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飢え

作者: James N

 二人分の食器が奏でる煩わしい音が広すぎるダイニングに雨のように落ちていた。窓の外は東から上った太陽の押しつけがましい光に包まれて目覚めを強要されている。だというのに俺の心はそのどちらでもなく、曖昧に曇ったまま味のしない飯にナイフを通していた。

「最近学校で変わったことはないかしら」

「特にありません」

 毎日聞いているのに吐き気がするほど慣れない声。聞きたくないから、一言で会話を終わらせる。実際変わったことなどない。

「体調はよろしくて?」

「大丈夫です」

 言葉を吐くたびに心が閉じる。だけど問題ない。この女もどうせ、俺のことを本気で心配していないのだから。

「そう、では今日も一日、家の名に恥じぬように努めなさい」

「はい、母様」

 この女に心配なのは俺の成績であって、この家の名に傷がつかないか、いかに名声をとどろかせ続けるかである。実の親をこの女と、心の中で呼ぶことにさえ勇気がいるほど俺は恐れて、食器がひときわ高く音を鳴らした。

「失礼しました」

「気をつけなさい」

「はい」

 安定が崩れはしないか。この女のだけではない、俺のすべての世界の、この針に糸を通すように奇跡的に連なっている生活が瓦解しないかと、恐れている。恐れながらも、望んでいる。いつか誰かが、何かが破壊してくれることを。


「いつもありがとう」

 静かに止まった車から出るときに気まぐれで運転手に礼を言った。こんな一言でも何かが変わるというのか。俺は何を期待しているのだろう、バカバカしさで口の端が上がる。

 何も変わらない日々は無限のようで一瞬のうちに過ぎ去る。なぜだろうか。きっと、何もかも覚えておこうとする心と、何も変わらない光景を無価値として忘れようとする心が同時に生きているから。過ごしているうちは永遠なのに、記憶になった途端に一瞬だったように錯覚する。便利なようで不便だ。逆がいい。一瞬で過ぎ去る毎日から特別な一瞬だけを味わいたい。そんな美味しいところどりができないものか。

 放課後、クラス委員としての仕事を終えてから教室に荷物を取りにいく。くすくす、というよりはもう少し激しい笑い声が、開け放しにされている引き扉の内側から聞こえてきた。

 西日が満ちた教室には三人の女子がいた。全員が開いている窓の枠に寄りかかって中庭の何かを見下ろしていた。しきりに耳障りな虫のような音で笑っている。彼女らは教室に入った俺に気づいて一瞬体を強張らせたが、それが俺だと認識すると何も見なかったように元のいやらしい雰囲気に戻った。

 窓際の席にポツンと引っかかっているカバンを手に取ったとき、階下の中庭で動く生徒が見えた。

 すぐにクラスメイトの女子生徒だと分かった。彼女は花壇や低い生垣の根本を屈んで覗いて回っていた。そして、彼女は上履きのままだった。俺にはこの三人を見たときから予想できていた。このクラスの全員が同じ予想をしただろう。教師も含めて。

 俺はさっさと教室を後にして下駄箱へ向かった。虐める理由も虐められる理由にも興味なんてない。

 だけれど、気まぐれ、登校時に運転手にお礼を言ったというほんの小さな波紋が影響したのか、俺は正門ではなく中庭に足を運んだ。そして、教室の三人の女子から死角になっている柱の陰から、まだ靴を探している哀れなクラスメイトを眺めた。

 いつも目をそらしていることを観察すれば、何か普段とは違うものが見える気がした。

 彼女は俺に気づいた様子もなく、あるいは誰に見られようと構わないという開き直りからか、夕日に晒されながら物陰だけに意識を集中させていた。

 手伝う気などない。面倒に巻き込まれるのはごめんだ。そう思っていたのに、俺の敏い目は彼女のものであろう靴を彼女より先に発見してしまった。中庭の内側からは見えにくい、けれど外側からは簡単に見つかるような植木鉢の陰にそれは転がっていた。

 ちょうど彼女が、屈み過ぎて疲れたのか大きく体を開くように顔を上げた。柱の陰にいる俺に気づいて、無表情な鏡に罅が入るように眉根を寄せた。正面から彼女と視線を交わしたのは初めてのことだった。その表情は想像していたよりもずっと攻撃的で、獰猛で、活力に満ちているように見えた。少なくとも俺なんかよりは、毎日を地に足つけて生きている顔だ。


 なぜこんな女が虐められている?

 なぜ虐められているのにこんな顔ができる?

 なぜ俺よりもこの女のほうが生を謳歌している?

 なぜ、なぜ、なぜだ。


 女はとっくに視線を切って捜索に戻っていた。

「おい」

 女が振り返ってから、自分が衝動的に声をかけてしまったことに気づいて、我に返ったように胃が収縮した。

「そこだ」

 俺は靴のある植木鉢の影のあたりを指さして、見届けることなく背を向けた。

 退屈な毎日の中で、彼女の顔が煌々と輝いていた。生の煌めきだった。

 腹の底に滞留している熱すぎる激情を原動力にするように、足早に校門を出て車に乗り込んだ。

 家の門が見えるころには、それが悔しさだと気づいていた。


満たされるために生きている。

満たされていなければ死んでいるのと同じです。

けれど私たちは一生満たされることはない。

他人は満たされているように見える、けれどその人も満たされているとは思っていない。

絶対に叶わない欲求を抱えて死んだように生きている、それが人間です。


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― 新着の感想 ―
[一言] 読みやすくて、好きな文体です(´▽`) お互い頑張っていきましょうねー!
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