『らり』ーの終わり
わたしの勤める会社には、図書部がある。
まるで小学校のようだが、これが案外使い勝手がいい。月にわずか三百円の部費だけで、話題の新刊が読み放題なのだ。
部長である古参の女性社員がすべてを仕切るため、特にやるべきこともなく、購入の要望だってちゃんと出せる。おまけに月に一度の部内向けメールには、購入した新刊の評論だけでなく、図書部の蔵書目録だって添付されている。小規模な図書館など足元にも及ばない優秀さであった。
その日もわたしは本棚を眺めていた。
政府の呼びかけによるノー残業デーとはいえ、特別な予定など皆無である。プレミアムとはいえないような過ごし方だが、面白い本を片手に暖かい部屋で寛ぐのもまた一興。インドア派のわたしは、退社時間になるとこうやって部署の片隅にある本棚を物色するのだ。
本屋とは違って他に誰もいないので、気兼ねする必要もないのが助かっている。実のところ、この本棚を使う人にわたしは会ったことがない。なんとも勿体ないことに、付き合いで図書部に所属する人がほとんど。部長である彼女とわたしだけが完全に丸儲けである。
そのせいなのだ。急に名前を呼ばれて、悲鳴をあげたのは。人の気配に気がつかなったわたしは、正直なところ挙動不審だったと思う。そんなわたしを見てあの時と同じ少しだけ困った顔で、営業部のエースは穏やかに尋ねてきた。お勧めの本は何かあるだろうかと。
話を聞けば、海外にいるとある支社長に、出張のついでに日本語の書籍を持ってくるように言われたそうだ。ネットで購入すると、驚くような金額の関税がかかるのだとか。
それに電子書籍が簡単に手に入るようになったとはいえ、紙のページをめくる心地良さには代え難いものがある。縁遠い支社長を、少しだけ身近に感じた。それにしてもこんな個人的な頼みごとをされるなんて、彼はよほど信用されているのだろう。
支社長を思い浮かべ、本棚に目をやる。どんなジャンルがお好みだろうか。海外生活はきっと気疲れするだろう。気軽に読めて、読後感の爽やかなものがふさわしいに違いない。
いくつか頭の中にピックアップしてみたものの、あいにくこの本棚にはなさそうだ。自宅にはわたしが買い求めたものがあるのだけれど、まあタイトルだけ伝えておこう。そう思っていたはずなのに、わたしはなぜかとんでもないことを口走ってしまった。
わたしのもので宜しければ、お貸ししましょうか。支社長のお好みに合うか確かめてみて、その後本屋さんに行ってみてはいかがですか。
そんなわたしの言葉に、彼は助かるよと優しく微笑む。名前そのままのシュガーな笑顔を受けて、わたしは密かに赤面した。
空想の中で電話メモの余白に恋文を綴るうちに、妄想が激しくなってしまったのだろうか。本のお礼にとお菓子を頂いた。夢のような美味しさに、頼まれていた書類を超特急で仕上げると、今度は食事に誘われた。しかも大衆居酒屋ではない、お洒落なフレンチだ。
こんな感じではや数か月が過ぎている。いつか終わるだろうこの穏やかなボールの打ち合いは、楽しい反面どうしようもなく切ない。けれどわたしには、決定打を放つ勇気などない。今日もため息をひとつつき、ただ甘い疼きに身を委ねる。