恋する乙女
絵崎グリコの寝顔は穏やかだった。
アトムはエナジーゼリーをシリンジに入れ、グリコの鼻に刺さった管から注入する。意識のない状態でもエネルギーを補給できるよう、管の先は胃にまで到達していた。
彼女の手当をしたのは、森永ベイクだった。
折れた右足のパーツを交換し、全身の細かい傷跡を修復して、動作維持のために必要な栄養管などの取り付けをする。本業のような慣れた手付きだとアトムが褒めると、ベイクは笑いながら首を横に振った。
『修理技師ってほどのスキルはねぇがよ。探偵なんてやってると、いろんなことを広く浅く知っとく必要があるんだ』
可能な限り修復はしたが、今も絵崎グリコは目覚めない。この先どうなるかは、誰も予測できないでいた。
グリコから好意を向けられている、という贅沢な悩みに結論を出すのは、先送りにしていた。なにせアトム自身の人生もままならないし、グリコも目覚めない。ちゃんと向き合うにしても、今はまだ無理だと思っていたのだ。
「ココアのことはやっぱり好きだ。もし生きていく方法を見つけたら、一緒にいたいと思ってる」
それは、アトムの本心だった。
グリコと恋をした記憶は、今のアトムにはない。それは別の山崎アトムのものであり、今はもう失われてしまったものだ。
「グリコと恋をしたのは、俺じゃない。だけどさ……苦しいんだ、グリコの顔を見てると。記憶なんて、思い出なんて、何もないはずなのにな」
そう言ってグリコの頭を撫でる。
アトムの記憶にない、空白の時間を想う。
「落ち着いたら、ちゃんと考えるから。納得のいく答えが出せるように。だから、ゆっくり休んだら……ちゃんと目覚めてくれよな」
アトムは、おやすみ、と声をかけ部屋を出た。
眠ったままのグリコの目から、一筋だけ涙がこぼれた。
アトムの布団にココアが入り込むのは、いつも深夜のことだ。
彼女は家の奥で本体との記憶同期を行い、終わったあとにアトムのもとにやってくる。アトムが起きていれば少しじゃれ合うこともあるが、たいていは寄り添って眠るだけだ。
その日、アトムはなんだか眠れずに、グルグルと考えごとをしていた。
「アトムくん、起きてたの?」
「ココア。あぁ、少しな」
布団に入り込む柔らかい体。
抱きしめ合い、あちこちを触り合ってじゃれつきながらも、アトムは考えるのをやめられない。その様子に、ココアは彼の頭を自分の胸に抱え込んで頭を撫でる。
アトムが考えていたのは、古いアトムのことだ。大学入学前にロボットを買い替えた際、廃棄処分になったはずの古い体。
ココアの柔らかい胸に挟まれながら、アトムは頭の中に渦巻いているものをゆっくりと吐き出す。
「前の俺のことを考えてたんだ」
「……うん」
逃げ出した前アトムは結局、絵崎のもとに行くことはなかった。となると、次にとる行動は何か。頼る相手は誰か。
「たぶん……前の俺は、自分自身に頼ろうとすると思うんだ。つまり、山崎アトム本体に。ロボット買い替えの時にはアパートの契約も済んでいたから、住んでた場所も知ってる」
アトムは想像する。
ようやく窮屈な実家を出られることに胸を躍らせ、自分で貯めた金でイケメンのコピーロボットを注文した。あの頃は、大学生生活への期待感で、夜も眠れぬほど興奮していた。
新しいコピーロボットが来た。アトム本体は喜び、何も考えずにロボットを交換したのだ。
義体処理場に送られた古いアトムはきっと、天国から地獄に落とされた気分だったろう。なぜ自分なのか。同じ記憶を持っているのに、期待に胸踊らせていたのに、相手は生き続けて自分は死ぬ。
その後、やっとの思いで処理場から逃げた。そこで元の自分自身、山崎アトム本体に頼ろうとしたのだとして。
好きなだけゲームに興じる自堕落な本体を見て、そして、人生初の恋人ができたことに浮かれている新しいコピーロボットを見て、彼は何を思っただろうか。
「辛かったろうな……と、思う。自分が手に入れるはずだった人生を、同じ記憶を持ってるだけの『誰か』が歩んでいる。理性ではさ、自分がコピー側だって分かるよ。でも、そんなの何の慰めにもならないだろ」
いっそ、自分の手でアトム本体の息の根を止めてやる。そんな風に自暴自棄になってもおかしくないかもしれない。アトムはそう思い始めていた。
話を聞いていたココアは、アトムの頭を撫でながら小さく息を吐く。
「……ねぇ、アトムくん」
「ん?」
「アトムくんは、私たちが初めて会った時のこと、覚えてるかな」
突然のココアの問いかけに、アトムは少し躊躇してから答える。
「新入生交流会、だよな」
「違うよ、もっと前」
ココアはそう言って、アトムの頬を両手で掴むと、イタズラっぽい目で覗き込んだ。
「……受験の時にも会ってるでしょ。顔をイケメンにして身長をニョキニョキ伸ばす前の、ちょっと地味めなアトムくん」
「あー…………」
アトムは頭をかいた。
彼女の言うとおり、二人の出会いは受験時だ。だが、自分の容姿に自信のなかったアトムはそのことを言わず、イケメンになってからのアトムの姿しかココアには見せていないつもりだったのだ。
「その……いつから気づいてた?」
「もちろんずっとだよ。ひと目見て、あの時の男の子だいぶ顔を弄ったんだなーって思ったもん。それに、初対面って顔して話しかけてきたわりには、私の好物しっかり覚えてたりとかね……ちょっと笑っちゃったよ」
「え、えぇぇ……」
イケメンになる前のアトムを覚えていたことも、正体にすぐに気づいたことも、その上で恋人として交際してくれたことも、アトムにとっては全てが驚きだった。
「はぁ、さすが名探偵」
「違うよ。恋する乙女は鋭いの」
「へ?」
「私はあの時から、ずっとアトムくんが気になってたよ。同じ大学に入れたら、すぐに話をしてみようって決めてたんだから……アトムくんから話しかけてくる方が早かったけどね」
ココアは赤い顔を隠すように、アトムの肩に埋めた。
「私はあの時のアトムくんを知ってるから、破棄されたロボットとはいえアトムくん自身が犯人だとは思えないんだよね」
それほど前のことではないのに、ずいぶん遠い出来事に感じる。そんなことを思いながら、二人は出会った時のことを話し始めた。