婚約家に名を消された繰り子ですが、委託の繭三十籠を返して繭商様と私の名で始めます
「あっつ!」
指を煮繭鍋から引き抜いた途端、白い緒口がまた湯の底へ沈んだ。
緒口なら箒で探せる。煮えた繭をそっと撫でれば、細い糸は機嫌を直して浮いてくる。
人の名前は、そうもいかないらしい。
「見事な生糸ですな。これほど太さの揃ったものは、なかなかない」
売り場で買い手が褒めたのは、工房主だった。
工房主はふっくら胸を張った。私はその後ろで、火傷した指を握る。汚れ繭と穴あき繭を除き、七本の緒を一筋に合わせ、一本が切れればすぐ次を足したのは私だが、どうやら鍋から上がった糸は工房主の胸を膨らませる効能まであるようだ。便利である。
「今年は特に腕のいい繰り子が入ったと聞きました。名は?」
「私の家名で出しています」
名前を尋ねられて家名を答える。質問と返事が絡まっている。玉繭なら二本の緒を分ければ済むが、これはほどくと寝床までなくなりそうな絡まり方だった。
私は口を挟まなかった。
契約期が終わる晩春まで働き、賃金を受け取り、借りていた部屋を掃き、翌朝には工房を離れた。
糸口より先に、私の名が沈んだ。
* * *
二つ目の工房では、玉繭の山が私を待っていた。
「ジヴィレなら、こういうものも使える糸にするでしょう」
期待とは、たいてい選別台の端へ押しつけられている。丸く絡み合った二本の緒を爪先で探り、切らず、焦らず、一本ずつに分ける。昼までに肩が固まり、夕方には目の奥で小さな繭が踊った。踊るならせめて糸を吐いてほしい。
それでも売れる生糸になった。
翌年の一番蚕を買いに来た商人が、主人に尋ねた。
「玉繭までこれほど滑らかに挽く繰り子は、どなたです?」
「我が家の者が仕上げました」
「お名前を伺えますか」
主人は家名を言った。
私は隣室にいた。買い手との面会には呼ばれなかったが、壁は親切だ。薄い。こちらの名前を通さないくせに、向こうの声だけはよく通す。
その夜、主人は上機嫌で言った。
「おまえも我が家の評判に貢献できて嬉しいだろう」
「部屋は来季もお借りできますか」
「働き次第だな」
糸を売れる形にした後でも、寝床は働き次第。
ずいぶん細い綱で吊られている。切られる前に降りたほうが、足首をくじかずに済む。
私は来季の契約札へ印を押さず、玉繭の見分け方だけを尋ねに来た若い繰り子へ教え、工房を出た。
二本の緒は分けられた。
私と工房も、それでよかった。
* * *
「家族になるのだから、名など分けなくていい」
初夏、タルモ様は工房の鍵を私の腰へ結びながら言った。
婚約、住居、仕事。三本合わせれば丈夫そうだが、どれも同じ人の手に握られている。一本切られたら残りもまとめて沈みそうである。たいへん合理的。握る側には。
「家の生糸が売れれば、君の暮らしも安泰だ。ここでは余計な心配をせず働くといい」
「はい」
私には余計でも、寝床には重要な心配だった。
タルモ様の家は、傾きかけた工房を立て直す腕を欲しがっていた。私は仕事場と屋根を欲しがっていた。婚約という金色の糸を巻けば、取引も縁談に見える。遠目には。
工房へ三十籠の繭が届いたのは、その日の昼だった。
一番蚕の繭は白く、よく乾き、籠の編み目越しにも柔らかな光まで詰められているように見えた。汚れ繭も穴あき繭も少ない。これなら七本、細いものは八本の緒を合わせ、艶のある生糸にできる。
籠の後ろから、腰の曲がったヤナさんが受取札を掲げた。
「耳のある者は聞いておくれ。委託、繭三十籠。委託は売り渡すことではない。預けることだよ」
タルモ様が笑う。
「分かっていますよ、ヤナさん。うちで加工して差し上げるのでしょう」
「預ける相手は屋敷ではないよ。札に名を書かれた人だ」
ヤナさんは聞き間違えようのない声で、一字ずつ読んだ。
「受託者、ジヴィレ」
私の名だった。
紙の上にある。しかも誰かの家名に吸われていない。たった四文字が、三十籠より珍しく見えた。
「確認したよ、ジヴィレ。あんたに預ける。売れた時の精算も、糸の出来の話も、あんたから聞く」
「承りました」
受取札を両手で受ける。紙は軽いのに、腰の鍵より重かった。
「形式でしょう」
タルモ様は私の肩越しに札を覗いた。
「屋敷へ届いた品なら、うちの注文品です。加工も売却も、家の判断で進めます。ジヴィレは家の者になるのですから」
「まだなっていないよ」
「だから婚約者として、責任を持って置いてやっているんです」
ヤナさんへ向けていた笑顔より、語尾が一段硬かった。私だけに届く小声でもない。買い付けに来ていたヤークさんが、籠の向こうで顔を上げたからだ。
ヤークさんは若い繭商で、養蚕家から繭や生糸を仕入れて町へ流している。商談では余計な言葉を使わない人だった。
「受託者は、タルモ家ではないのですね」
ヤークさんが尋ねた。
「札にはそうあるね」
ヤナさんが答える。
「しかし加工場はうちです」
タルモ様が割って入った。
「加工する人は?」
「家の繰り子です」
「名は?」
タルモ様の頬が、ほんの少しだけ動いた。
「ジヴィレですよ。婚約者ですから、いずれ同じ名になる」
私は受取札をたたんだ。
また私の名だけが鍋底へ沈みかけている。ただし今回は緒口が見えていた。
沈めた人も、拾う箒も、きちんと目の前にある。
ヤークさんは三十籠を見てから、私に言った。
「もし働く場所で困ることがあれば、私の家の工房にも繰り子の席があります」
「繭商様が工房まで?」
「仕入れた繭を生糸にする場所は必要です。腕の立つ者も」
腕の立つ者。
名前はついていない。まだ。
「お気遣い、ありがとうございます」
「必要なら、いつでも」
タルモ様の指が私の腰の鍵を弾いた。
「必要ありません。ここがこの人の家になりますから」
ちゃり、と鳴った。
鍵は返事をしなかった。賢い。
* * *
三十籠には、まだ手をつけなかった。
タルモ様は急げと言ったが、私は先に工房に残っていた別口の繭を選り分けた。汚れ繭を除き、穴あき繭を弾き、玉繭は別の籠へ。煮繭鍋から箒で緒口を拾い、七本を合わせる。一本が細ければ八本。太さが戻れば一本減らす。
「その加減を手順書にしておけ」
タルモ様は売却札を書きながら言った。
「本数なら書けます」
「なら問題ない。誰にでもできるようにしろ」
湯の温度、繭の乾き、糸の細り方。緒は七本でも、同じ七本ではない。毎日同じ顔をしている人間が毎日同じ機嫌でないのと似ている。もっとも人間の場合、機嫌が悪くても生糸にはならない。繭のほうが働き者だ。
私は枠に巻かれた糸を止めた。
「売却札を見せていただけますか」
「気にする必要はない」
「三十籠をお預かりした方々へ、出来上がりを伝えるためです」
「その連絡は家がする」
タルモ様は札を伏せた。遅かった。売り主の欄にはタルモ家。加工者の欄は空白だった。
「私の名は載せないのですか」
「所詮は委託仕事だ。家の名で処理する」
所詮は委託。
よかった。絡んだ二本の緒が、向こうから分かれてくれた。
私は箒を置いた。
「では、委託された三十籠を返します」
「何を言っている」
「加工前ですから、すべてそのままお返しできます」
「加工して売れと言っているんだ」
「ヤナさんたちは、私に預けました。私の名を外して家の品として売るなら、私はお引き受けできません」
「婚約者の君が、家に逆らうのか」
私は腰の鍵紐を解いた。
鍵を卓上へ置く。掌には、鍵が当たっていたところだけ白い跡が残った。
「今季の工賃は払わないぞ」
「承知しました」
「部屋も出てもらう」
「はい」
「どこへ行くつもりだ」
「先に、三十籠をお返しします」
住まいの算段は、その後だ。
野宿で緒口は拾えない。雨が降れば繭も私も湿る。怖くないわけがない。だからこそ、怖さまで鍵と一緒に卓上へ置いたことにした。持ち物が多いと引っ越しが大変である。
鍋に仕掛けていた糸は切らず、枠へ戻した。これは家の繭から挽いた糸だ。私が持っていくものではない。
腰が軽い。
懐も、ほどなく軽くなる。工賃を置いていくのだから当然だ。ここは笑うところではないが、軽量化だけは完璧だった。
私は受取札を持ち、ヤナさんの家へ向かった。
翌朝、ヤナさんは養蚕家たちを連れてきた。
タルモ様は玄関前に並んだ荷車を見て、初めは商談の客だと思ったらしい。上着の襟を直し、いつもの笑顔を作った。
「皆様、お揃いで。ちょうど加工を始めるところです」
「始めないよ」
ヤナさんが札を広げた。
「受託者を読み直す。ジヴィレ。間違いないね」
「はい」
「三十籠、まだ未加工だね」
「はい。封も開けていません」
養蚕家たちが籠の紐を確かめる。短い声が飛んだ。
「一番から五番、封あり」
「六番から十番、異常なし」
「十一番、ヤナさんの印」
タルモ様の笑顔が薄くなった。
「何の確認です」
「返却だよ」
「うちの注文を持ち出すな!」
声が工房の壁に跳ね返った。
籠へ伸びた手が、途中で止まる。誰に命じれば止められるのか、ようやく探し始めた顔だった。
「注文品ではありません」
私は受取札を開いた。
「委託品です」
「屋敷へ運び込まれた時点で、うちが加工する品だ。君はうちの繰り子だろう」
「昨日までです。鍵は卓上に置きました」
「婚約はどうする」
私は腰の空いた鍵紐を外し、鍵の隣へ置いた。
「仕事と住居を保証する婚約でした。どちらもなくなりましたので、お返しします」
婚約そのものに鍵はない。けれど、結ばれた紐をほどくことはできた。
「勝手なことが認められると思うのか」
タルモ様は養蚕家たちを見回した。
「代金なら払う。予定どおり、うちで加工する」
「売っていないものの代金は受け取れないね」
ヤナさんは札の一行を指で叩いた。
「屋敷へ売ったんじゃない。札にあるジヴィレへ預けたんだよ」
毎年、同じ意味を読んできたのだという。今日はその言葉が、工房の扉をいっぱいに押し開けた。
「お預かりしたのは私です。ですから、三十籠とも私がお返しします」
最初の養蚕家が一籠を担いだ。
「受託者ジヴィレから、一籠返却を受けた」
二籠目が敷居を越える。
「受託者ジヴィレから、二籠返却を受けた」
タルモ様が扉の脇へ寄った。三籠、四籠、五籠。籠が通るたび、立てる場所が狭くなる。
「待て。待ちなさい。加工できる者はほかにもいる」
六籠目を担いだ養蚕家が答えた。
「なら、その人に預ける時は、その人の名で札を書く」
「手順書もある。七本か八本を合わせればいいだけだ」
「では、その手順書で、ご自分の繭を挽けばよろしいかと」
ヤークさんだった。
荷車のそばに立ち、籠を受け取って積み直している。
「繭商が口を出すな」
「私は運搬を頼まれました」
商談の時と同じ、短い声だった。
「それと、買い付け先を失う商いには関心があります」
品のある人は、たまに薄い刃を袖から出す。あれは痛い。タルモ様の口が閉じたので、よく切れたらしい。
十籠。十五籠。二十籠。
私は数を叫ばなかった。養蚕家たちが一籠ずつ受け取り、自分の印を確かめ、私へ頷く。それで十分だった。
「ジヴィレ、考え直せ」
タルモ様の声は、もう工房の奥まで届かなかった。
「君を置いてやったのは誰だ。二つの工房を辞めた君に、仕事を与えたのはこの家だぞ」
「ありがとうございました」
「なら——」
「鍵も、当季の工賃も置いていきます」
返すものは返した。
奪うものはない。前の工房の売り上げも、ここで挽いた生糸も、タルモ様の家も。
もう、あの人に使う指は一本も残っていない。私の指は、緒口を拾うためにある。
二十九籠目が敷居を越えた。
三十籠目をヤナさんが担ごうとして、ヤークさんが先に持ち上げた。
「これは私が」
「腰を痛めても知らないよ」
「商人は、売る品の重さくらい知っておくべきです」
「これはまだ、あんたの売る品じゃない」
「はい。ですから、受託者の指示を待ちます」
ヤークさんは籠を抱えたまま、私を見た。
タルモ様ではなく。
「荷車へお願いします」
「承知しました」
三十籠目が敷居を越えた。
胸の奥で、何かがすこんと抜けた。たぶん緒口ではない。もっと太くて、長く絡んでいたものだ。
ざまあみろ、とは思わなかった。
ただ、三十籠ぶん空いた工房は、実によく風が通りそうだった。
養蚕家たちは荷車へ籠を積み終えると、一人ずつ私に言った。
「返却、確かに受けた」
「ありがとう、ジヴィレ」
「次に預ける相手は、また相談する」
家ではなく、私へ。
最後にヤナさんが受取札の返却欄へ印を押した。
「これで預かりは終わりだよ」
「はい」
受取札を返すと、両手が空になった。
鍵もない。工賃もない。婚約も、今夜の寝床もない。
それでも掌を閉じずにいられた。何も持っていない手は、誰かの所有物でもなかった。
「ジヴィレさん」
ヤークさんが呼んだ。
「三十籠の新しい受け入れ先について、話があります」
「繭商様としてですか」
「はい。それと——」
言い直そうとして、やめたらしい。
「まずは商談を」
「分かりました」
商談は屋根のあるところでするものだ。ありがたい。私の今後には屋根が不足している。
ヤークさんが案内したのは、町外れの空いた工房だった。
窓が大きい。選別台へ明るい光が落ち、煮繭鍋の上には煙を逃がす高窓がある。枠も、箒も、糸を乾かす場所も揃っていた。
あまりに揃っている。
助ける気満々ではないか。商人は商機を隠すものだと思っていたが、この人は善意の梱包が下手らしい。角が全部出ている。
「私の家が使っていた工房です」
ヤークさんは一枚の札を出した。
「ここなら三十籠を引き受けられます。あなたには、私の家の繰り子として働いていただきたい。住居も用意します。工賃はこれまでの——」
「ヤークさん」
「はい」
「それでは、鍋が替わるだけです」
札を持つ手が止まった。
「鍋、ですか」
「前の二つの工房でも、タルモ様の家でも、私は誰かの工房の繰り子でした。私が選り、私が緒を合わせても、売る時には持ち主の名だけが残ります」
「私なら、あなたの名を加工者として載せます」
「載せてくださるのですか」
「もちろんです」
「載せない判断も、ヤークさんができるのですね」
高窓から入った風が、札の端を揺らした。
私は空の両手を選別台へ置いた。
「雇う人が誠実なら安心です。でも、その人が誠実でなくなった時、私はまた鍵と工賃と寝床を一度に失います」
「私を信用できないと?」
「信用したいと思っています」
ヤークさんは返事をしなかった。
「三十籠を持ち上げる前に、私の指示を待ってくださいました。養蚕家の方々から買い取ってもいない繭を、自分の品とは呼びませんでした。信用するためのものは、もういただいています」
彼の指先が、札の角から離れた。
「ですが、私が欲しいのは新しい持ち主ではありません」
爪の間に残った繭の屑を、一つずつ払った。
「預かった方へ、自分の名で責任を負える場所です。失敗した時も、うまくいった時も、私の名で返せる場所が欲しいんです」
ヤークさんは札を見下ろした。
そこには彼の家の名が記されていた。
「私は、あなたを助けるつもりでした」
「はい」
「腕のある繰り子を雇い、住居を用意し、正当な工賃を払えば、それで」
「充分にありがたいお話です」
「充分ではないのでしょう」
「私には」
彼は札を二つに折った。
破らない。売却札や受取札を粗末にしない人なのだろう。折ったものを懐へしまい、今度は何も持たずに選別台の向かいへ立った。
「案を撤回します」
早かった。
「今、ですか」
「今でなければ、あなたはまた工房を出ていくでしょう」
「まだ入ってもいません」
「それでも困ります」
困る、と言った後で、ヤークさんは一度息を吸った。
「仕事の話です。まずは」
「はい。まずは」
「この工房は、あなたの名で借ります。設備の使用料は、生糸の売り上げから一定の割合を払う形にする。私は繭と生糸の販売を請け負いますが、価格と納期は、あなたの承諾なしに決めません」
「私が三十籠を預かるのですか」
「ヤナさんたちが、あなたへ委託するなら」
「失敗した時の損は?」
「加工の失敗はあなたの負担。私が無理な納期や価格を約束した損は私の負担。繭そのものの不良は、預け主と相談する」
誰が負担し、誰が決めるか。
一本ずつ分けていく。絡んだまま、きれいな布で包まない。
「販売札には?」
「生糸の製作者として、あなたの名を記す」
「ヤークさんの家名と並べてですか」
「いいえ」
彼は選別台の上へ指を滑らせた。埃を拭い、何も書かれていない場所を作るように。
「工房の看板は、ジヴィレ。あなたの名だけです。私は販売を請け負う繭商として、別の欄に署名します」
その日の夕方、ヤークさんは本当に看板職人を呼んだ。
口約束を一晩寝かせて、美しい別物に煮上げるつもりはないらしい。
「名は、これで間違いありませんか」
板へ下書きされた文字を、看板職人が示す。
ジヴィレ。
その下にも横にも、所有者の名はない。
「はい。私の名です」
声が少し掠れたので、咳払いをした。繭の埃ということにしておく。便利な埃である。
ヤークさんは私の隣にいたが、板へ自分の名を足さなかった。
翌日、ヤナさんたちが三十籠を運び込んだ。
「委託、繭三十籠」
ヤナさんが新しい受取札を読む。
「受託者、ジヴィレ」
「承りました」
「販売を頼む相手は?」
「ヤークさんです。価格と納期は、私と依頼主の承諾を得て決めます」
「よし」
ヤークさんはそこで初めて、自分の欄へ署名した。
私の名を消さず、私の名の下へも入らず、別の役目を別の欄に。
字が乾くまで待ってから、札を私へ渡した。
それから数日は、工房を使える形に整えた。
ヤークさんは勝手に棚の位置を決めなかった。鍋を二つ入れたいと言えば煙道を確かめ、選別台を窓へ寄せたいと言えば自分で片側を持った。
「繭商様に机を運ばせてよいのでしょうか」
「販売を請け負う者は、製作者の納期を守るため努力すべきです」
「立派な理屈ですね」
「腰が痛いので、早く置く場所を決めてください」
商談では簡潔、重い机には正直。
私は笑いながら台の脚を誘導した。ごとん、と床へ置かれる。ヤークさんは腰を押さえ、私は曲がった位置を直す。
看板の下で、私の指はもう強張らなかった。
だから私も、ひとつ尋ねることにした。
「ヤークさん」
「はい」
「どうして、ここまでしてくださるのですか」
彼は新しい受取札を取り出した。
また仕事の話へ戻るのかと思い、私は両手を差し出す。
ヤークさんは札を私の手へ載せなかった。
選別台へ置いた。
私の空の両手へ、彼の右手が差し出された。
「受取札ではなく、あなたの手ですか」
「はい」
彼は一度、言い直すように口を閉じた。
「私は、あなたの腕が欲しかった」
指先がわずかに下がる。それでも引っ込めなかった。
「最初は、自分の家へ迎えれば守れると思いました。あなたが何を守って働いてきたのか、見ていなかった」
三十籠を返した朝と同じ手だった。
籠を持ち上げる前に、私の指示を待った手。
「あなたが欲しいのは、囲う家ではなく、自分の名で責任を負える場所だった。ですから、仕事ではその場所を守る側に回りたい」
ヤークさんは私を見た。
「私事では、隣を望みます」
工房の外で、看板を掛ける槌の音がした。
一度。
二度。
私の名が、扉の上へ固定されていく。
「仕事には署名を。人生には、できればあなたの返事をいただきたい」
「婚約、ということですか」
「はい。ただし住居と仕事を人質にはしません。断られても、販売の契約は変えない。工房もあなたの名のままです」
逃げ道まで、彼は自分で開けた。
開いた上で、ここにいてほしいと言う。
「私は二度、工房を出ました」
「知っています」
「三度目は婚約家を出ました」
「見ていました」
「次も、名を消されたら出ていきます」
「消しません」
「値段を勝手に決められても」
「相談します」
「寝床を盾にされたら」
「私の寝床を外へ出します」
「それはご自分が困るだけでは?」
「かなり困ります」
真面目な顔で答えるので、とうとう吹き出した。
笑った拍子に、差し出されたままの手が揺れる。
私はその手を取った。
「助手ではなく、隣に立ってください」
ヤークさんの指が閉じる。強く囲わず、私が握った分だけ返してくる。
「はい」
「販売を請け負う側として」
「はい」
「それから、伴侶として」
「はい、ジヴィレ」
ようやく糸口が浮いた。
誰かの家名へつなぐ糸ではない。使う側と使われる側を結ぶ縄でもない。
私と彼が、それぞれの手で持てる一本だった。
「では、ヤーク」
初めて呼ぶと、彼の耳が見る間に赤くなった。
繭商は値の動きには強いが、呼び名一つの変動には弱いらしい。
「三十籠が待っています。隣に立つ方には、まず汚れ繭の籠を運んでいただきます」
「求婚を受けた直後の仕事が、それですか」
「伴侶の仕事を尊重してくださるのでしょう?」
「もちろんです」
ヤークは上着を脱ぎ、袖をまくった。
言葉の次に行動が来る。
ならば信用できる。
扉の上で、槌が最後の一打を響かせた。




