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これまで生きてきた中で、こんな時間からかつ人に見られないようこっそりと外出する経験なんて無かったから、見慣れた場所の見慣れた風景もなんだか新鮮なものに見えた。
家を出て玄関のドアがしまった瞬間に、これ以上思い悩むのはやめた。そうしたら、意外なほどこころに余裕が生まれてきた。
と、思っていたのは病院の入り口に着くまでで、要は単に問題を先送りしただけのようだった。
病院に正面から入るのは流石に無理だろう、と思っていた。しかし現実は、正面入り口はそれこそ不自然なまでに人の気配がなく、その上入り口の自動ドアが半開きになっていた。
明らかに不自然な状況だった。不自然で、俺にとって都合のいい状況。これが、カゼの言う人払いだろうか。
結局正面から中に入る。照明は点灯しているし、何か非常事態が起こったような気配もない。ただ、人がいない。それは少し不気味なことだった。と同時に、この状況をカゼが意図的に作り出す力を持っているのだとしたら、川島を救うという言葉の信憑性も増してくる。
エレベーターも動いているようだったが、流石にまずいような気がして階段を使った。ついにたどり着く目的の病室。
ここに来てまたもためらいが生じる。この先に進んだらいよいよ戻れない予感。もうとっくに戻れないところに来ているはずなのに。悩んでも仕方のない状況だとわかっていてもなお進むのをためらってしまうのはなぜだろうか。
「伊藤さん」
突如、横方向から声が聞こえた。つまり、部屋の中からではなく、俺が通ってきた廊下の方から。ささやくと言うほど小さくもないが、どこか遠慮がちというかためらうような声。
「……止めに来たのか?」
声の主はルカだった。
「はい。あなたがその扉を開くなら、私も強引な手段を取らざるを得なくなります」
今度ははっきりとした物言いだった。ちょっとだけ気圧されそうになっている自分の心を慌てて励ます。
「じゃあ、そうしろよ」
半分は対抗心と言うか、強がりというかとにかくそんなもので俺は目の前の扉を開いた。
「よう。来たか」
果たして、病室の中にはカゼがいた。入って正面の窓際に寄り掛かって腕を組んでいる。月明かりに照らされて、なんとなく神秘的な風景だった。
何か言おうと思って口を開きかけた瞬間。俺の隣を黒い何かが追い越していった。ルカだった。
ルカがまっすぐカゼに飛びかかっていった。すぐにはわからなかったが、その手には黒い大鎌が握られていた。
カゼもカゼで大して驚きもせずにそれを受け止める。同じく黒い大鎌で。金属同士のぶつかり合う音が響く。
「なんだ。お前も来たのか」
ルカは無言でカゼへの攻撃を続行する。たいして広くもない部屋のスペースを最大限活用しながら大胆に動きまわっているかと思えば、それでいて攻撃対象以外のどこにもぶつからず器用に大鎌を振り回す。
動きと手数で攻めるルカと比較すると、カゼの動きはとてもゆっくりしていた。遅いながらもルカの攻撃に適切に対処し、その上カウンター的に反撃もはさむ。現状は互角のようだが、雰囲気的にはカゼのほうが強そうに見えた。
突然の出来事に驚きはしたが、その一方で冷静に状況を把握しようとする自分がいた。今日1日で非日常的な現象に耐性が付いたのかもしれない。
もう一つ不思議なことは、鎌同士がぶつかり合って相当な音が出ているにも関わらず、誰かがやってくる様子もないばかりか、同じ病室で眠っている川島でさえ目を覚まそうとしないことだった。まるで、世界の時間が止まっているかのようだった。
しばらく、ルカのラッシュが続いたが、カゼがうまく捌ききったようで、ルカは一旦カゼから距離を置いた。
「ずいぶんなご挨拶じゃないか」
「あなたの、好きには、させない」
「まあいいさ。それよりも悟。ここに来たということは世界を否定する決心がついたってことだな」
「うるさい!」
ルカが飛びかかる。しかし、それに呼応するように動いたカゼの鎌がルカの攻撃の起点をとらえ、ルカは思わず立ち止まった。
「どうなんだ。悟」
カゼはルカを目でけん制しつつ俺に問いかける。
ここが、この返答が運命の最後の分かれ道だ、そう思った。ふと、ルカに突き付けられた鎌が、同時に俺の心にも突き付けられている、そんな感覚を覚えた。いや、違う。俺は自分の消極的な気持ちと決別しようとしているのだ。鎌を突き付けているのは、俺のほうだ。
「ああ。いらない。こんな世界ならいらない」
「伊藤さん!」
ルカはカゼのけん制をもろに受けて、進むことも退くこともできな状態のようだった。カゼから視線を外せない状態から、それでも声を上げる。
「そうだ。目を覚ませ。こんなのは幻想さ。死神なんざ存在しねぇ」
そうだ。幻想。死神なんて、ルカなんて最初から居なかった。考えてみたら変な話じゃないか。
そもそも出会いだってそうだったし、ルカが倒れたのにその日のうちに俺の家に現れたことも、普通じゃない。
そう思ったら、急に頭の中の靄が晴れるような感覚にとらわれた。そうだ。ルカはいなかった。記憶が巻き戻る。
昨日、神社にいたのは俺と川島だけだ。
「伊藤さ――」
急に、ルカの姿が見えなくなった。いや、最初からいなかったのだ。
そうだ。ルカが俺の幻想だったなら、川島が今ここにいるのだって、それどころか、俺がここにいることだって辻褄が合わない。
どこだ、どこからがこの幻想の始まりだ? 不意に、不思議な浮遊感にとらわれ、僕の視界はブラックアウトした。