虚実
「さようなら、山崎アトム」
そんな言葉とは裏腹に、小池ポテチはスタンロッドから手を離した。
カランと音を立て、床に落ちるロッド。
両手を広げ、微笑むポテチ。
絵崎グリコは大きく一歩踏み込む。
その足運びは武術の達人のようだ。体を捻り、全身のバネを極限まで縮める。次の瞬間、無駄のない動きで右腕を突き出した。
──鉄拳。
ポテチは避けない。
受け止め、飛ばされ、後方のコンクリート壁を破壊する。
「グリコさん、これは……」
「逃げますわよ。組織の者が来る前に」
アトムは混乱したままであったが、グリコに手を引かれるまま、地上に繋がる階段を駆け上っていった。
日は随分と傾いていたが、ずっと暗闇にいた二人にとっては眩しすぎる。フルフェイスヘルメットを被ると、手を取り合って走った。
「廃墟……」
「どうしたんですか、アトムさん」
「いや……何でもない」
階段を上った先は、廃墟だった。
ちょうど、中学生の頃に家出をしたときにも、こんな雰囲気の廃墟で爆発に巻き込まれたんだったな。そんなことを思い出しながら、アトムはその場を急いで離れた。
「ポテチさんは、俺たちを逃してくれた……ってことで、いいんだよな」
「えぇ、そうです。ポテチちゃんの通信端末は、本部と繋がったままでした。あの会話もずっと聞かれていたため、手振りだけでわたくしに合図を送ってきましたの。『殴って逃げろ』って」
山道を下りながら、先程のことを話す。
グリコがポテチのことを全力で殴り飛ばしたのも、手加減をしてあとで演技がバレるのがマズいから、ということらしい。
「やっと落ち着けると思ったんだけどな」
「すみません。わたくしも、どうしてこんな事になったのか、皆目見当がつかなくて……」
「いや、グリコさんが謝ることじゃないよ」
ホッとした矢先に再び追われる身になるのは、精神的にも辛いものがあった。現状では、グリコが味方でいてくれるという一点のみが救いだ。
「でも、良かったのかな」
「何がですか?」
「いや、俺と逃げたら……グリコさん、ファントムに戻れなくなるんじゃ」
アトムの言葉に、グリコは小さく笑いを漏らす。
「でしたら、責任を取ってください」
「責任……?」
「えぇ、責任」
そう言って、アトムの手をキュッと握る。
「わたくしが心に決めているのは、後にも先にも、山崎アトムただ一人です。逃げて逃げて、逃げ延びた先で──どうかわたくしと、生涯を共にしてくださいませ」
その回答は、今すぐには出来ない。頭に浮かぶのは、森永ココアの顔だった。落ち着いたらゆっくり考えよう。
無言のまま難しい顔をしているアトムを見て、グリコは少し寂しそうな笑みを浮かべた。
山を下りると、そこは見慣れた街だった。
なんだかんだと逃げた挙げ句、結局はアトムの自宅のある街に帰ってきてしまったようだ。
「まさか、戻ってきただけかよ……」
「仕方ありませんわ。街中で今の服装は目立ちますし、どこかで普段着を入手して──」
そう言って、街に向かおうとした時だった。
物陰から現れる、幾人もの影。
それらは皆、アトムやグリコと似たような服装をしている。フルフェイスヘルメットを被り、手にはスタンロッド。それをこちらに向けながら、巧みに逃げ道を塞いでいる。
「ファントム……」
ざっと二十人はいるか。
いつから追いつかれていたのかは分からないが、捕らえづらい山中を避け、逃げ道のないこの場所で追い込むことにしたのだろう。
ある程度覚悟はしていたのだ。
このまま何事もなく逃げられれば良かったのだが、そうはならない予感があった。無計画に家出をした中学生のあの日から、行き当たりバッタリの行動がろくな結果を生まないことも分かっていたつもりだった。
アトムは背中からスタンロッドを取り出す。戦いなどしたこともないが、何もないよりマシだろう。
「山崎アトム。投降しろ」
男の声が響く。
アトムは大真面目にロッドを構え直すが、へっぴり腰の姿が可笑しかったのか、失笑が漏れ聞こえてくる。
男は手を振り、皆を沈めた。
「ロッドを下ろせ。お前に逃げ道はない」
アトムは覚悟を決めた。
隣のグリコをちらりと見たあと、男を真っ直ぐ見る。
「条件がある」
「ふん、交渉できる立場か」
「できるさ」
アトムはポケットに手を入れ、それを取り出した。
ロボット用手榴弾。
記憶が正しければ、爆発と同時に強烈な電磁波や強酸を撒き散らし、コピーロボットを修復不能に追い込む。警察がテロ鎮圧のために開発した武器だ。
絵崎家の倉庫で着替えている際に見つけ、何かに使えると思ってこっそりポケットに忍ばせておいたのである。
「どうせ俺を破壊するつもりなんだろう。このまま捕まるくらいなら、何人かは道連れにしてやる」
「貴様……!」
「だけど、条件次第では大人しく壊されてやってもいい。ここからが交渉だ」
アトムの予想通り、手榴弾の効果はてき面だった。
これが警察相手であれば、ここまでの効果はなかっただろう。なにせ、警察官には遠くで安全に暮らしている本体がいる。替えのきく体であれば、捕縛のため躊躇なく突っ込んでくるところだ。
一方、ファントムのテロリストたちには本体がない。今のアトムと同じく、破壊されればそれで人生が終わりになるのだ。彼らは、捨て身のアトムに近づくことを極端に恐れているようだった。
「…………条件を言え」
奥歯を噛むような男の声。
アトムは斜め前に立つグリコを見る。
彼女にはおそらく、アトムがまだ知らない事情があることだろう。それでも、この絶望的な状況で、最後まで味方として隣に立ってくれることには感謝しかない。
「俺の条件は一つ。絵崎グリコをファントムで受け入れること。これまでと同じく、仲間として扱ってくれ。あ、口約束じゃなくて、ちゃんと本部の了承を取ってくれよな」
「…………少し、待っていろ」
男たちの雰囲気が、少し変わる。
突き刺すような気配は薄くなり、どこか同情めいた空気すら漂っている気がした。彼らも本心では、同志を捕らえることに罪悪感があるのだろう。
グリコは前を向いていて、どんな顔をしているのかアトムからは見えない。ただ、その背中は可哀想なほどに震えていた。
それから、5分ほどが経過した。
リーダーの男は、先ほどから通信端末で本部とのやり取りを続けている。
「……どういうことですか……なぜ……そんな……!」
雲行きが怪しい。
もしもこの交渉がうまく行かなければ、行動プランを切り替える必要が出てくるだろう。
アトムが今後のことを必死に考えていると、男は通信を切って声を張り上げた。
「山崎アトム」
「なんだ」
「本部の指示だ。交渉に乗る……フリをして、山崎アトムを捕らえよ。また、裏切り者を許すわけにはいかない。絵崎グリコも拘束対象だ……とのことだ」
「そうか」
「悪いな。本部の指示だ」
「いいさ。じゃあ──」
アトムは手榴弾の安全ピンを抜く。
「最後まで、捨て身で足掻くさ」
アトムは叫んだ。
やけっぱち、全力の咆哮だ。
スタンロッドを投げ捨て、爆発寸前の手榴弾を手に持って走る。前方の集団は焦った様子で蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
隣にはグリコがいた。
「グリコさん、一緒に」
「もちろんです」
二人は手をつなぎ、全力で走る。
腰を抜かした男の横をすり抜け、包囲網を抜けだす。走って走って、その先にある橋を渡る。唖然とする男たちを置き去りにして、アトムたちは叫びながら街に向かって全力疾走を続けた。
──手榴弾は、ダミーだったのだ。