顔
肌寒さと違和感で目が覚めた。仰向けの状態から腰を浮かして見てみても、周囲に何があるか分からない。空には少しの星々。僕は、夜明けを待つことにした。周りは暗い、認識出来ないほどの深淵と静寂が包む。ぼんやりと頭に靄が掛かったみたいだ。頭の霧が晴れるのが先か、夜が明けるのが先か。思案する間もなく夜が明け始めた。『枕草子』の春の段の様にようよう白くなりゆく訳もなく、空は曇天。空に太陽の日差しがかかり始めるのが、この世界の理では無いことを思い知らされる。
僕の周りには、上空に見える灰色と似かよった青大将の重くて黒い木々たちがそびえ立っている。木々はどこまでも続く伏魔殿の如く、裾野の広げていて自分の居場所をまるで知らせたくないように見える。その奥に微かな水の音をはっきりと聴いた気がした。傾聴してみると、か細くて今にも消え入りそうなのに存在感を持つ音がする。
僕は走る。音を聞いた自分の味覚が過剰に反応している。おまけに体が音を欲しているのも伝わってきていた。木々を抜け、低い草木を掻き分け音のする方へ進むと、小さな泉があった。泉の周囲には、草がなく黄土色の地面が見えている。草で見えていなかった地面から木々が生えているようだ。くすんだ黄色い地面から悪い養分を吸い、黒く太い幹や枝や葉が悪魔の腕のようにぶら下がっている。僕は悪魔の剛腕のような木々よりも水を見ると、体が条件反射的に吸い寄せられた。人間の本能とはそういうものなのである。喉の渇きが限界を迎えようとしていた。水を飲もうと両腕で水中に手を入れる。
その瞬間、水面に映った顔を見て口から水が溢れた。顔が違うのである。正確に言えば、性別から人種からして違うのだった。顔は白系のロシア人女性であり、鼻高く、顔の彫りも肌の白さも、普段の自分とは全てが違う。何より純潔な日本人男性であるはずの自分の胸にふくよかな乳房がついていることが違和感の根源であった。
僕は、いやこの姿では私の方が正しいのか、私は普段から抱いていた身体的コンプレックスが淘汰されたと共に、新たな自分に生まれ変わったことに対する超越感・全能感が身体中を蛆虫が這い回るように浸透していく。
そして、数時間後には水面に映る自分の姿に対して、美しさを見出していた。幸い黒い森には誰一人として来ない。ありのままの私はエデンの園を手にしたのだ。アダムとイブが一つになった生命体が私。肉体と精神の異なる存在だったのが数時間前、今はもう精神も肉体も交わって人格を備えていた。神がこの世にいるのなら、私は感謝申し上げたいわ。木々と泉と私が三位一体となってこの自分の世界を祝福している。曇天の空も私にとっては晴天よ。泉のそばで佇む女神は、世界全体を見渡してそう確信している。
この世界に来た時に感じた孤独と肌寒さと違和感は、彼女の中で喪失していたのだ。曇天がやがて漆黒となり、黄色い大地に雨が降る。女神は黒い木々の傘に守られて、冷たい雨の音にじっと耳を済ませている。泉は幾ら雨が降っても絶対に溢れる事はなかった。
僕が私になって少し経ったころ、黒い木々に赤い果実がなった。私はその実を一口食べた。瑞々しい果肉はほんのり甘く、桃の香りが私の世界全体に漂っている。
欲情を呼び起こしそうな桃は、幾ら食べても旧約聖書のように追放される事はなく、何しろ世界に私しかいなかったから、神である私が排除される事はない。桃と泉があれば、私が世界の神でいる理由になりえた。
相変わらず、空は曇天のまま姿を変えない。
やがて、いつもと同じ夜がやって来る。鳥の囀りも神の福音も聞こえぬ静謐を湛えた空気感が私の世界に流れ込んでくる。
夜には空を覆う雲が消え、マゼラン星雲や天の河や空にある無数の星々が私の世界にやってくる。中でも、火星は赤銅色の大地を見せて、泉の水を分けてくれと言わんばかりに迫ってくる。そういう時には、少し水を分けてあげる。私の世界の中では、助け合って行かなきゃいけないもの。
水をあげると火星は嬉しくなって、ダンスに誘ってくれる。私もここにきてから、踊りが上手になったのよと冗談を言いながら星々が輝かせたステージに、私と火星が揺らめきながら踊っている。
私の世界には一人、私しかいない、でも夜になると真っ赤な火星が迎えにきてくれて踊る。夜が明けるまで踊り狂って世界の神という仕事に戻る。火星も自分の持ち場に帰っていく。星々も仕事を終えて眠りに着く。私は自分の世界に帰っても踊り続ける。
黄色い大地が少しずつ歪んでいく。それでも私は踊りつづけて足から出血する。それでも私は黒い森で炎のように舞い飛翔する。足元には、私の血と黄色い大地が交ざり合っていた。
一日中、踊り疲れ果てた私は死んだ様に眠った。泉が湧き出す心地よい音で目が覚めた。どれくらい眠っていたのだろう。曇天の空が徐々に紫や朱色がかっていることから、黄昏時くらいだろう。昨日は、馬鹿みたいに踊りすぎた。踊り続けたせいか足がひどく痛む。さらに足先の皮が剥けて所々血が滲んでいる。
今日は何もしたくないので、桃を食べて穏やかに過ごそう。私が住んでいた地球の神様も世界を作って七日目に休んでいた。私もそのくらいは許されるのではないか。世界の神なんだから、他の神が持ち得る権利を行使させていただくことくらい良しとしようかしら。喉の渇きを泉で潤し、草むらの上で寝転ぶ。
空には一面曇天と視界の半分は木々が占めている。僕が私になってから、世界を想像したり、自由気ままに神としての暮らしをしてきたが、人間とは違い誰かと会話する事がなくなった。それが唯一の神としての障壁かもしれない。今、どんなテレビ番組がやっているかとか、アニメ見たいなあとか些細な欲望はあるが、元々は一人でクラスの隅っこでいる様な性格、あまり支障はない。常に一人でいるからこそ、神になれたと思えば苦しくはない。何よりこの生活に慣れてしまったせいか、元の生活に戻る事が酷く億劫になっている心さえある。
やがて昨日と同じ夜になった。昨夜と同じ星々がステージ上で輝いている。
火星が私を誘いにきたが、今日は怪我しているからと断ると、そっか。と一言だけ呟いて、一人で楽しそうに踊っている。いつも火星と踊っていたので、気づかなかったが星のステージ以外にもたくさん輝いている星々はある。その中に綺麗な球体が宇宙空間にふわふわと浮かんでいるのを私は見た。その球体には、緑と青の翡翠に白い絵具がかかった様なその惑星の名前はある宇宙飛行士が、それでも地球は青かったという台詞に形容される水の惑星であった。私はどこか懐かしく思いながら、両頬を熱い水がとめどなく流れて黄色い大地を黒く濡らしていくのを止める事は出来なかった。
そうか、私は人間だったのだな。水の惑星で暮らしていた水滴に過ぎなかったのだなと。自分のちっぽけさを翡翠が近づく度に感じた刹那、唸る様な地響きが聞こえた。黒い木々が泉を中心として倒れてきていた。木々が倒れているというか、私の世界全体が崩れていくような感覚に襲われた。泉の水が漏れ出て、黄色い地面を潤していく。私の世界は徐々に崩壊している事が分かった。泉の水が染み出している部分には草も私の世界の外壁を成していた木々たちも跡形もなく消えていた。黒い地面、厳密には木々たちが腐って腐葉土のようになっていた。今まで維持していた世界や秩序は簡単に崩れ去る。私の世界の秩序はもうすでにここにはなかった。泉の水はコンコンと湧き続け、新たな世界を想像しようとしている事は分かった。しかも、今まで世界の秩序を守っていた私という存在を、淘汰した上で。私は、気が動転して落ち着かせるために、水を飲もうと屈んだ時、泉にうつった自分に驚愕した。僕を私にしていたものが、ボロボロと剥がれ落ちていた。表皮が落ちて、平安時代にいそうな重たい瞼に細い眼と貧相な体の僕がそこにいた。そこからはよく憶えていない。私の世界がゆっくりと崩壊する音が夜空の星々には、BGMに聞こえているだろうし、私は最後の私の体で踊った。地面がどれだけ抉れても、踊り続け世界の崩壊と共に僕の視界は暗闇になった。その瞬間、醒めた。見知らぬ天井。実際には、記憶から抜け落ちているだけなのだが。顔に違和感を感じる。何かが張り付いているようだ。むず痒いので鏡で自分の顔を見ると、包帯でグルグル巻きにされていた。包帯の結び目を解くと、そこにはあの白系ロシア人の顔が僕に張り付いていた。
<終>