第2話☆織姫と彦星2
通行人は路地で話す二人を気にも留めず通り過ぎて行く。通行人にとっては、真鍋と彼女はどうでもいい存在なのだ。ましてや、これから起こる出来事など予知できるはずもない。
彼女はその通行人の心理を知っているのだろうか。それとも迷いの無い彼女の思いが周囲の目を気にせず行動させてしまうのだろうか。
彼女は人目を気にする事なく真鍋に近づいて真鍋の胸に顔を埋めた。
「愛しているわ、幸彦。私のこの気持ちがあなたに伝わるといいんだけど」
真鍋は彼女を抱いて言う。
「君の気持ちは先週聞いたから、もう充分過ぎるほど知ってるよ。なぜ去年言ってくれなかったんだ。この一年、俺はどれほど君を恨んだ事か」
「分かってくれると思ったのよ。私と幸彦は似ているから」
彼女は幸彦の胸から顔をあげ幸彦をまた見つめる。
幸彦と彼女の顔はくっ付きそうなくらい近い。
彼女は幸彦の唇を見つめる。一年前、幸彦と一つになろうと思い求めた幸彦の唇が目の前にある。
幸彦との体の相性はとてもよい。性格も似通っていて言葉を交わさなくても思いが通じる時がある。
今のこの瞬間も。
しかし、幸彦は彼女の心の根底にある思いだけは気付かずにいた。
彼女は、幸彦の腕に抱かれながら昔と変わらない甘えた声で言う。
「幸彦、キスして」
綺麗に縁取られて赤く塗られた唇。彼女の唇がどれほど甘いか幸彦は当然の如く知っている。そんな彼女から誘われて男の本能をくすぐられた幸彦は断れただろうか。幸彦は彼女に言われた通りに顔を近づける。
だが、もう少しで唇が重なり合うという時に幸彦の動きが止まり、彼女を抱いたまま顔を遠ざけた。
彼女の瞳は距離ができた幸彦の顔をじっと見ている。
幸彦も彼女を見つめながら言う。
「前もって言っておくけど、何があっても、俺の「結婚したい」という思いは変わらないよ」
「ええ。1年前の幸彦も私にそう言ったから分かっているつもり。だから私はここに来たの」
彼女は幸彦に顔を近づける。
「幸彦、キスを」
「君という人は――」
幸彦と彼女は唇を重ね合わせた。互いの思いを確かめ合うように、最初はモールス信号のように一定のリズムで唇と舌を触れ合わせ、途中からは互いの欲するままに相手の唇を貪り合っていく。
幸彦は、彼女の唇の甘さに酔いしれ、その刺激に興奮して彼女の体の温もりを求めて、首筋にもキスをしていく。
しばらくの間、彼女は瞳を閉じて幸彦が本能のままに身体にぶつけてくる快楽を感じていたが、キスの位置が徐々に下へ移動し鎖骨にキスをされた時に瞳が開いた。
その瞳にはなんの感情もなかった。口からは吐息がもれ、彼女の腕も手も指先も幸彦を求め、喜んで幸彦と腰を擦り合わせて幸彦の存在を全身で感じているのに、彼女の瞳だけは冷静に一点だけを見つめていた。
通行人は路地の陰で抱き合い情事を重ねている二人に見向きもせず通り過ぎて行く。
彼女の瞳は斜め上にある空を見つめていたが、幸彦が鎖骨にキスをしながら「近くのホテルへ行こう」と言った時、彼女は瞳を閉じた。閉じた瞳から涙が流れ落ちる。
その後、幸彦の愛撫を受けるだけだった彼女の行動が一転する。彼女は幸彦の背中にあった両方の手を、幸彦に気付かれないようにゆっくりと動かして、右手を左の袖口に入れた。
袖の中にあるのは、あらかじめ用意してあった果物ナイフ。薬局で購入した医療用の粘着テープで左腕の肌に直接固定してある。取り出しやすいように刃の部分を奥に、柄の部分を手前にしてある。