第45話 覆面の男・下
「あなたとは是非とも直接話したいと思っていました。常勝不敗……つまり、いちども負けたことがないというのは本当ですか」
「そのとおりだ」
「なぜ覆面をつけているのですか?」
「もともと俺には双子の弟がいた。店が覆面兄弟として売り出したんだ」
ラトはふしぎそうに首を傾げた。
「覆面をつけると、何かしら成績が上がったりするのかな」
「素顔がわからないほうが、謎めいた雰囲気になるんじゃないか?」
クリフは適当に答える。
「弟さんはいまどこに?」
「練習中の事故で死んでしまった。よければ俺の部屋で話そう」
ヴィクトリアスは練習場を出て、上の階にある私室に移動した。
この建物はもともと店の拳闘士たちの寮となっているらしい。
「ずいぶん立派な建物ですね」
「昔はボロボロだったのを、直したんだ」
「ナミル氏がですか?」
ヴィクトリアスは首を横に振った。
最上階にあるヴィクトリアスの部屋は、事件の起きた控室とは違い、ごく質素なものだった。壁には細やかな刺繍が施されたタペストリーがかかっており、それが唯一の装飾といってよかった。
ヴィクトリアスは初対面の印象を全く変えなかった。
店では不敗の男だとか呼ばれ、相当の金額を稼いでいるだろうに、本人に驕りたかぶったところはない。
その巨体のことを考えなければ、暴力とは無縁のような穏やかさだ。
ヴィクトリアスはラトとクリフを手ずから入れた紅茶でもてなした。飲んだことのない味わいで、渋く野性的な香りが漂う。
「俺達兄弟が迷宮街にやってきたのは二十年前、まだ若く、図体がでかいばかりの俺達を拾ってくれたナミル氏や支配人には返しても返しきれない恩がある」
「しかし弟さんにとっては、受けたのは恩ばかりでもなかったようですね」
「その通りだ。兄ヴィクトリアスと弟ゴッドフリーの、フェニックス兄弟……。仰々しい通り名に改めて拳闘士になったのはいいものの、俺達には埋められない実力の差があった。はっきり言って、弟には戦いの才能が無かった。試合に出れば出るだけ勝ち続ける兄と、鳴かず飛ばずの弟。そのあまりの落差に覆面兄弟として売りに出したことを支配人も後悔していたほどだ」
「才能に満ちた兄に不出来な弟。神話の時代からよくあることですね」
ヴィクトリアスはあいまいに頷いた。
「それに当時は、拳闘士の待遇は今ほど良くなかった。訓練をすることもなく、いきなり店のリングに放り込まれて、殴りあう。怪我をして人気がなくなれば、それきりだった」
「弟さんはその運命をたどったのですね」
「少し違う。弟を殺したのは俺だ」
いきなりの罪の告白にクリフは面食らった。
「あの頃の弟は追い詰められていた。拳闘士として人気が出ず、店も奴を切ろうとしていた。焦ったんだろう……。弟は起死回生のために俺と戦いたいと言ってきた。……そして、その頃の俺は拳闘士として人気になり、有頂天になっていた。俺ほど強い男はほかにはいないと。正直に言うと、試合に勝てない弟のことを疎《うと》ましく思っていたところもある。試合の最中にむしょうに腹が立ち、興奮して我を失い、気がついたら……」
ヴィクトリアスは客の見ている前で、実の弟を殴り殺してしまったのである。
その結末は、もしかすると今回の事件よりも悲惨なものだったかもしれない。
何しろリングに横たわっていたのは血の繋がった弟なのだから。
「それからどうなったのですか?」
「お前たちもナミル氏に雇われているんだ、わかるだろう……」
その後の顛末など言葉にしなくても明らかだ。これは普通の事故ではない。裏社会に属するナミル氏の縄張りで起きたことだ。
しかもヴィクトリアス氏は人気絶頂の拳闘士である。
ナミル氏や支配人が素直に衛兵隊に売れっ子を差し出すわけがない。
誰もが口をつぐんだ。弟の死はなかったことになったのだ。
「さすがに俺も反省し、それからは傲慢な考えをあらためた。そして、拳闘士たちのためにこの練習場を作ったんだ」
どうやら寮を建て直したのはヴィクトリアスだったようだ。
拳闘の技術を磨く場ができれば、拳闘士たちも故障が減る。弟のような存在を二度と作り出すまいとしてのことだった。
「あなたなりの罪滅ぼしというわけですね」
「そうだ。それから、これは支配人たちには黙っていてほしいんだが、拳闘で稼いだ金を新入りに分配している。故障し、負けが続いて思うように稼げない拳闘士たちにもだ」
「ふむ……」
「金を分配するようになってから拳闘場はずいぶん変わった。ナミル氏や支配人は野蛮な戦いを求めているが、俺たちは人間なんだ。誰かれかまわず暴力を振るう獣ではない。だからデュマンを殺す理由は俺たちにはない。デュマンを殺した奴がいたとすれば、それは外部の人間だ。短絡的に考えないでもらいたい」
ラトは頷いてみせた。弟の死については深く追求するつもりはないらしい。
それから、唐突にこう訊ねた。
「ところで、あなたの出身はアパタオ村ではありませんか?」
ヴィクトリアスは突然の問いかけにしばらく言葉を失った。
「いや、私の出身地はもっと西だ。テクトスのあたりにある」
「そうですか、それは失礼しました」
出身地当てはラトの得意技だが、どうやら外れることもあるらしい。
ラトは不思議そうに首を傾げている。
「よければ、またお話を聞かせてください」
「ああ、なんでも協力する。ナミル氏には逆らえない」
「なんでも! でしたらひとつだけお願いしたいことがあるんですが」
ラトの瞳がきらりと輝く。
これまで大人しくしていたラトの、悪い虫が騒ぎはじめたようだった。
「おい、ラト、また滅茶苦茶なことを言いだすつもりじゃないだろうな」
「そんな、滅茶苦茶だなんて。ささやかなお願いだよ、大したことじゃない。だって、ヴィクトリアス氏がみずから何でもするって言っているんだから」
「ラト……。一応言っておくが、彼が怒り出したら俺は止められないぞ。相手をよくみて考えて発言してくれ。実力者だ」
「え? そうだろうか?」
「ああ、そうだ。確かに剣はあるが、街を抜け出す前にナミル氏が俺達を捕らえ、四肢をちょん切って塩漬けにするだろうことを考えてみてくれ」
「心配ない。本当にちょっとしたお願いだから」
ヴィクトリアス氏も薄気味悪いものを感じたのか居心地が悪そうにしている。
そして、ラトの口から、思った通りの言葉が飛び出した。
「では、ヴィクトリアス氏。今、お召しになっておられるガウンを脱いで頂けますか? 裸になって頂きたいのです」
クリフは真っ青になった。
もしもこれが筋骨隆々としたヴィクトリアス氏ではなく、相手が女性であったら、何もかもが破綻していただろう。かろうじてヴィクトリアス氏の前だったからよかったものの、しかし大した失礼だということに変わりはない。
塩漬けの運命がちらりと見え隠れしているようだ。
そのとき部屋に男が入ってきた。
灰色の髪と髭を生やした男で、ヴィクトリアス氏ほどではないがかなり大きい。
確かブルーノという名前で店のナンバー2だったはずだ。
タイミングからして部屋の外で会話をうかがっていたに違いない。
「ナミル氏に伝えてくれ、デュマンを殺したのは俺だ」
ブルーノはそう言った。
クリフは虚を突かれてぼうっとし、ラトはというと何とも言えない笑みを浮かべていた。ソファの上で組んだ両脚の上に膝を置き、両手を合わせて、瞳だけをブルーノに向けている。
「それは確かな証言ですか?」
「俺は昨日の試合で負けた。むかっ腹が立って、デュマンに八つ当たりをしたんだ」
「凶器はなんです?」
「キョウキ?」
「殺しに使った道具のことです」
「あぁ……部屋にあった酒瓶だ」
これには流石のヴィクトリアス氏も動揺したようだった。
立ち上がり、言葉を失っている。
ラトは座って、ただヴィクトリアスと会話していただけだ。
それなのに犯人が部屋に飛び込んできて、俺がやったと名乗りをあげたのだ。
こんなに意味のわからない状況は滅多にないだろう。
「何故、罪を告白したのですか? 貴方が犯人ということであれば、ナミル氏は店の損失をあなたに払わせることになるでしょう。見せしめもあるかもしれない」
「覚悟している……」
ラトはしばらく考えたあと、支配人を呼んでナミル氏に連絡した。
間もなく黒ずくめの部下がやって来てブルーノを連れていった。
それから二人はヴィクトリアス氏の邸宅を辞した。玄関を出たところでクリフはほっと息を吐いた。
「危ないところだった。いったい何故、裸になれなんて言いだしたんだ」
「それほど失礼なことだろうか。夜になれば脱ぐ男たちだ」
「妙な言い方をするな」
「それよりも、大事なことがある」
ラトはクリフに言った。
「犯人がわかった。デュマンを殺したのはヴィクトリアス氏だ」
「ブルーノが自白したのを見ていただろう」
「あれはヴィクトリアス氏を庇ってのことだ。もちろん、ブルーノがいくらか事情を知っていることは確かだろうけどね。何より彼には理由がない。ヴィクトリアス氏はほかの拳闘士に賞金を分配していたんだから、試合に負けたからといって殺人までおかす理由にはならない」
「確かにそうだが……」
「それよりもヴィクトリアス氏は僕に明らかなウソをついた。ひとつは彼の出身地だ。アパタオ村を知っているかい?」
「いや、知らない」
「王国西北部、高山地帯にある村落だ。彼の部屋にあったタペストリーや覆面の刺繍は貧しい村落の収入を補うための女性の手仕事だ。テクトスにも似たような図案はあるが、彼が使っていた茶葉は高山地帯でしか収穫されない種のものだ」
「誰でも出身地をいきなり当てられたら警戒すると思うぞ。それに、ヴィクトリアス氏は始終冷静だった。デュマンを暴力的に痛めつける男には見えない」
「氏は血を分けた弟を殺した過去がある。冷酷な男だという見方もできる」
「しかし罪を認め悔い改めたんだと本人も言っていたじゃないか。お前の観察眼があれば、それが本当かどうかくらいわかりそうなもんだ」
「悔いていないかもしれないよ」
「え?」
「過ちを認め罪を告白するとき、人は苦しむ。僕に犯人だと疑われた人間は動揺し、ときに怒りをあらわにする。しかしヴィクトリアス氏は平静そのもので言葉に迷いがない。まるで台本を読んでいるかのように、感情を露にしたのはブルーノが現れたときだけだった……」
「それは罪をおかしていないからだ」
「あるいは、殺人を当然の行いだと感じているからだ」
ラトの言葉はひどく冷たい響きをしていた。