第2話 投獄
この世界は約束と秘密でできている。
世界のはじまりに四つの約束を交わした四賢人は、その後大陸のあちこちに散って四つの街を作った。
そのうちひとりであるアンドレアス・アレキサンドライトは冒険者で、彼が女神の栄光と共に築き上げた栄華はすべて《迷宮》の上にあった。
金緑渓谷の狭間で産声を上げた《迷宮街アレキサンドーラ》は今でも冒険者たちが集まる栄えた街だ。
狭苦しい迷路のような通路や街の建物はセピア色の石灰岩でできている。日が暮れるとオレンジ色の灯りで照らされ、影の色は青く染まる。
昼の緑玉、夜の紅玉と詩人たちに讃えられる街には冒険者たちがひしめく。
彼らの足音は美しい街のその、さらに奥深く、岩盤をくり抜いてできた陰鬱な地下空洞にまで響いていた。
石組で四方を補強されたそこには二つの穴蔵があり、堅牢な鉄格子で塞がれている。牢屋だ。それも、冒険者ギルドのギルドハウスの地下にある牢屋である。
「僕は何一つまちがったことはしていない。そう、この良心に背くようなことは何ひとつ。なのに愚かなリーダーは、この僕を追放したあげく、ギルドに通報して不当に逮捕させたんだ。嘆かわしい、知性の敗北だ。非合理主義者どもの横暴だよ」
ラトは粗末な木製の長椅子に絹のハンカチを敷き、その上に腰かけて、いかにも悲劇の主人公であるというふうにうなだれていた。
その両手には重たい手枷がつけられていた。手枷からは鉄鎖がぶら下がってており、足枷に繋がっている。
まごうことなき、捕らわれの囚人の姿である。
牢屋に繋がれた者はたいてい、その身に起きた出来事を嘆くものだ。
しかしその嘆きの内容は、ラトの場合は明らかに異様だった。
彼の話ぶりを同じ房の中で聞いている不運な人物がいる。
彼の名前はクリフ・アキシナイト。
革鎧をまとったごくふつうの青年だ。
やや長い髪は頭の横で編んで、赤錆色をした毛先を黄色く染めた麻紐で結んでいる。それ以外に個性的なところはない。迷宮街ならどこにでもいる、いかにも田舎から出てきたばかりの駆け出し冒険者といった風体だった。
「待ってくれ。つまり…………お前は、パーティの仲間を殺して解剖したって言うのか?」
クリフはゆっくりと訊ねた。
必要以上にゆっくりと言葉を紡いだのは、今しがた聞いた話の内容がにわかには信じられなかったからである。
ラトはかぶりを振った。
「殺してはいない。彼らを殺したのは第四階層、《神秘の泉》に棲息する毒ガエルの群れだ」
「たとえそうだとしても、お前さんは死んだ仲間の遺体を……」
「何度も繰り返さないでくれたまえよ。仲間の死体を解剖したんだ。でもそれだけだよ。何も問題ない。迷宮内で死んだって、女神の加護があるのだから蘇生術を用いれば何度だって生き返る。大したことじゃない」
問題はある。大いにある。
迷宮内での事件と冒険者の不始末はギルドの預かりだが、ラト・クリスタルがしでかしたことは冒険者ギルドの裁量権を越えている。
じきに、ラトは裁判にかけられる。そうなれば身元の不確かな冒険者の命など、吹けば飛ぶ木の葉のようなものだ。
「それだけのことをしたら一生牢屋から出れないぞ。へたをしたら死刑もあり得る。いや、たぶん、死刑になる。まちがいなく」
「何故? この類まれなる知性を失ってもいいというのか、人類は」
人類はそれほど知性に重きを置いてはいないし、知性と倫理を同じ秤にかけることもない。もしも同じ秤にかけたとしても、倫理が勝る。
知性が勝つと信じている時点で、目の前の少年だか少女だかの秤は壊れている。異常な思考なのだ。
しかし、それらのことを言葉にはしないで、クリフはにっこりとほほ笑んでみせた。
ラトは不愉快そうに「どうして笑ったの?」と訊いた。
「もちろん、お前を刺激しないためだよ」
クリフはあくまでも紳士的に言って、廊下の奥に向けて声を張り上げた。
「誰か、助けてくれ! 気が狂った殺人鬼と同じ牢屋に入れられるだなんて聞いてない! 酔っ払いを殴っただけなのに、死んで当然のクソ野郎と同じ牢屋に入れるなんてひどすぎる!」
牢の奥から見張り役のギルド職員がのっしりのっしり歩いてやって来る。
そして無情にも「静かにしろ」と言った。
それからラトのほうをいかにも気味の悪そうな目つきで見ると、クリフには同情的な目線を向けた。
「悪いんだが、今日は隣の房も満室なんだ。遺言くらいなら伝えてやるよ」
「人の心ってものが無いのか!」
クリフは助かりたい一心で喚いた。このまま狂人と朝まで過ごしたら、何が起きるかわからない。
もちろんラトは手枷足枷で拘束されているのだが、なんだか目の前の少年にはそれくらいのことは歯牙にもかけていないような、奇妙としかいいようがない雰囲気があるのだ。
「まあまあ、君。落ち着きなよ。あれは必要があってやったことであって、僕は殺人鬼ではないし、死刑にもならない。裁判だって開かれることはない。明日の昼頃には自分の足で歩いて出ることになるよ」
「脱獄宣言か?」
眉をしかめたのは呼び出されたギルド職員だ。彼らは犯罪者を扱うプロというわけではないが、冒険者たちの監督役としての面子がある。そうそう簡単に牢屋を抜け出されては困るのだ。
「いいや。そこの彼がこの手紙をカーネリアン邸に運んでくれるならじきにそうなるって話。あくまでも仮定の話だね」
ラトは白い封筒をクリフに差し出す。
クリフは気味の悪いもののように白封筒を見つめている。
「なぜ俺がそんなことをしなくちゃならない?」
ラトは何も説明することはなかった。
しかし不思議と力強い眼差しでじっとクリフを見つめて、それからごく冷静な声でこう言った。
「アロン領グーテンガルト。君の出身地だ」
クリフはどきりとした。
ラトが上げたのはたしかにクリフの生まれ故郷の名前だったからだ。
「どうしてそのことを……?」
クリフは思わず束ねた髪の毛に触れた。
「大したことじゃない。単なる知識の問題だ。君の髪の毛には似合わない黄色の麻紐が編み込まれているよね。黄色の髪飾りは南方の一部地域で幸運の印だ。だから出身地なんぞはすぐにわかる。だが、しかるべき観察眼を持ち、それなりに脳細胞を働かせれば他にもわかることは色々あるよ」
わかるはずがない、とクリフは自分自身に言い聞かせた。
ラトには世間話以上のことは何も話していないのだ。
しかしラトの口からは、望みは儚く潰えたとしか言えなくなるような事柄が次々に飛び出してくる。
「君の家族構成を当ててみせよう。まずは父親と、母親。母親はおそらく既に亡くなっている。君の上に男兄弟が何人かいるだろう。ふたり……いや、三人かな。父親とは仲が悪いはずだ。もう何年も連絡を取り合ってない」
「何故そんなことがわかるんだよ……」
「いろいろと要素はあるけれど、決定打は君の鎧」
と、ラトは端的に述べた。
「君がつけてる柔らかな鹿革のグローブ。親指のところに当て革がついている。あきらかに弓士用のものだね。でも胴巻は裏側に鉄板を貼り付けた剣士用のもの。君の革鎧はすべてのパーツが一そろいでできてない。ちぐはぐだ。それに新しくもない。なぜなら、質店で手に入れたものだからだ」
クリフは冷静を装っていたが、心臓が口から飛び出すんじゃないかというほど音を立てている。早鐘のようだ。
「僕の推理が正しければ、君は元々持っていた自分の装備を質に入れて、その金で一回りランク落ちした鎧をパーツごとに買ったんだ。何故元々あった自分の装備を売ったのかというと、売らざるを得なかったんだろうね。それを持っていたら、身元がバレてしまう。君は冒険者たちに自分の素性を知られたくなかった。何故なら君は兵士だったから」
薄暗い牢屋の中で、緑色の瞳がきらりと光った気がする。
「冒険者たちは元兵士という肩書を嫌うものだ。商売敵だからね。だから装備を売って身元を隠そうとした。そうまでして故郷に帰りたくないのは、家族との折り合いが悪いからだ。家族も君を探すつもりはない。跡取りは十分いる。それでも母親はいつまでも甘ったれの末の男の子をかわいがるものだが、取りなしを期待することはできない。亡くなってるから」
「俺はただの出稼ぎ農民だ。元手が少なくて、ちゃんとした装備を買えなかっただけだ」
クリフは動揺を悟られないように気を付けながら反論を試みたが、つまらない反抗心だったと言える。
「それはない」
ラトはあっさりとうそを見抜いてしまった。
「何しろ、ここは冒険者ギルド管轄の牢屋だからね。君が殴った酔っ払いは冒険者だろう? 君がずぶの素人だとしたら、冒険者を殴って無事でいられるはずない。それなりに腕が立つんだ」
ラトはそう言ってあくびをし、クリフの鼻先で白封筒をひらひらと振ってみせた。
「やるの? やらないの?」
クリフはじっと白封筒を見つめている。
封筒の向こうには、やたら勘働きのいい異常者が笑っている。




