最悪の状況
走る。走る。ひたすら走る。
眠らない街。
人の少ない裏通りに、荒い息遣いが響く。
「……くっそ。なんなんだよ」
山崎アトムは、地味な男だった。
男にしては身長も低く、見目もパッとしない。高校までの同級生に聞いても「勉強はそこそこできたんじゃない?」といった程度の印象だろう。
大学に合格して、一人暮らし。
初めて恋人ができて、彼の人生はようやく花開いた。
……そう思っていた矢先の、死。
本来であれば、自分の本体が死んでいるのを確認した場合、速やかに警察に届け出る必要がある。だが、頭ではわかっていても、今すぐに受け入れることは難しかった。
アトムは無心で走り続ける。
「はぁ……はぁ……くっ……」
人工心臓が暴れ、人工肺がズキリと痛む。
コピーロボットの人工人体は、おおむね生身と同様の感覚を持つよう調整されていた。これは、痛覚や疲労感などといった体感覚へのフィードバックがある程度リアルでないと、記憶同期をしても「自分の記憶」と認識できないのが理由だ。
現実感を伴わない記憶は、例えるなら「夢を見た」「映画を見た」といった感覚に似ている。
ただ、今のアトムにとってはリアルな体感覚など不要なはずである。なにせ、記憶を書き戻す生身の体が、もう存在しないのだから。
そうやって現実を考えるほどに、胸の苦しさは増すばかりだった。
どれほど走っただろうか。
気がつけば、アトムは見たこともない路地裏にいた。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
呼吸を整えながら、ビルの外壁に寄りかかる。
そして、周囲から身を隠すように座り込んだ。
「俺は……死んだのか……俺は……」
震える膝を両腕で抱え込む。
とにかく、今の状況が最悪である、ということだけは間違いない。
子供でも知っていることだが、生身の体に異常があった場合、コピーロボットは速やかに警察に届け出る必要がある。
雑に言えば、交通事故と同じような扱いだろう。
事故には交通課の警察官が対応するように、コピーロボット関連の事案では義体課の警察官がしかるべき対応をしてくれる。事件性の有無を調べ、事実関係を明らかにし、法の下にロボットの処遇を決めるのだ。
アトムも本来なら逃げるべきではなかった。
正確には「逃げる意思を持てない仕組み」になっているはずなのだが、どういう訳かアトムは逃げ出すことができてしまった。
「くそっ……大人しく処分されてたまるか」
微かな違和感、事件の真相、これからの行動。
アトムは両手で顔を覆いながら、思考の海に沈み込んだ。
どのくらい時間が経っただろうか。
何やら言い争うような騒がしい声が耳に届き、アトムはそっと顔を上げた。
「やめて……やめてくださいっ!」
怯えたような女性の声に、男二人の下品な笑い声が重なる。
「こんなデカ乳ぶら下げてよ、誘ってんだろ?」
「へへへ、大人しくしてなよ。別に壊そうってワケじゃねぇ。ちいとイイ思いをさせてもらおうってなだけさ」
痴話喧嘩、といった甘い空気ではない。
どうやら二人のチンピラが一人の女性を押さえつけ、一方的に暴行を加えようとしているらしい。
コピーロボットが広まったきっかけは、アイドルの暴行事件であった。記憶を同期しなければ、被害者は事件を「なかったこと」にできる。それ単体で見れば、彼女の人生を救うものだろう。
だがそれは、暴行事件自体の「抑止力」になるわけではない。
パン、と頬を張る音。
「そろそろ黙れ、女」
海外ほどでないにしろ、日本でも「記憶を上書きすればいいのなら、ロボット相手に何をしてもいい」という考えを持つものが一定数おり、暴行事件の発生率は年々増加していく一方だった。
男は笑いながら女を殴る。
そんな音が何度か続く間、アトムは息を潜め、ときおり様子を伺いながらじっとしていた。助けなければという義憤より、恐怖のほうがはるかに大きい。
「へへ、この乳だいぶ盛ってるんだろうねぇ」
「やめろって……言ってんだよっ!!!」
「うわっなに──」
──次の瞬間、男の絶叫が響き渡った。
音だけを聞いているアトムには状況が掴みきれないが、おそらく女性が何かしら反撃をしたのだろう。男の一人はうめき声しか発さなくなった。
「このクソアマ、やりやがった──」
「うるさい。お前のも噛みちぎってやる」
アトムは微動だにせず、耳を傾ける。
やがて聞こえてきたのは、何かが折れる音。潰される音。もみ合い、男女ともに叫び声をあげながら、互いに相手を壊そうとし暴れ続けている音……。
「くっそ……女ぁぁぁ!」
なにせ替えのきくロボットの体だ。
格闘技にしても喧嘩にしても、ひと昔前よりずいぶん過激化していると聞いたことがある。女性が非力だというのも前時代的な感覚であって、今の世の中では単にロボットの性能の話でしかない。
アトムはただ震えていた。
気づいたのだ。
彼の本体は死んだ。トラブルに巻き込まれてこの体を壊されれば、もうそれでお終いなのだと。
勝利した女は、男二人の残骸をかき集め、その場を去っていった。暴行事件の証拠として警察にでも持ち込むつもりなのだろう。
静かになった路地裏で、アトムは再び膝を抱えた。
「考えろ……考えろ……」
思えば、うかつに行動しすぎた。
可能な限り生き延びる道を選ぶのなら、もっと考えて、準備してから行動すれば良かったのだ。
「本体が発見されたら……騒ぎになるよな。警察にも追われる。その前に、どうにか生きる方法を見つけないと」
左手首の文字盤をタップする。
追い詰められた状況で、誰か味方が欲しかったのかもしれない。半分以上無意識の行動だった。
空中に浮かぶ連絡先リスト。
ひとつの名前に指を止める。
「森永、ココア……」
付き合って一ヶ月になる、彼の恋人。
彼女は味方になってくれるだろうか。
普通に考えれば、無理だ。
本体のいないコピーロボットは、一般に気味の悪いものとして扱われている。見つけた場合、即座に通報することも義務付けられていた。
それでも……。
『コピーでいいからそばにいて欲しかった』
彼女の言葉を思い出す。
もしかすると助けてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、アトムは頭を左右に振る。
「ココアに迷惑はかけたくないな」
なにせ付き合ってまだ一ヶ月なのだ。そもそも協力してくれるかは置いておいても、彼女にこれから待っている輝かしい人生を棒に振らせるわけにはいかないだろう。
「それを言ったら、誰にも頼れないけど……」
ボヤきながら、連絡先リストを指でスライドする。
人となりをよく知っていて、信頼できる人。
実家の両親を頼る気にはなれないし、付き合いの浅い友人たちもきっと協力してはくれないだろう。
一つの名前に手が止まる。
「……絵崎先生、か」
それは、小学生の時の担任であり、アトムの人生の師とも呼べる教師の名前だった。