第31話 竜に差し出された暗号文
つい先ほどまで希望の光の中にいたのに、今、クリフは絶望していた。
彼はこれまでその人生において邪魔な存在はラト・クリスタルだけだと思っていた。
それは喉に刺さった魚の小骨のようにやかましいことこの上ない存在ではあるが、これだけを取り除いたならば、たちまち順風満帆な人生を送れるようになるに違いなかろうと確信していたわけだ。
が、いつの間にか竜人公爵という、どうあがいても取り除きようがない異次元の存在が加わっていたのである。
ラト・クリスタルはカーネリアン邸の応接間に悠然と腰かけて、ギルド前の広場で何が起きたのか、全てお見通しだとでも言いたげであった。
「そう落ち込むことはない。僕はこれでもクリフ君が意気地なしだなどとは一度も思ったことがないんだよ。君が剣の腕を振るわなかったのには別の理由がある」
「待ってくれ。どうしてお前がギルドでの出来事を知ってるんだ」
「僕は全能だ」
「さすがに言いすぎだ」
「そうかもしれないね。風に乗ってくる竜血の君の咆哮と戦闘音で、どんな人間にも大体の展開は読めて当然だろう」
ラト・クリスタルはそう言ってモーリスが淹れてくれた紅茶の香りを楽しんでいる。カーネリアン家の忠実なる執事、モーリスもすっかり竜人公爵に給仕をすることに慣れたようだ。それとも、諦めたか、覚悟が決まったか……。
「はっきり言おう。ジュリアンはクリフ君を性的な目で見ていた」
ラト・クリスタルが妙なことを言い出すのはいつものことだが、この時ばかりは返事に力がこもらなかった。
「…………そんな馬鹿な」
「だいたい都合が良すぎると思わないかい? 君が困り果ててるときにたまたま酒場で出会い、君に都合が良すぎる条件を提示して望み通りのものをくれるなんてさ」
「まるで見て来たかのように言うんだな」
「見ていたからね」
「何だと?」
「僕が思うにジュリアンは狩りをしていたんだ。格好の獲物が迷いこんで来るのを酒場で待ち構えてたんだよ」
「俺は男だぞ」
「性的な好みは様々だ。香水瓶にしか欲情しない男だっている」
なんとなく、ではあるが、クリフはジュリアンの仲間たちの姿を思い描いていた。彼らの容姿や職業は様々だが、共通点があった。
クリフと身長が同じだ。
それになんとなく、彼らがクリフを見つめる目つきには必要以上に刺々しさがあった。
「仮にそうだとしてジュリアンが、その……」
「邪な眼差しで君を見ていたとして?」
「ああ、そうだ。仮にだぞ。しかし、お前なんかにわかるのか? 恋愛の機微ってやつが」
クリフの指摘に、後ろで話を聞いていたモーリスがわずかに体を揺らした。
おそらく笑いかけたのである。
真夜中に太鼓を叩き、違法な葉巻を吸い、そして大衆演劇に連れて行っても欠伸をして帰って来るラト・クリスタルと恋愛とは月と太陽くらいかけ離れたもの、その妙味を理解しているように思えないのは当然だ。
それに恋愛までいかずとも、人の気持ちのわからない奴である。
「言っただろう、僕は全知全能なんだ。モーリス、笑い事じゃないぞ。君がメイド長とかつて肉体関係にあったことは確定的に明らかだが、僕はそれほど下世話ではないので指摘しないでおくよ」
哀れなカーネリアン家の忠実な執事は、過去の恋愛事情を突然暴かれ驚き慌てふためいて、水差しを割った。
「確かに人間の感情は複雑なものだ。だが、人間の精神と肉体が密接に結びついている以上、名探偵に見抜けないものは無いんだよ。たとえば――」
そのとき、竜人公爵が明らかに不愉快そうな咳払いでラトの言葉を遮った。
「人間の心の機微とかいう、その手の退屈な話はいつまで続くのだね?」
「これは失礼、閣下。ちょっとばかし頭の弱い僕の相棒を親切にも連れ戻して下さって感謝いたします」
「頭の弱いってなんだ!」
「だって君、あのままじゃ三日間の迷宮生活の間のどこかでジュリアンに手籠めにされていたよ」
「そんなことにはならない!」
「じゃあ、無理やり関係を迫ってきたジュリアンを殺して地下牢生活だね」
竜人公爵の一際大きい咳払いが響いた。
竜人公爵はラト・クリスタルに何事かの相談があるらしかった。領地のことであればカーネリアン夫人に話すだろうから、もっと面倒な問題だろう。
「先日、王都に滞在していた折、私のもとにこのようなふざけた書簡が届いたのだ。あまりにも腹が立つので焼き払ってやろうとしたのだが、ぐっと堪えて貴殿の元に来たのだ。その意図を察してほしいものだな」
「それは誠に賢明でした。腹立たしい手紙が来た場合、焼き払ったほうが良いのは手紙ではなく往々《おうおう》にして差出人のほうですからね」
竜人公爵は一通の手紙をラトに渡した。
ラトはじっと手紙の文面に目を走らせ、眉をひそめた。
それは珍しい反応だと言えそうだ。だいたいの事柄に置いて、眉をひそめられるのはラトのほうが多い。
クリフも横合いから手紙の内容を覗き込むと、そこには信じ難い文面があった。
『前略 偉大なるスファレス山の御大将よ。
王都での乱暴狼藉極まりないご活躍は私のいる田舎にも届いております。齢数千歳の老体でありながら貴殿はまったくのご健勝とのこと、未来に対して何ら不安に思うところはないご様子で、それ自体は喜ばしいことと存じます。
しかし、未来に対して何ら思案することがないということは、それ即ち知性の衰えを示しているのではないでしょうか。
僭越ながら貴殿に対し批判めいた物を申しますと、あなた様は人間を見下しすぎて、ご自分が全知全能であると信じて疑っていないきらいがあります。そのせいで、知的生命体にとっていちばん重要な脳の成長というものが阻害されているのです。
閣下の知らないことなど、この世にごまんと御座います。
例えば、閣下は我が地方では名の知られたボロロフツスカのことをご存知でしょうか。ご存知ないでしょう。あれだけ偉大であったベラレウフラレーニャがトレーモロしたこともお知りにならないと断言できます。それはまさにテラムッチャであり、フェンネルペルトで、ポワンポロ・フォン・トレーモロなことなのです。歴史的事実に基づいてボルンダルベルト・ラチョ・パンサと言い換えてもゲネかもしれません。
これらの事柄を全くお知りにならないということは、貴公は千年という長き時をただデロロンガに過ごしたグームだということで、それはフムスとテムサの区別もつかないという事実をペロッピロしているのです。
反論があるなら、いつでもお待ちしております。
いつだってゲネです。
私はあなたのチョモチャなど全く怖くはありません。
カントリオーニ・シャラスコ・コンコルト。』
まさにふざけた文面であった。全体的に竜人公爵の批判で占められていて、後半は訳のわからない単語の羅列である。
「従者たちを使いこの手紙の内容について調べさせたが、愚か者どもめ、誰もボロロフツスカなど知らぬという! そのせいで王都への滞在が一週間も伸びたのだ!」
公爵は怒り狂い、今にもひじ掛けを破壊しそうだった。
意図はわからないものの、差出人が相当の丹力の持ち主であることは間違いない。手紙の冒頭にある『乱暴狼藉極まりないご活躍』とは即ち、竜人公爵がスフェン伯爵を居館ごと噛み殺し、頭を引きちぎって王宮に放り込んだ事件を指している。
この人物は背筋が震えるほど恐ろしい事件のあらましを知りながら、ふざけた手紙を公爵に書いて寄越したのだ。
「この手紙はいったい何なんだ、ラト? 俺にはサッパリ訳がわからないが、もしかすると何かの暗号文なのか?」
「ふむ……暗号ね…………」
ラト・クリスタルは真面目な顔つきでじっと文面に視線を落としていた。にやにや笑いも、冗談も、皮肉も無しだ。
名探偵は便箋の表と裏をあらため、光に透かし、封筒のにおいを嗅いだ。
「なるほど、結構。これは大した難事件です。竜人公爵、早急に対処が必要でしょう」
「おためごかしが聞きたいのではないのだよ。ラト・クリスタル。君は、王都の学者でも理解できなかったこの手紙の意図がわかるのかね?」
「正直に申し上げます、閣下。僕にはこの手紙の文言が指し示すところはわかりかねます。暗号文の解読というのは厄介なもので、二、三日頂きたく存じます。しかしベラレウフラレーニャやトレーモロといった難解な言葉がわからないとしても、対処することは可能ですし、早急にすべきです」
ラトは封蝋に押された家紋を示した。
「閣下には敵がおられる」
そこには、菫を食いちぎろうとしているハゲワシが羽を広げていた。
その紋章を目にして、クリフははっと息を飲んだ。