一、浮遊
一、浮遊
低く横たわる機械音と遠い雨音が、まるで絨毯のように部屋中に敷き詰められている。白い画面にはただ点滅するカーソルと、その右側に並ぶ“あいうえお”の羅列。静かに並ぶキーボードを僅か撫でながら行き場を探す、その所在無さげな指先をただ目で追っていた。
追い出されるようにして辞めた会社から、それでも退職金がでた。再就職のつもりもないのに「社会復帰の第一歩だ」と意地をはって買ったパソコン。少し重い。
これを買ったときは娘も目を丸くし、「社会現象の余波がここにもきてるね、お父さん。」と、一人で頷いていた。
「週末になると、お前が旦那を放ったらかしてここに来るのも、社会現象かもな。」そう横目で睨んでも、「ワードには日記、エクセルには家計簿が特効薬らしいよ。」と、涼しい顔でお茶を啜っていた。
そんな娘が、帰り際には真面目な顔でこう言った。「うちのマー君は理想的な旦那様なんだからね。同居の件だって嫌々とかじゃないんだよ?お父さんももう65歳でしょ、ちゃんと真剣に考えといてね。」娘はそう言うと玄関のドアを開け、ポンっと透明ビニル傘を広げた。
雨音が一段と大きくなる。
「おい、お茶を飲もう。」
誰かに話し掛けるような自分の独り言に、いつもながら少し笑う。子供は出て行った。妻は死んだ。もちろん娘の結婚は喜ばしく、妻の病死は誰も何も悪くない。けれども俺は一人だ。この行き場のない独り言は、ひねくれた愚痴のようなもの。ぶつけられないから、空中に投げ捨てる。
「ある意味、我が家もごみ屋敷だ。」
また、少し笑う。