ゆっくりしていきなさい
絵崎先生は、小学二年生の時の担任だった。
みんなから「おじいちゃん先生」と慕われていて、アトムもこれまでいろいろとお世話になっている。定年を迎えた際には、ささやかながらお祝いを送ったりもしていた。
人生に悩んでいた時期。特に中二の時のあの事件以降は、ずいぶんと相談に乗ってもらったものだ。そんなことを思い出しながら、アトムは先生の住む街へとやってきていた。
時刻はもうすく昼になるところ。いつもなら大学に行っている時間ではあるが、今は当然そんな場合ではない。
「それにしても……近かったな。二駅しか離れてなかったのか」
アトムの一人暮らしと同時期に先生も引っ越したと聞いていたが、これほど近くに住んでいるとは思いもしなかった。娘さんとの二人暮らしには、もとの一軒家は広すぎたと言っていたが。
早朝、先生に連絡したときには、あの頃と変わらない穏やかな口調で「どんな相談かは分からないが、とにかくうちに来なさい」と言ってくれた。それだけで、アトムはなんだか救われたような気持ちだった。
『アトムくん、今日は休み?』
『うん。本体が少し体調崩しちゃって、少しの間休むことにするよ』
森永ココアには大学を休む旨を伝えた。
死体が見つかるまでは、体調を崩したという名目でやり過ごせばいいだろう。
ちなみに古い漫画なんかでは、恋人が風邪などを引くと決まって『お見舞いに行く』というイベントが発生するが、アトムの世代ではありえないことである。
コピーロボットがいれば自分の世話は自分でできるし、なにより恋人に本体の姿形を見せるというのは、彼らの世代の「恋人が破局する理由・第一位」なのである。
「あとは、絵崎先生が味方になってくれたらいいんだけどな……あんまり無理は言えないか。相談には乗ってくれると思うけど」
どう話を持っていくのがいいか。
もちろん先生に頼りきるつもりはないが、今後の生き方を決めかねている現状では、少しでも先生の意見が──何かしらの指針がほしい。アトムは藁にもすがる思いだった。
ここに来るまでに念のため、先生の協力を得られなかった時の逃げる準備も済ませてはある。活用する場面がないことを祈るばかりだ。
アトムはとりとめもなく思考を巡らせながら、見慣れない道をとぼとぼと歩いていった。
古いマンションの5階。
先生の家で出迎えてくれたのは、綺麗なお姉さんだった。
長い黒髪、春物のワンピース。凛とした中にも柔らかい雰囲気を持っていて、いわゆる「清楚」をそのまま形にしたような女の人だ。
雰囲気に飲まれ静止するアトムを見て、彼女はクスリと笑う。
「あら。あなたが山崎アトムさん?」
「ご、ご挨拶が遅れました。山崎アトムです」
「絵崎の娘のグリコと申します。父から聞いておりますわ。どうぞこちらへ」
コピーロボットだと分かっていても、美人が微笑むのを見るのはなんだかドキドキしてしまうものだ。アトムは少し緊張しながら、なんでもない風を装って進んでいく。
「アトムさんはずいぶんとロボットの見た目を弄っていらっしゃいますのね」
「うっ……前にどこかでお会いしましたっけ」
「いえ、父の写真で。わたくしとしては元のアトムさんの顔立ちも嫌いではありませんのに」
「……お、お恥ずかしい」
絵崎先生の娘、グリコ。彼女はクスクスと小さく笑いながら、花のような香りを漂わせてゆっくり歩く。華奢な後ろ姿は、強く抱きしめれば折れてしまいそうだった。
「アトムさんの話は、父からよく聞いていました。中学生のときに、家出をなさったんですって?」
「はは、そんなこともありましたね」
「うふふ、なかなかできることじゃありませんわ。後ほどゆっくり話を聞かせてほしいのですけれど」
アトムは気恥ずかしくなって頬をかき、ふぅと息を吐く。そして、そろそろ落ち着けと自分に言い聞かせた。
絵崎グリコの見た目は、二十代前半の美女だ。
ただ、既に定年を迎えている先生の娘ということであれば、おそらく実年齢は四、五──。
「こ、こほん」
小さな咳払いに、アトムは少し飛び跳ねた。
年齢のことを一旦頭から追い出す。思考を読まれているわけではないだろうが、どことなく視線にトゲがある気がする。
「アトムさん」
「は、はい」
「めっ! ですよ」
「はい……」
……読まれていたらしい。
ちなみに女性のコピーロボットに対し、実年齢について言及するのはご法度だ。過去にはセクハラで塀の中に放り込まれた人もいるとかいないとか……。
「さて、ここが父の書斎ですわ」
「あ、ありがとうごさいます」
「ふふ。ゆっくりしていって下さいね」
アトムが頭を下げると、彼女は少し微笑んで去っていった。
息を吐き、気を取り直す。
書斎の戸を叩くと、入りなさい、という懐かしい声が響いた。
さほど大きくはない部屋。
正方形のテーブルに、先生と向かい合わせに座る。
「やあ、アトム。元気にしとったか」
しわがれた声でアトムに微笑みかける。
髪はずいぶんと抜け落ち、肌もシワシワ。記憶にある先生よりもかなり老け込んだように感じるが……何かあったのだろうか。
「先生は……」
「ずいぶん歳を取ったように見えるだろう。定年を迎えてやることがなくなったら、急に老け込んてしまってなぁ、ははは」
絵崎先生は穏やかに笑い、お茶を啜る。
その仕草は、やはりあの頃の先生のままだ。
「そうそう、この体は生身なんだよ。私の若い頃は、まだコピーロボットなんてもんはなかったからなぁ。定年したら、どうにもロボットというものが窮屈になってな。処分してしまったんだ」
なるほど、老けて見えるわけだ。
どうやら病気のために体のあちこちを機械に置き換えているらしいので、生身と言うより機械化人体と呼んだほうが実態と合っているかもしれないが。
「あのアトムが、もう大学生か……時が経つのは早いな。私も老いるわけだ」
軽く雑談をしながら、なんとはなしに部屋に飾られている写真を見る。
先生は本にしても写真にしても、デジタルよりアナログなものを飾るのが好きらしい。なかなか渋くてお洒落な趣味だ。
「君らの世代には、退屈な部屋だろう」
「いえ、大人の男のお洒落な部屋って感じですね。格好良いですよ」
「ふむ、持ち上げても成績は上げてやらんぞ?」
「ははは、懐かしいですね、そのセリフ」
担任だった時に良く言っていた言葉だ。
絵崎先生はイタズラっぽい目で笑う。
アトムは少し気が抜けて、テーブルに腕をつきながら近くにある写真をなんとなく見た。多くは学校での生徒たちとの写真だが、その中に一枚、家族写真らしきものがある。
「あれは、奥さんと娘さん……ですか」
「あぁ。20年ほど前の写真だな」
写真の中の先生は、今よりもずいぶん若い。
一方、娘さんは今と変わらない外見に見える。
「ふふ、グリコの……娘の歳が気になるかね」
「あ、いえ」
「くくく……この場で遠慮する必要はないぞ。グリコもいないことだしな。正直にいこうか」
そう言って楽しそうな顔になる。
写真立てを手に取り、少し微笑んで、人差し指を一本立てた。小学生の頃にも、授業の合間によくこんな仕草でいろんな雑学なんかを教えてくれたものだ。
「女、と一括にするのも最近だと怒られるがね。彼女らはどうにも、若作りをしていないと生きていかれない生き物みたいだよ。歳相応の美、というやつもあると私は思うのだがなぁ」
先生の言葉に一応頷きながらも、アトムは内心唸る。
世代間にある感覚の不一致だろう。
アトムたち、いわゆるコピーロボット世代では「加齢による美」という感覚はあまり馴染みのあるものではない。
見た目を弄るにも限度というものはあるが、自分の最も魅力的な年齢の姿で生活する程度であれば、さほど後ろめたさを感じる必要はないだろう。肌感覚だが、アトムのまわりではそう考えている者が多いように思う。
だが、先生は忌々しそうな顔で吐き捨てるように言った。
「問題は多い。プロポーズした相手が老婆だった、などという悲惨な話も聞いたことがあるがな。まぁ、周囲にとっては笑い話だが……実際のところ、見た目を偽ることは、長い目で見たときにデメリットの方が多いのではないかね」
「はぁ……そんなものですかねぇ」
アトムとしても、見た目をかなり弄っている自覚があるため、なんとなく気まずい。曖昧に頷きながら、椅子に座りなおす。
「娘のグリコもなぁ、歳相応の見目にすればいいと私は思っているのだよ。なぁ、アトムもそう思うだろう?」
「あー……まぁでも、グリコさんは綺麗ですし。俺は別にあのままでも──」
それは、微かな違和感だった。
アトムが首を横に振る。
そのたび、少しずつ絵崎先生の様子が変わっていく。
「なぁ。そう思うよなぁ」
「えっ……」
「偽った見た目など、害悪だよなぁ」
「あ、いや……」
先程まで穏やかだった先生の顔に、少しずつ怒りのような感情がこもり始めていた。
「思うよな、アトム」
「あ……」
「……そう思うだろう?」
「まぁ、はい」
不穏な気配を感じたアトムは、ひとまず素直に話を合わせることにする。
「あははははは。やはり、そうだよなぁ、アトムもそう思うよなぁ、あははははははははははははは。整形や若作りなんてもんはなぁ、ひひひひひひひひ、偽物の人生を生きているようなもんだって思うだろう? ひひひひひひひひ──」
先生は突然、狂ったように笑い出す。
アトムは混乱していた。
その顔は……この笑い方は、アトムの知っている絵崎先生のものではなかったのだ。
何かがおかしい。
ここにいてはいけない気がする。
急に寒気がしたアトムは、この家を去ろうと、椅子から腰を浮かせた。
「おや、どうしたアトム」
「少し、用事を思い出しまして」
「おいおい、そんなに急ぐこともないだろう」
そう言った絵崎は、すぐ隣にやってきてアトムの肩に手を置く。
「……ゆっくりしていきなさい」
──バチッという電撃音。
アトムの意識は、一瞬にして黒く消えた。