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時間の止まった家

 20年ほど前のことだ。

 絵崎家が暮らしていたのは、地方都市にある平凡な一戸建てだった。山崎アトムの小学校にも近い住宅街だ。


 絵崎グリコは、学校の教員をしている両親のもとで大切に育てられた。中高一貫の女子校に通い、お嬢様ばかりの女子大に通い、男性社員のほとんどいない女性下着メーカーに勤務する。

 それが悪いこととは言わないが、20代半ばにして男性とまともに話も出来ないのは、そういった生育環境にも影響を受けていたのは間違いない。


 ある日のことだった。

 夕食後の団らんの場で、父親がグリコに告げる。


『グリコ。お前に紹介したい男性がいる』


 男性を紹介。

 そう聞いた瞬間、グリコの顔は茹で蛸のように真っ赤に染まり、頭の中は真っ白になった。口をパクパクと動かすだけで、父親の話も半分しか頭に入ってこない。


『彼は私の教え子でね。大学を出て、新任教師としてうちの学校に来たんだが。グリコの写真を見て、えらく気に入ったらしくてな。あまりに熱心に頭を下げるものだから、今度夕食に招待することにしたよ』


 なんのことはない。父親も、さすがに男性との交流を絶ち過ぎたと、少し後悔していたのだろう。


 結婚とまではいかないにしても、多少なりとも男と会話ができるようにしたい。言い方は悪いが、昔の教え子がいい練習台になればいい。父親はそんな感覚で、その男を家に招き入れたのだ。



「グリコさんって、男が苦手だったんですか」

「今でもそうですわ。初対面の男性と話をするのは、すごく緊張してしまって……」

「その割に、昨晩の誘惑はずいぶん──」

「そ、そそそその話はまたあとにいたしましょう。と、とにかく今は昔の話ですわ」


 顔を真っ赤にしたグリコをからかいたい気持ちをグッとこらえ、アトムは話の続きに耳を傾けた。



 絵崎家に現れた男は、千葉と名乗った。

 子供時代の写真は父親に見せてもらっていたが、当然ながらそのままの子供ではなく、大人の男の顔をしている。正直なところ、グリコは「やはり苦手ですわ」程度の感想しか持てなかった。


『千葉くんは昔から真面目でね』

『いやぁ、そんなことありませんよ』

『この通り器量もいい。ずいぶん女子にモテたが、デレデレしている様子は全くなくてな。硬派なやつだと感心したものだ』

『いやいや、まぁあの年頃は、男友達とゲームでもしてる方が楽しい時ですからね』


 小学生などそんなものだろう。ただ父親は、どうにか千葉とグリコの間を取り持つため、様々なエピソードを盛り気味に脚色して紹介していた。

 グリコの母親もまた、つとめて明るく千葉に話しかけながら、事前に聞いていた千葉の好物を食卓に出す。


『千葉くんは中華料理が好きなのよね』

『はい。母が生きていた頃はよく……あ……』

『どうしたの? 味、変だった?』

『い、いえ。この麻婆豆腐、母の味と似ていて』

『あら。お口に合いましたか?』

『すごく美味しいです!』


 千葉は悪い人間ではない。グリコも会話を聞きながらそう思ったし、男くさい顔にも少しずつ慣れてきてはいた。ただ、それでもこの日、千葉が帰るまで、彼女は終始無言を貫いていたのだった。


 グリコは少しホッとしていた。

 これまで見向きもしなかったが、男性というのもそう悪いものではない。それが分かっただけでも、この日は大きな収穫であったのだ。


 その一方で、両親は危機感を深めたらしい。

 まさかここまで男性に免疫がないとは、思いもしていなかった。父親とは普通に話ができるため、苦手と言ってもせいぜい軽い人見知りくらいだろうと高をくくっていたのである。



 その後、月に一度、父は千葉を家に呼んだ。

 三回目に彼が家に来たときには、グリコも挨拶程度の会話ができるようになっていた。それだけで、両親は大喜びだ。


 数ヶ月が過ぎる頃には、千葉の訪問頻度は週に一度程度になっていた。


 千葉もだんだん遠慮がなくなり、父とはゲームで盛り上がり、母には夕飯の献立までリクエストするようになった。グリコのすぐ隣に座ることも、いつしか当たり前の光景になっていた。


 悪い気はしなかった。

 まだ会話は長続きしないし、どうにも緊張して体が強張ってしまう。それでも、千葉がいる絵崎家のリビングは明るく、暖かく、楽しいと思い始めていたのだ。



──だから、天から落とされたような気持ちだった。



『あなた。グリコ。ごめんなさい。家庭のある身で許されることとは思っていません。それでも私は──絵崎ビスコは、千葉くんのことを愛してしまいました』


 家に帰ったグリコが見つけたのは、茫然自失の父。そして、無機質な封筒に入った、母の置き手紙だった。


『千葉くんは、初めてうちに来たときから、グリコではなく私に気があったそうです。ただ、いくらロボットの外見は若くても、中身はおばさんですから、お誘いもずっとお断りしていました』


 いつからだろう。

 千葉が母にアプローチをかけているなど、グリコは予想だにしていなかったのだ。


 手紙を持つ手が震える。


『あなたが悪いわけでも、グリコが悪いわけでもありません。千葉くんも悪くありません。全ては私の責任です。夫のある身でありながら、若い男性の熱意に絆され、関係を持ってしまいました。愛してしまいました。もう、一緒には暮らせません』


 父親の顔を見る。

 その目は何も映してはいない。


 ただ、吸い込まれそうな空虚な闇だけがそこにあった。


『絵崎の姓は、ここに置いていきます。これまでありがとうございました。ごめんなさい。 ビスコ』


 薄暗く、冷え切った一軒家。

 絵崎家の時間は、そこで止まった。




 グリコはアトムの顔を見返しながら、寂しそうに微笑む。


「アトムさん、変な顔になってますわ」

「いや……あの。なんと言ったらいいか。絵崎先生とグリコさんに、そんな過去があったなんて」

「ふふふ。20年前なんて、昔のことですわ。まだアトムさんも生まれていなかった頃ですし」


 そう、アトムにとっては、生まれる前の出来事である。

 仮にだが、逃げた元奥さんと男の間に子供ができれば、アトムの同級生になっている可能性すらあるだろう。


「あれ以来、父は変貌してしまいました」

「変貌……?」


 グリコはグッと背伸びをすると、線路に降りたつ。


「そろそろ行きましょう。続きは、歩きながらでも」


 そう言って、グリコはくるりと背を向けた。


 今、彼女の顔は見えない。

 アトムは黙ってその背を追った。


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