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名探偵ラト・クリスタルの追放  作者: 実里晶
地下拳闘場の秘め事
43/76

第43話 ナミル氏の聖域

 

 ナミル氏は拳闘場(けんとうじょう)に出かけていた。

 この拳闘場のことはクリフもよく知っている。

 夜毎、腕に覚えのある男たちが殴り合いを披露する暴力的な場所で、金が無いときは何度か世話になった。もちろん殴り合う側ではなく、賭ける側である。二度ほど、ただでさえ少ない元手が()けて消えるのを目にした(はかな)い思い出の場所である。


 地下に続く階段を降りていくと、まだ営業時間までずいぶんあるのにガスランプの光の下に見張りが立っていた。


 クリフは見張りが何かを言いかけたのを無視して店内に押し入った。

 埃っぽい店の真ん中に、安っぽい板で囲われたリングがあり、観客席がそれを取り囲んで、後は酒を売るカウンターがあるのみだ。

 開店時刻になれば客が押し寄せて、リングの中で殴り合う半裸の男たちに罵声を()びせかけるだろう。店はそれにぴったりの、薄暗くて薄汚い空間である。

 ナミル氏はカウンターの前にふんぞり返って、部下にあれこれと命じている。

 クリフは見張りを引きずるようにしてナミル氏の前に出ていくと、床にモーリスから借り受けたいくばくかの紙幣と、財布に入っていたすべての小銭を叩きつけた。

 そしてそのかたわらで、自らも(ひざまず)いてみせた。

 泥や汗や誰かが吐いた酒や煙草の吸殻(すいがら)、食べ(かす)が混ざりあい、ヘドロのようにこびりついた床であったが、いっさいの躊躇(ためら)いなく額を地面に(こす)りつけたのである。部屋の隅でどぶネズミが死体になって転がっているのもハッキリと見えていたが、それは土下座をしない理由にはならなかった。


「これが有り金全部だ! どうか許してくれ!! 少ないかもしれないが、ラトが暴れて壊してしまったものを弁償する。頼む、ラトを返してくれ。足りなければ必ず働いて返す」


 ナミルは不気味な緑色の瞳を真ん丸に見開き、二度ほど葉巻をゆっくりと吸った。

 クリフは反応がないと見るや否や腰のベルトから鞘ごと剣を外して金の横に置き、再び頭を下げた。

 すると、ナミル氏は何度か喉の奥からむせるような笑い声を発した。


「ずいぶんな挨拶じゃねえか。ジュリアンをぶちのめした話題の冒険者とは思えねえな」

「あれはただの、たちの悪い噂だ」

「そうだろうか。しかし俺達みたいな路地裏者にも作法(マナー)ってもんがあってな、そいつをすっ飛ばかしていきなり出された金をハイそうですかと受け取るわけにはいかねえんだ。財布にしまっときな」

「こっちもラトを返してもらうまでは、ここからテコでも動かない。殴るなり蹴るなり好きにしてくれ」

「おかしなことを言う。あの頭のネジが飛んだおチビちゃんのためになら、何でもできるっていうんだな、えっ? じゃあまずは、お前さん、今夜のリングに立ってもらおうか」

「……えっ?」


 ナミルが凄む。クリフの口からは、思いがけず間抜けな響きが漏れた。


「うちからは自慢の拳闘士を出すぜ。常勝不敗の覆面闘士だ。それと迷宮街の稀代の新星のビッグマッチなら、今夜の賭けは盛り上がること間違いなし、迷宮街のクソ野郎どもがうなるほど店に押し寄せるぜ。どうだい」


 内心、クリフは激しく狼狽(うろた)えていた。

 拳闘は文字通り拳での戦いだ。

 武器や仕込みができないよう、男たちは上半身裸で殴り合う。

 もちろん、店が雇っている拳闘士は試合のために訓練を積んでいる。

 クリフには万に一つも勝ち目はないだろうと思えた。リングに立っても、衆目の面前でなぶり殺しになるのが目に見えている。

 そのとき、店のバックヤードとの仕切りからラトが顔を出した。

 そして懐中時計を差し出した。


「クリフ君が本気にしてしまいます、そろそろ許してやってください、ナミル氏。さあ、25分ですよ、彼がこの店のドアをくぐるまで、きっかり25分!」


 どうやらラトは無事だったようだが、クリフは何のことやらわからず目を白黒させる。


「ああ、そうだったそうだった。こいつがカーネリアン邸からここに来るまで、何分かかるかって賭けだったな。いいだろう、賭けはお前さんの勝ちだ。賭場でのお(イタ)はチャラにしてやろう」


 ナミル氏は怒るでもなく、平然としたままである。


「わあ、ありがとうございますナミル氏!」

「…………なにやってるんだ、ラト」

「ナミル氏と賭けをしてたんだ。僕が連れ去られたことに気がついた君が、いったい何分でここに到着するかっていう賭けをね」

「俺の居場所を探るのに、三十分以上かかると思ったんだがなあ……」

「俺を賭けの材料にするな!」


 クリフは思わずそう叫んでから、ナミル氏に「いえ、あなたに言っているわけじゃないです」と言い訳をする。ナミル氏はその姿を面白そうに眺めている。


「不思議がることはありません。クリフ君は、最初からナミル氏が拳闘場にいることを知っていたんですよ。僕は以前、彼の部屋で賭けの半券を見かけました。この拳闘場のものですよ」


 クリフは何となくぎくりとした。自分の稼ぎを何に使おうが、誰に口出しされることでもないのだが、カーネリアン邸に世話になっている身の上で、しかも常日頃ラトに対して「不道徳なことはするな」と口を酸っぱくしていることを思えば、賭けをしたことがバレるのは気まずいことのように思えたのだ。

 ラトはそれすら見透かしていたようだ。


「先に言っておきますが、こちらのクリフくんは真面目で誠実な男です。賭けに興じて我を失うことはありません。ちょっとした出来心でしょう。しかし、どんな出来心にも理由がある。世間の噂によると、ナミル氏は大の拳闘愛好家なんだそうですね」

「おう、そうだとも。俺の唯一の趣味と言ってもいい。賭けではなく、男たちが正々堂々殴りあうのが好きなんだ」

「毎週木曜日は、必ずすべての仕事をやめて拳闘を楽しむとも聞いています。そんな人物が所有する拳闘場だから、この賭場では不正がない――クリフ君はそんなふうに思ったんじゃないでしょうか。カードやデックのすり替え、ルーレット台に仕込まれた磁石、客とディーラーが組んだイカサマ……賭け事には不正がつきものですから」

「ふむ、あながち見込み違いとは言えないな」

「そして今日は木曜日。ですので彼は普段のあなたの居場所である裏路地の酒場には立ち寄らず、カーネリアン邸から直接この拳闘場に来ます。休むことなく走って! だから25分です」


 ナミル氏は何がおかしいのか声を立てて笑い出した。

 そして「小遣いだ、とっときな」と言って、小遣いには相応(ふさわ)しくない大金をラトの手に握らせた。

 そしてクリフに立ち上がるように言った。


「もともとこの坊ちゃんをどうこうしようという気はねえ。それ以上に、下げても減らない安いプライドと頭にゃ興味がねえんだ」


 その台詞に、クリフはどきりとした。

 心臓を素手で触られたような、うすら寒いものを感じた。

 クリフは――確かに、ラトがナミルの部下にさらわれたものと思って走り通してここまで来た。


 しかし頭の片隅にはどこか打算的なものがあった。


 ナミル氏の言う通り、頭を下げても減るものはない。

 ただ地面に両手をつけて(こうべ)を垂れるだけのことだ。

 (ふところ)は痛まないし、肉体も傷つかない。プライドなんてものはあってなきようなもの、(かすみ)のようなものだ。

 もっと最悪なことを言えば、ラトが殺されていたとしても、クリフは傷つかなかっただろう。それよりも『ラトが窮地に陥っていると知っていたのに何もしなかった』とカーネリアン夫人に思われるほうが、より強くクリフを打ちのめしたはずだ。

 そしてその根っこにあるのが『砦』だった。

 その考え方はすべてイエルクがクリフに与えたものだ。


「ラトを呼び出したのは、そのお利口な頭脳を()かしてもらうためだ。俺が大の拳闘好きだということを知ってるっていうんなら、話は早え」


 ナミル氏は億劫(おっくう)そうに立ち上がると、ラトとクリフをバックヤードに連れて行く。

 さらに地下に向かう階段を降りる。ちょうどリングの真下に当たる空間に、店の専属拳闘士たちの控室が並んでいた。

 控室といっても部屋の中に木でできたベンチや棚が並ぶだけの簡素なものだ。

 だが、一番奥の部屋だけは様子が異なる。

 そこだけ鍵つきのドアがあり、内部は贅沢な(しつら)えだった。

 高級な毛足の長い絨毯(じゅうたん)が敷き詰められ、他にも高価な調度品が揃っている。棚に並ぶ酒も、混ざりものが入った安酒は一本もなかった。

 部屋にはソファや寝台まで備えられていたが、寝台の上は先客によって占領されていた。真っ白なシーツの下には、人ひとりぶんの膨らみがある。

 その客がすでに生きていないことは、部屋中に立ち込めた腐臭と死臭でクリフにもわかった。


「部屋じゅうが踏み荒らされている。コーネルピンどものしわざだな」


 ラトはそう言って、不快そうに眉をしかめた。

 コーネルピンは街の衛兵隊の隊長の名である。


「これは、もしかして事件現場なのか?」


 クリフが問うとナミルは初めて怒りの表情を見せた。

 部下に命じてシーツをめくると、なんとも無惨な死体が現れた。

 背格好は三十代後半から四十代の男性のものだ。ひどく痩せていているため、拳闘士ではないだろう。

 彼の頭部はひどく殴打されたらしく、顔の原型を留めていなかった。


「昨晩の興行が終わった後に、この部屋で倒れているのを掃除夫が見つけたんだ」

「ふむ、では衛兵隊に知らせたのですね」

「この店は俺の聖域だぜ、ここに関しては、やましいところは何もないからな。で、親切にも市民の義務として通報してやったところ、連中はろくにこっちの言い分を聞かず、調べもせず、客を追い出して、犯人が捕まらないようなら店は一ヶ月の休業だと命じて帰っていきやがったのさ! 無能どもめ!」


 ナミル氏はだみ声で怒鳴った。

 どうやら拳闘が好きだと言ったのは本当らしい。

 一ヶ月の休業命令をただ甘んじて受け入れるなんぞ(たま)ったものではないと、遺体だけでも取り戻し、ラトを呼び出したのだった。

 ラトは笑顔で「訂正をお願いします。無能で、しかも無知で、怠惰だと」と付け加えていた。

 コーネルピン隊長のことを嫌っているのは、ナミル氏だけではない。

 迷宮街でしばらく暮らせば、クリフも、彼らが働き者であるとは口が裂けても言えなかった。


「彼らは犯罪捜査の何たるかが欠片もわかっちゃいないんです、現場に大勢で、しかもずかずかと土足で入ってきては証拠を踏みつぶし、現場に置かれたものを持ち去ってなくす。今度から、衛兵隊なんか呼ぶ前に僕を呼んだほうが賢明です」


 ラトはそう言って悲し気にため息を吐く。

 ただ……ナミル氏がラトを呼び出したのは、犯罪捜査のためではないだろうとクリフには思えた。いくら拳闘好きでもだ。

 ナミル氏は迷宮街の犯罪者の総元締めだ。

 彼が気にしているのは、自分の店の利益と面子(めんつ)である。

 ラトは手袋をはめて死体に近づき、その様子を観察しはじめた。

 頭のてっぺんからつま先まで目で見て、時に近づいて香りを()ぐ。


「犯人を見つけてくれ、それができたら、相応の報酬を払う」

「いいでしょう。遺体は僕に預けてください。それから関係者と自由に話をする権利を僕にください」

「客を含めると山ほどいるぞ」

「とりあえずは、このバックヤードに出入りした人物だけで結構」

「おい……ラト、ちょっと待て。本当に引き受けるつもりか?」


 クリフは夢中になっているラトを遺体から引きはがすと、小声で話し掛ける。


「これは裏社会からの依頼だぞ」

「依頼者が誰であれ、名探偵の仕事に変わりはない。真実を暴いてみせる」

「そういうことじゃない。考えてもみろ、ナミル氏は犯人を衛兵隊に連れてくなんてことはしない。犯人は裁判を待つ事なくドブ川に浮かぶことになるんだ。それか首を斬られて(さら)し物になるかもしれない。犯罪に手を貸すようなもんだぞ」


 ヒソヒソ話をしている二人に、ナミル氏は言った。


「店の売り上げの一ヶ月分を支払う。コーネルピンの言いなりになれば、どうせ俺の(ふところ)には入らん金だ。丸ごとお前らにくれてやろう。それで俺も裏社会での面子が立つ。誰も損はしねえ取引のはずだぜ」


 クリフは以前、店に来たときの光景を思い出した。

 店には拳闘好きが押し掛け、満員の大入りだった。

 そしてごくりと音を立てて生つばを飲み込んだ。

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