味はさほどないということだった。クリフは探偵騎士という胡乱な響きの単語の正体よりも、モーリスの首筋についた見覚えのある口紅の色のほうが気になって仕方がないくらいだった。