『めも』を捨てる
お仕事お疲れさまです。
字が下手なわたしは、この一言を書くだけで緊張してしまいます。恥ずかしながら、手汗で紙がよれてしまわないかだって心配です。
今日は急に暖かくなりましたね。先々週の大雪騒ぎがまるで嘘のよう。久しぶりに来客の方からアイスコーヒーをお願いされて、外はそんな陽気なのかとびっくりしました。きっと春はすぐそこなのでしょう。
暑い夏に寒い冬、台風のときでさえ呼び出しのかかる営業さんは、本当に大変ですよね。
わたしなんて部長に頼まれて、お取引先の手土産を買いに駅前に行くだけでうんざりするくらいです。それなのに、あなたは常に爽やかな笑顔。今朝外回りにでかける時だって、後ろ姿が軽やかでした。
クレーマーと名高い方を相手にしていようと、あなたはどこか優しげな表情と柔らかな声をしていて、わたしはつい見とれてしまいます。電話越しとはいえ真摯な対応をしていること、きちんと先方に伝わっていることでしょう。
そう言えばあなたは、事務の女性に八つ当たりやセクハラをしたことのない大変貴重な男性なんですよ。昔気質の男性が多いこの会社では、天然記念物に指定した方が良いくらい。
だからあなたに憧れている女性は数えきれないほどいるのですが、それはきっと既に自覚がありますよね。先日のバレンタイン、すごい量のチョコレートが机の上にありましたから。
ところで、あの雪の日に頂いたココア、本当に美味しかったです。温かくて、優しくて、今まで飲んだココアの中で一番でした。お気に入りだったココアが、ますます特別になりました。
人が恋に落ちるきっかけというのは、本当に単純なのです。あなたは呆れて笑うでしょうか。困ったように少しだけ首を傾るでしょうか。
とはいえ不器用で地味なわたしは、自分の心を空想の手紙でしか伝えることができません。わたしだって身の程はわきまえています。
一読すればその瞬間に不要なごみとなる小さな紙切れ。その空白の一言欄が、まさか見えないラブレターだなんて気がつくことはないでしょうね。
けれどわたしは幸せです。あなたが笑うと、まるで日差しがさしたかのように、この世界が明るくなるんです。年甲斐なく胸を高鳴らせたりなんかして。
わたしがお昼休みに社内に残って電話番をしている理由はつまりそういうことなのです。
<電話がありました>
営業部一課 佐藤様へ
一枚貝株式会社 技術部 塩田様より
2月16日(金)午後12時22分頃
□電話がありました
〼のちほど電話をします
□折り返し電話をください
□ご用件は以下の通りです