第1話☆織姫と彦星1
事件は突然訪れる。
早朝の出勤のために先を急いでいた車が運転を誤って車道をはずれて田んぼに突っ込む。
車は車体を揺らしながら田んぼに浮いて、その後車体は静かに沈みドロの中にタイヤを落ち着けてゆく。
当然運転手は、まさか自分が事故を起こすなんて思ってもみなかっただろう。革靴で田んぼの中を歩く運命である事さえも。
東京都新宿にいる35歳の真鍋幸彦も、まさか自分が――と思った一人だった。
まだそういう運命である事を知らない真鍋は幸せの絶頂期にいた。
その理由は、愛しい相手に会えるからである。
7月1日。午後2時。新宿駅前は今日も晴れていた。
日陰にいても蒸し暑く汗が滴り落ちてくるが、ショーウインドーに並んでいる七夕の飾りが夏風に揺れて、それを目に留める通行人にせめてものと涼しげな風情を伝えている。
真鍋は左手首にある腕時計を見ながら彼女を待ち続ける。
彼女との待ち合わせ時刻は2時なのだが、少々遅れても全く気にならない。
彼女は必ずやって来るという自信があるからだ。
真鍋が着ているのは新調したばかりのスーツ。彼女はこのスーツを気に入ってくれるだろうか。
「俺との結婚を考えてほしい」と言ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。
真鍋は、彼女の事を思っただけで興奮してしまう自分を落ち着かせるために、口から息を吐いて深呼吸をした。
午後の新宿駅前の人通りは多い。人ごみから目的の人物を探すのは容易な事ではない。
彼女から見ても、新宿駅前にいる真鍋を見つけるのは難しいはずなのだが、彼女は約30メートル離れた場所から真鍋を見つめていた。
会社員が多く行き交う新宿駅前で、7月になった今も長袖姿で歩く人は多い。
彼女もこの蒸し暑い時期に長袖姿で歩く一人だった。
道を行く人ごみが束となって真鍋の姿を隠しても、彼女の目はずっとその先にいる真鍋を見続けていた。
彼女は一直線に歩き真鍋に近づく。
真鍋が彼女に気づき笑顔になった時、彼女も笑顔になった。
真鍋と彼女は言葉を交わさずに肩を並べて歩いて行き路地へ入って行く。
そして路地の途中で立ち止まり、真鍋は口を開いた。
「君が俺を誘うなんて思ってもみなかったよ。待ち合わせ場所も1年前と同じ新宿駅前」
真鍋は懐かしそうな表情をして話す。
彼女も真鍋に好意があるようで、真鍋の顔や髪型、服装といった真鍋の全てを見つめながら話す。
「先週会ったばかりなのに」
「でも、去年別れたこの場所で会うのはイヤだって言って、君はここで待ち合わせるのをイヤがっていたじゃないか。俺もここで君にフラれてるからこの場所で会うのは結構辛いんだぞ」
真鍋は視線を下げて過去を思い出す。
彼女はそんな真鍋をずっと見つめている。
「あなたをフッたんじゃないわ。都合で会えなくなるって言っただけよ」
真鍋は顔をあげる。
「確かにそうだが、俺にしてみればフラれたも同然だよ。あの時の俺はフラれた悲しみを忘れるために、どれほど酒を飲んだ事か」
真鍋の彼女を見つめる瞳は真剣だ。
彼女も真鍋の行動の一つ一つをずっと見続けていた。