第8話☆沼川海湖5
美智子は、四谷警察署に到着すると有無を言う暇も無く取調室に入れられた。
座っている美智子の後ろにある窓には鉄格子があり、普通の人間はその鉄格子を見て署内の物々しさを感じるのだが、美智子は違っていた。
「ここが、かの有名な取調室ですね」
美智子は、嬉しそうに目の前の机を両手で触っている。
「机と、椅子と、……あれ?」
美智子は物足りなさを感じて首を傾げる。
同室している刑事の小川が聞く。
「どうしました?」
「カツ丼が無い。なぜ?」
美智子の疑問に、小川はまた笑い出す。
「あははは。美智子さんって本当に面白い人ですね」
「面白いって。私、真面目に聞いているのに……」
美智子は表情をムッとさせて、机の上にあったアイスコーヒーを飲み干した。
箕浦は取調室の外に立ち、取調室から漏れてくる美智子の声と小川の笑い声に頭を抱えていた。
「最近の若いもんは一体何を考えているのか。訳が分からん」
「箕浦さん。若者の考えも理解しないと。これからの捜査の相手は若者が主流になってくるんですから」
同僚の刑事に言われ、箕浦は顔をしかめる。
「ああ。分かっている。分かってはいるが……」
箕浦は、バカな若者は受け入れられんという表情をしながら目の前に出された書類を見た。
「もう彼女の身元が割れたのか」
「彼女はプロの小説家のようです。ペンネームは沼川海湖」
「沼川海湖!? プロの小説家だと!!」
驚きを隠せない箕浦の表情を見ながら同僚の刑事は頭を縦に振る。
「はい。出版も10冊以上出していますね。顔写真付きの本の紹介がインターネットに出ています。署に来てからの彼女のはしゃぎようったら」
同僚の刑事は、来たばかりの美智子の様子を思い出して、笑いながら続けて言う。
「きっと彼女にとっては、この四谷署も小説のネタにすぎないんじゃないですか」
「なんてこった……」
箕浦は急いで取調室のドアを開けて美智子を呼ぶ。
「美智子さん。わざわざ四谷署に来て頂き、真鍋幸彦についての情報提供をして下さり有難うございました」
「え!? 私まだ何も話してないですよ」
美智子は2杯目のアイスコーヒーを飲みながら言う。
「美智子さんは、沼川海湖というプロの小説家だそうですね。我が四谷署としては、沼川先生に来て頂き、とても光栄です。もう帰って頂いていいですよ」
「はあ!? 私、真鍋ちゃんについて何も聞かれてないし、何も答えてないです」
箕浦は丁寧な口調で言いながら、しかし行動は美智子を立たせようとして必死に腕を持ち上げる。
「ちょっと、強く掴み過ぎ。腕が痛いです」
美智子としては、まだ取調べが終わっていないので立つものかと机にしがみ付いている。
「小川、手伝え!」
箕浦の言葉に、小川は笑いながら反対側の美智子の腕を掴む。
「私、まだカツ丼も食べてないんです」
美智子は訴えるが、有段者の刑事2人にとって女性一人の体重は軽く感じるようで、箕浦と小川は軽々と美智子の両脇を抱えて美智子を歩かせ、四谷警察署の外に出してしまった。