第34話 アンダリュサイト砦の住人たち
三老人との戯れもそこそこに、クリフとラトは砦の主に面会することとなった。
クリフにとってはしばらくぶりの帰郷である。
砦には城主であるオスヴィンと二人の息子がいるはずだ。三男はクリフと同じく、いずこへか遁走して不在にしている。
「それにしても、まさか君があのイエルクの孫だったなんてね」
ラトが三十秒に一回、物憂げにそう呟くようになった。
しかしこれには特別な考えがあるわけではない。
何かを憂いているわけでもない。
そう呟く度に、クリフが不快そうな表情になってびくりと肩を震わせるのがことのほか嬉しいようである。以前、クリフにこっぴどく頬を打たれたことなどは、ラトの記憶からはすっかり脱落しているようだった。
「言っとくが、俺がじいさんと暮らしたのは兄弟のなかでも一番短いんだからな」
「表にいた癖の強い三人組とは仲がよさそうに見えたけど?」
「面白がって手を出すと噛まれるぞ」
ラトはけらけら笑っているが、クリフは冗談を言ったわけではない。
イエルクが恐れられていたのは、自らの手勢として山賊や泥棒や殺し屋や、様々な裏稼業のはみ出しもの、荒くれ者の集団を率いたからだ。
彼は軍を率いたというより、犯罪者集団を率いた。こいつらはイエルクの号令ならば命を捨てて戦う勇敢さと、敵味方関係なく略奪をしはじめるような無法さの両側面を持ち合わせる最悪の兵士である。貴族たちが揃ってイエルクを恐れたのは、この軍団が自分の領地に押し寄せることを恐れたのと同義であった。
砦にいまも残るあの三人はその荒くれ者集団最後の生き残りである。
クリフは三人組に様々な辛酸をなめさせられた。おねしょが見つかったときなど、黙っているかわりに、と、やつらは五才の幼児から飴玉を取り上げたのだ。そしてしたり顔でこう言うのである――「人に弱みを握られるとはこういうことです、ぼっちゃん」
重ねていうが五歳児から、大人がもらってもなんにもうれしくない飴玉を取り上げたのだ。たまに小遣い銭なんぞをもらった日には大変な目にあった。
クリフは砦じゅうを半泣きで逃げ回り、隠し場所を苦心し、次の日に影も形も消え失せてしまい泣く、というのをしばらく繰り返した。
これは、砦にまつわる千を越える最悪な思い出のひとつである。
「いちおう、忠告はしたからな」
「それはそれは、ご忠告痛み入るよ。それにしても、四人もいる息子のうち二人も逃げ出すとは、いったいどういう仕組みになってるの? 僕らを乗せた御者が途中で逃げ出したのは、キルフェ嬢が面倒をみている病人たちを恐れたからだろうけど、君たちも同じ理由かい?」
「まさか……。妹が奉仕活動をはじめたのは俺たちが砦を出てった後のことだ。その前には砦の周りには堀がめぐらされていて、あんな畑もなかった」
クリフはうんざりした顔つきだ。これは《性悪じじい三人組が野良仕事をしているところなど、できれば一生見たくはなかった……》という顔だ。
「じゃあ、問題は別のところにあるというわけだ」
ラトはにやりと笑った。
オスヴィンの居館の客間で待たされること、小一時間。
砦の主はいっこうに現れない。
砦とはいえ、ひどく退屈な客間だった。天井と床と壁で空間が仕切られているだけで、長椅子が三つか四つ置かれ、装飾と呼べるのは古ぼけたハゲワシの家紋のタペストリーだけ。カーネリアン邸の三分の一ほども面白味のない客間だ。
ようやく扉が開かれたと思ったら、顔を出したのは女性だった。
亜麻色の髪を一つに詰め、エメラルドグリーンのスカートを履いた妙齢の婦人だ。手に本を持ったまま、戸惑ったしぐさをみせる。
ラトは立ち上がった。
「あら、まあ……。失礼いたしました、私としたことが。お客様がいたとは露知らず……」
「いいえ、押し掛けたのはこちらです。僕はラト・ペリドットです。王都からオスヴィン殿に面会に来ました」
その設定はまだ生きていたのかとクリフはうんざりした。
「ラメルですわ。この館にはお世話になっていて……。マルタ村の出身です」
「お知り合いになれて光栄です。ご挨拶申し上げても?」
夫人はうっすら紫色の痣の浮かんだ顔をそらすと、手にした扇を広げてさりげなく隠すようにした。
そして差し出された反対の手に、ラトは跪いて口づけをする。
「読書ですか?」
「ええ。病み上がりで……キルフェお嬢様のすすめで、日光浴を……。ここは館の中でも日が射しますから」
「そうでしたか。どうぞ遠慮なくお座りになってください」
「いいえ、私のような者が同席しては、お目汚しでしょうから。城主様もじきにいらっしゃいますわ」
ラメル婦人はスカートの裾を引いて会釈すると、そそくさと部屋を出て行った。
オスヴィンと思しき男が客間にやってきたのは、ラメルの言ったとおり、その直後のことだった。
背は高くないが、肩幅が広くて図体のでかい男が客間に入ってくる。
クリフよりも鈍い色の赤毛で、歩くとドシドシと音がした。
「オスヴィン殿、話はまだ終わっていませんよ!」
その後ろを中肉中背の紳士が追いかけて来る。
中肉中背の紳士、というのは比較的穏当な表現である。
紳士の特徴をもっと的確に述べるなら、神経質そうな鷲鼻と前髪の後退、それから頭部全体に及ぶ白髪に言及すべきだろう。
近づいてみれば肌つやなどはむきたてのゆで卵のように若いのだが、何故だか頭のまわりだけが二回り以上、よけいに齢を食っており、頭の横などは薄い毛がモジャモジャとまとわりついているだけだ。その薄さを補うためか、後ろ髪あたりは長く伸ばされており、切ない努力の痕跡を垣間見ることができた。
「キャストライト子爵殿、わしも娘のことには業を煮やしておるのです。そうやって苦しめないでくだされ」
「しかし、オスヴィン殿。あなたが父親の責任として、キルフェ嬢を説得すると約束したのは二か月も前もことなのですぞ。これはあきらかな怠慢です。いつまでも約束が履行されないのであれば、子爵家は貴殿にしている融資を今すぐにでも引き上げねばなりませんぞ」
オスヴィンは入口の反対側の窓に左手を着いて、もう片方の手で顔を覆った。
さも難題を――この世の破滅を左右する大問題を、自分ひとりが抱えているのだと言わんばかりの、じつに押しつけがましい仕種であった。
そしてオスヴィンはおもむろに二つ折りにした体を持ち上げると、クリフに太った指の腹を突きつけて叫んだ。
「何をしに戻ってきたのだ、疫病神! 馬鹿息子め! 帰って来るなら土産のひとつでも寄越さんか、気の利かない!」
クリフは長椅子に腰かけたまま、父親の罵詈雑言にはうんともすんとも言わないで、ラトに微笑みかけた。
「あれが、息子を二人も失った理由その一だ」
「もしかしてその二とその三がある?」
「長兄と次兄が控えている。紹介できるのが楽しみだ」
「わあ、それは僕も楽しみだよ!」
ラトは長椅子から立ち上がると、片膝を折って恭しく会釈してみせた。貴族のふりが実に堂に入っている。もしかしたら、過去に貴族として過ごしたことがあったのかもしれない、と思わせるほどには。
反対に、クリフはわざわざ立ち上がる気にすらならなかった。
「お初にお目にかかります、ディスシーンの砦を守護せし方、オスヴィン殿。クリフ君から話を聞いて、お会いできるのを楽しみにしておりました」
「フン、出来損ないから何を聞いたか知らないが、ウチにはたかる金も家財も何もないぞ。見ての通りな」
「そう邪見にしないでください、お父様」
「私の息子は四人だけだが?」
「いいえ、いずれは。僕はラト・ペリドット。智将の家系と名高いアンダリュサイト家にくらべてこれといった誉れのない家柄でお恥ずかしいのですが、僭越ながらペリドット家は陛下から侯爵の位を賜り、王都の端に屋敷を構える身分です」
侯爵と聞き、オスヴィンは驚いたようだった。耳が大きく動くのがわかった。
「クリフ君とは迷宮街を訪れた際に知りあいになりました。それ以来、従者として僕のためによく働いてくれています。聞くところによりますと、彼には大変聡明で美しい妹御がいるとのこと……」
勝手に従者にされたが、クリフは反論しなかった。
彼はただ、オスヴィンが目を白黒させているのを見ながら失望を深くするだけだ。
父・オスヴィンは昔から大層名だたる小人物であった。子供たちには居丈高で、気に入らないことがあると幼児のようにすぐに拗ねた。自分には多大な才能があると信じこみ、金や地位を欲しがるくせに、目先の小金に右往左往して、せっかく受け継いだ領地を切り売りすることしかしなかった。今も、このちんちくりんのラト・クリスタルが侯爵家の出身だと聞いて、程度のよろしくない頭でよけいな損得勘定を働かせているに違いないのだ。
「僕はキルフェ嬢をペリドット家の次期女主人にと望んでおります。つまり、僕の伴侶として、未来の奥方に迎えたいのです」
「なんですって……!?」
クリフは目玉が飛び出るほど驚いたが、先に声を上げたのは、オスヴィンに付き従って現れたキャストライト子爵とかいう人物であった。
「先ほど小屋のそばまで行って姿を拝見しましたが、あれだけの女性を花嫁に迎えられるのなら、当家の主も首を縦に振るに違いないでしょう。何といっても侯爵家との縁談です。よもや不服があるとは言いますまいな」
子爵の前で、ラトは偉そうに咳払いをしてみせる。
「さて、不勉強なもので、南の土地の貴族には知りあいがいないのでね。いったい君は何者なのかな?」
「私はキルフェ嬢の婚約者です。その父親に長年、融資もしている!」
「ああ、そうとは知らず失礼をいたしました。けれど、キルフェ嬢を迎えることは兄であるクリフ君には了解を取り付けていることでもあるし――まあ、決めるのは家長であるオスヴィン殿です。いかがですか、ささやかな支度金の用意もありますよ」
物事の順序を考えれば、これほど不躾な申し出はない。何しろ婚約者の前である。オスヴィンがまともなら、いかに侯爵家の申し出とはいえ、引き下がらせるのが筋というものだ。しかし、オスヴィンの瞳が小さな欲に光るのがクリフには見えた。
「支度金というのは、いかほどか……?」
「オスヴィン殿っ!」
オスヴィンは激高するキャストライト子爵から目を逸らす。
ラトは面白そうにその様子を見物している。
「なんでしたら、この砦の債務ごと買い取りましょう。すぐにでもまとまったものを用意するよう、報せを出します」
「ええい、貴殿は黙っていたまえ。何とかおっしゃてください、オスヴィン殿。まさかこんな得体の知れない人間に、それも金と引き換えにキルフェ嬢を引き渡すおつもりじゃないでしょうな!? 我が子爵家は、イエルク殿の代からの付き合いなのですぞ。その恩を無下にするとは……!」
「初対面のくせに失礼な方だな、僕が得体が知れないって? ねえ、オスヴィン殿。キルフェ嬢をお嫁さんにくださったら、もちろん御父上のことだって本当の父上と思って親身になるつもりですよ。引退後は王都に屋敷でも建てて、お嬢様の近くでのんびり暮らすのはどうです?」
「よくもぬけぬけと。どうなんです、オスヴィン殿!」
オスヴィンは悩まし気に頭を両手で押さえつけた。
彼を悩ませているのは、ラトが差し出した破格の条件だ。
王家から爵位をもらったとはいえ、辺境の砦暮らしでは、とてもではないが王都に邸宅など望めない。オスヴィンは王都に憧れがあるのだ。子爵だって同じだ。ディスシーンはなんだかんだいって、ついこの前までは隣国の土地だった。
華やかな王国貴族の、洗練されていて贅沢な暮らしは、オスヴィンの遠い夢なのである。
「ううっ……持病の頭痛がひどくなってきた。イライジャ、エメリー! はやく来てくれっ!」
オスヴィンが叫ぶと、扉を割って二人の息子たちが飛び込んでくる。二人ともどこに待機していたのか、実に素早いものだ。
いかにも偽物っぽいびろうどの上着を着こんだ二人組は、双子かと思うくらい似ていた。誰に似ているかというと、もちろんオスヴィンである。
若さ以外の点は、彼らは父親に瓜二つだった。
頭痛薬を抱えているイライジャが長子、分厚い眼鏡をかけて、水差しを抱えているのが次男のエメリーである。
「お父様、ご無事ですか。いったいどうなされたのですっ?」
二人は父親がこれ見よがしに丸めた背中を撫でさすりながら、クリフを睨みつけた。
「オスヴィン殿、その手には乗りませんぞッ!」
子爵がオスヴィンに掴みかかろうとするが、間に割って入った次男に防がれる。
「お父様は深刻なご病気なのです、子爵殿。本日はもうお引き取りください!」
「この間もそう言って、話しあいの最中にいなくなったじゃありませんか。今日こそはお約束通りキルフェ殿と私の婚儀の日取りを決めて頂きます!」
「本当に深刻な病なのです、ご遠慮ください、子爵殿!」
四人はもつれあいながら、客間から退出していった。
最初から最後まで、はちゃめちゃな喜劇の幕間のようだった。
その役者のひとりとなったラトはクリフの隣にゆったりと腰かける。
「君の父上は、何かご病気をわずらってらっしゃる?」
「あるとすれば、深刻な精神の病だ」
父に続き、長兄、次兄と続け様に醜態を見届けたクリフは最後の力を振り絞って苦しそうに呻いた。
オスヴィンはイエルクの紛れもない息子である。壮健であった時代のイエルクをもっともよく知る人物のひとりだろう。だが、それが良くなかった。
悪鬼やハゲワシと呼ばれた男が、息子を息子らしく扱うことは生涯一度たりともなかった。イエルクは息子に少しも期待しておらず、期待していたとしたら妻に次の世継ぎを生ませる能力だけで、それすらなかったらとっくの昔に殺されていてもおかしくなかった。
そのような環境に長年身を置き続けた男の精神は委縮し、すっかり歪んだ心根の持ち主となってしまったのだ。
「妹さんをもらい受けたいというのは、もちろん本当の来訪の意図を隠すための建前というものだけど、僕はあの中だったら結構、男前の部類ではない? はっきり言って、僕がキルフェ嬢と結婚したほうが、君たちは幸せになれると思う」
「最低の選択肢と、別の種類の最低の選択肢を戦わせるのはやめてくれ……。俺の胃に穴があきそうだ」
「見たところ、キルフェ嬢はこの砦に残った最後の良心だ。それにしても、君は父親にも、兄弟の誰にも似なくてよかったね」
ラトは笑っていたが、冗談にもならなかった。
イエルクの没後、これといった収入源のないアンダリュサイト一族は、キャストライト子爵家嫡男エセルバートと養女のキルフェを婚約させることによって何とか食い繋いできた。
キャストライト子爵は、ラトとクリフが中継地として立ち寄った町、マルタを含むこの辺り一帯の大地主である。
元々がせいぜい裏切りや、無法者ばかりの軍団をちらつかせて王家の国庫から金を引っ張り出すしか食い扶持のない辺境の砦である。現在の平和な世の中では無用の長物であるし、かつ当主があれだけ無能であれば、キルフェの将来の嫁ぎ先しか頼みの綱はない。
キルフェ嬢が婚約者のことをどう思っているかは知る由もないが、言ってはなんだがあの滑稽な容姿である。
金めあてで仕組まれた結婚相手に好意を持つほうがむずかしいだろう。