第3話☆織姫と彦星3
彼女は果物ナイフの柄を掴むと、ナイフが固定してあったテープを引き千切り、左の袖口から果物ナイフを抜き取った。
幸彦は、まだ彼女の変化に気付かずに瞳を閉じて彼女の唇や頬、首筋にキスをして愛撫を続けている。
「1時間だけでいい。ホテルへ。俺、もう我慢できないよ」
「私も。……もう我慢ができない。幸彦を愛し過ぎて」
「なら、今からホテルへ行こう」
幸彦がキスをやめて彼女から離れた瞬間、彼女は急いで幸彦の胸に飛び込んだ。
「どうしたんだ? ホテルに行かないと――!」
本当の痛みと辛さは、物事が過ぎてから感じるものなんだと幸彦は今になって思い知る。
「な……ぜ……?」
幸彦は痛みと息苦しさを感じながらやっとの思いで声を出す。だが、その声は幸彦がどんなに頑張っても弱々しく口から出るだけである。
彼女は幸彦の腹に果物ナイフを突き刺していた。場所は鳩尾の軟らかい部分。そこから斜め上に向けて果物ナイフは刺さっていた。
彼女は飛び散る血を予想して、ポケットからタオルを出してナイフが刺さっている場所を押さえる。これで彼女自身は返り血を浴びる事はない。
幸彦は、すぐ後ろにあったビルの壁にもたれ背中を擦らせながら腰を下ろして地面に尻をつけた。
彼女も幸彦と一緒に腰を下ろしてしゃがむ。
通行人からは、二人が地面に腰を下ろして会話をしているようにしか見えず、相変わらず通行人は無関心に通り過ぎて行く。
幸彦の鳩尾に刺さっているナイフの場所から血がどんどん溢れ出しタオルは瞬く間に真っ赤に染まる。
幸彦は、紫色に変わった唇を動かすがもう声は出ない。それでも彼女には幸彦が何を言っているのか分かるようで、幸彦と同じ目線で答える。
「愛しているから。だからなのよ」
彼女は別のポケットからもう一枚のタオルを取り出した。血で赤く染まったタオルの上に重ね、果物ナイフをゆっくりと抜く。その後すぐに同じ鳩尾に果物ナイフを突き刺した。更に奥深くに。
幸彦の瞳は見開いて彼女を見ている。そしてまた何かを言おうとして口を開けた時に、幸彦の瞳は光を失い、首は力を失い、頭は横に傾いた。
彼女は、死ぬ寸前の幸彦の声無き言葉にも返事をする。
「私も愛し過ぎてしまったの。本当に私たち似たもの同士よね」
幸彦の開かれた瞳は動かなくなったものの、通り過ぎて行く通行人を映し続けている。
彼女は流れ落ちた涙を右の袖で拭うと、タオルで押さえながらゆっくりと果物ナイフを抜き取った。
ナイフに付着している血を、幸彦の腹の上にあるタイルで丁寧に拭って、左の袖口にナイフを入れる。その左腕に残っている粘着テープで果物ナイフを固定すると静かに立ち上がった。
赤くなったタオルを腹に乗せて、壁にもたれて座っている幸彦は、路地の日陰でのんびりと休んでいるように見える。
彼女は、少量とはいえ手についた血を隠すためにポケットから取り出した黒い皮手袋を手に装着する。もう一度幸彦を見て、喉の奥に流れる涙を飲み込んだ。
「さようなら、幸彦」
彼女は何事も無かったように静かに歩き、路地を出て行った。
二人が路地にいた時間は20分弱。
その後、死んでいる幸彦を見つけたのは、運悪く路地を通ってしまった若いカップルだった。