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狂人の後悔

『さて、お主は誰を見捨てる』


 ゆっくりと近づいてくる爆弾列車。

 アトムは自らの選択によって、進行方向にいる誰かを見捨てなければならない。何もしなければ、見知らぬ大勢が死ぬ。レバーを引けばココアとグリコが死ぬ。


 悩んでいる時間はない。


『どうする山崎アトムよ……ん?』


 アトムはレバーに手をかけた。


──思い切り、それを倒す。


 これで、爆弾列車はココアとグリコのもとに向かう。


『まさか、愛する二人を見捨てるのか。まぁ、それも選択じゃろうが、お主がそちらを選ぶとは思わなかったぞ』


 富士博士の言葉を背に、アトムは走る。向かうはココアとグリコ、二人のもとだ。

 考える時間はなかった。だから、アトムはとっさに思いついた行動に、心のままに身を任せることにしたのだ。


 助けられてばかりだった。

 アトム自身が考えて乗り越えたことなどほんの僅かだ。グリコの助けや優しさがなければ。ココアの思考や行動がなければ。アトムはとうの昔に富士の手に落ちていただろう。


 だから今度は、自分の手で決断する。


『愚かなり。今から二人のもとに走っても、救出は間に合わんぞ。強固な鎖は決して解けん』


 そんなことは分かっている。

 アトムは心の内で答えながら、全力で走った。



 二人のもとへとたどり着く。

 猿轡を外すが、ココアもグリコもずいぶんと慌てた様子だ。


「アトムくん、逃げて」

「電車が来ます、アトムさん」


 最後までアトムを心配する言葉。

 それは何より嬉しいものだった。


 一度振り返り、迫ってくる列車を見る。向き直ると、心の底からの笑みを浮かべ、二人の手をとった。


「ありがとう。ココア。グリコ。二人とも大好きだ。だから……ごめん。一緒に死んでくれないか」


 アトムは二人の手を強く握った。

 ココアは涙をポロポロとこぼしながら、まったくもう、と笑った。グリコは優しく微笑みながら、仕方ないですね、と言った。


『愚か者っ! そんな選択が──』


 富士博士の焦った声。

 そして。


──大きな爆発とともに、地下の一画は崩れ去った。






 なぜ自分が生きているのか。

 アトムがまず思ったのは、そんなことだった。


 体のあちこちが上手く動かない。隣には、同様に倒れ伏しているココアとグリコが見える。だが、あの列車の爆発に巻き込まれたのに、体がバラバラになっていないのは驚きしかなかった。


「気づいたか、アトム」


 その声に、顔を上げる。

 それは、何度もアトムを励ましてくれた声。どんなに裏切られても、最後の最後でどこか信じてしまいたくなる声。


「絵崎、先生……」

「ふん。そんな顔で見るな」


 どんな顔を向けていただろう。

 アトムはかろうじて動く左手で、自分の頬を触る。


 絵崎は壁によりかかるように座り込んでいた。以前斬られた体も、今は別モノのように見える。おそらく生身なのは、首から上だけなのだろう。


「絵崎先生が助けてくれたんですか?」

「まぁ、結果としてはな」

「そっか、やっぱり先生は……」


 裏切っていなかったのか。

 そう言おうとしたアトムを、絵崎は片手で制する。


「だから、そんな目で見るな。私は、そんなに良いモノじゃない……ただの狂人だ。間違っても、私みたいな教師になろうだなんて、思ってはいけない」


 様々な疑問が頭をもたげる。

 どうやって助けてくれたのか。これまでの行動の真意は。どこまで味方で、どこまで敵なのか。


「ゆっくり話していたいが、残念ながら時間がない。アトム、君の手元にある布袋は、私からの土産だ。君の知りたいことの多くは、きっとそこにある」


 動かない右手の先に、かさりと触れるものがあった。

 これは、一体何なのだろうか。


「アトム。私は自分の外道な行いのほとんどを、悔やんではいない。狂ったり正気に戻ったりを繰り返しているが、同じ状況に陥っても、やはり同じ行動を選択するのだろうと思う……ただ、な」

「はい」

「一つだけ、後悔していることがある」



……それは、20年近く昔の話。


 絵崎が妻に逃げられ、グリコに縋って生きていた頃のこと。


『お父様。昼間から深酒は体によくありませんよ』

『……あぁ。分かっている』


 そう言いながら、絵崎は酒を飲み続けていた。

 辛い現実から目を背けることでしか、日々を乗り越えていくことが出来なかったのだ。ただひたすら、空虚な毎日が続いていた。


 だが、そんなある日。

 驚くべきことが起こった。


 なんと、妻が家に帰ってきたのだ。

 恨み言もある。叱り飛ばしたい気持ちも、今すぐ野外に放り出したい気持ちもあるが……それより何より、絵崎は純粋に嬉しかった。やはり、あんな若い男となど、長続きするはずがない。


『酔っていらっしゃるんですか?』

『い、いや、少しだけな。さすがに昼間から泥酔するほどは飲まんさ。そ、それより……』


 絵崎は妻を抱きしめた。

 若い男にさんざん抱かれたのだとしても、広い心で許そう。戻ってくればもう、妻は自分のものだ。人肌恋しい惨めな夜も今日でお終いなのだと思うと、体の一部に血が滾った。


 だが、妻は身をよじって逃げる。


『や、やめてください!』

『大丈夫だ、許してやるから』

『お願いです、正気に戻って、だめ……!』


 揉み合っている内に、絵崎の感情は変化する。行き場のない情欲は暴力となり、愛は憎しみとなった。無意識のうちに、彼は強い力で妻の首を絞めていた。



 霧が晴れるように、突然頭の中がクリアになる。

 やってしまった。殺しまでするつもりはなかったのに。そう考えながら、眼下で動かなくなった妻を見る。


──妻ではない。殺してしまったのは、娘のグリコだった。




「なぁ、ろくでもないだろう、アトム。お前が憧れた絵崎は、こんな男だ。教師になりたいのは勝手だが、私のようにはなるんじゃない」


 絵崎はゴホゴホと咳き込む。

 その拍子に、地面に血が飛び散るのが見えた。


 アトムは大きく目を見開く。


「先生っ!」

「……私は過去4回……いや、5回。山崎アトムの体を分解した。だがその時、一度たりとてお前が抵抗したことはなかった……今のお前のような、信頼に満ちた不快な目でな。いつだって私のことをまっすぐ見つめるんだ」


 絵崎は静かに目を閉じる。

 口元には小さな笑みが浮かんでいた。


「グリコの一部になれるなら。先生の手で分解されるなら。残念だけど悔いはないと、お前はいつだってそう言った……私はお前を、騙していただけだったのにな」


 アトムは絵崎に手を伸ばす。

 だが、届かない。


「グリコを……頼む……」


 そう言ったきり、絵崎は動かなくなった。

 アトムは声にならない叫びをあげながら、必死で手を伸ばし続けた。


 遠くから駆け寄ってくる黒い忍者装束。

 それを目の端に捉えながら、アトムの意識は闇に溶けた。


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